『夜警』

 翌朝、近くにある新か旧教会の鐘の音で目が覚めた。
何しろ時計を持っていないので時間が判らない。 と言って、教会の鐘やオルゴールの音はしょっちゅう聞こえるのでこれを当てにも出来ない。 取り敢えず、食堂へ行くともう食事の準備が出来ている。
パンにバターやジャム、簡単なサラダにコーヒーの朝食。 嫁さんはミルクを飲まないといけないと言うのでミルクにした。 
 さて、今日の予定はと、食事をしながら彼女と相談する。
二人が共にまず行ってみたい所として選んだ場所、それは「アンネフランクの家」だった。
僕らはロンドンで多くのユダヤ人に多大な親切を受けていた。 そんな事もあって、アムスに来たら是非、嘗てアンネが暮らしたという、あの秘密の隠れ家を訪問してみたいと思っていたのだ。

 アムスの街は運河が放射状に広がっていて、道もだいたいそれに沿ってついているので、地図が無くても比較的歩きやすい。 大体の位置関係さえ頭に入れておけば、行きたい場所に行き着ける。 もっとも、このホテルからだとダム広場に出て、ラートハイス通りを進み、西教会が見えたら右に曲がるだけ。
ホテルの外に出ると、結構風が吹いているし空もどんより曇っている。
 ここで「アンネの家」の事を書いても、本編で触れているのでアンネの家の事はこの本編に任せることにしよう。 もし、本編をまだ読まれてない方はこちらをご覧下さい。
 アンネの家の後、嫁さんの希望で僕らは国立美術館へ向かった。
この美術館は、放射状になっているアムスの街の丁度一番外側、中央駅から反対の位置にある。
運河に沿って扇の外周にあたる部分を美術館に向かって歩くが、途中、突然雪が降り出して来た。
運河に雪ってのもおつなもんだが、風も吹いているのでまるで吹雪のようになってきた。
この吹雪に追い立てられるように、僕らは国立美術館に到着。
 
 1885年、あのアムス中央駅の設計者でもあるカイベルスによって設計された美術館は、どことなく中央駅や、東京駅の雰囲気を感じてしまう。 一体この美術館にどんな絵が展示されているのか、そんな事は知る由もない僕だが、その数十分後、ある絵によって僕の心臓はまるで串刺しにされたかのような衝撃を受ける事になる。
 彼女と一緒に、壁に掛けられた絵をゆっくり見て回っていた僕の目に突然、巨大な絵が飛び込んできた。
それは教科書でも見た事のある絵で、僕ですら題名と作者を言える数少ない絵の一つだ。
『夜警』、そうあのレンブラントの大作である。
 西洋の美術館が初めてと言う訳ではない。
これまで、ルーブルに始まり、ロンドンの美術館や欧州の美術館を幾つも見てきたし、教会も好きだから、機会ある毎に教会も見てきた。 所が、この『夜警』程、ショックを受けた事は無かった。
照明のせいなのか、絵に描かれている人物が生々しく、今にも動き出しそうだ。
それだけではない、ぐんぐん絵の中に引き込まれて行く感覚。
 これは一体何なんだろう? この絵の前に立ったとき、しばし僕は身動きが取れなくなってしまった。
あのモナリザですら、こんな感情、それどころか金縛りのような、こんな衝撃を受ける事が無かったと言うのに。  後年、この時嫁さんのお腹にいた長女が美術をやるようになり、洲本の商業美術館でバイトをするようになった頃、彼女にとって2度目の単身渡英をした。 その途上、僕は彼女にアムスへ立ち寄る事を勧めた。 彼女なりにアムスについて調べ、やはり彼女もこの美術館へ行ったと言う。 そして、彼女がこの絵と対面した時、彼女もやはり衝撃を受けたと言う。 半日間、彼女はこの絵の前で呆然と過ごしてしまい、他の絵をあまり見ることが出来なかったらしい。 「圧倒されてさ、気が付いたらもう閉館時間だった。」
そんな娘も、今は『名探偵コナン』フリークで・・・・・・ああ、本当はちゃんと絵の勉強をもっとすれば良いのにと思うが、まっ、すきにやるさ、あんたの人生や。
 しかし何だね、あっちの美術館は展示の仕方が上手いと思った。
実は、向こうで見たのと同じ絵を東京で見る機会があったが、なんて言うか、同じ絵に見えなかった。
絵を飾るまわりの色や光の使い方が違うのだろうか? それぞれの絵の個性をうまく引き出しているような感じを受ける。 文化の違い、歴史の違いと言えばそれまでかも知れないけれど、日本で見る西洋絵画展みたいなものはどこかしら、しゃちこぼばったような、なんか不自然さを感じるのは僕だけだろうか?

 美術館を出た後、まだ時折雪が降ったり止んだりする中、僕らはウインドウショッピングを楽しんだ。
そして夜になると、例の中華料理店で夕食を取り、すぐ近くにある彼の有名な「飾り窓」を見に出掛ける。
おりますおります、照明で照らされたウインドウの向こうに、色んな格好、姿勢でブス(失礼)から超美人のお姉さん達まで・・・・・そう言えば、あん時も初田君や東京のお嬢さんとここにやって来たが、やっぱ一人で来る所じゃあないな。 ワイワイ言いながら冷やかすのが楽しい(まっ、向こうにとっては邪魔かも知れないけどね。)


屋根裏の家族部屋

 予約を入れてあったホテルにチェックイン出来る日が来た。
昨日と同じように、目が開いて窓の外が明るければ起きると言うやりかたで下に降りて行くと8時前。
丁度良い時間だ。 食事をしてからチェックアウトして、寄り道しながら例の宿に出向きチェックイン。
 部屋に案内するから付いておいでと言われ、レセプションの横を通り抜けると直ぐに螺旋状に木の階段が上に伸びている。 螺旋の回転半径が狭いだけなら良いが、何と手摺りが無い。 ホテルの人(多分家族経営だろうけど。)が僕らに言う「このロープを使うといい」・・・・・何となんと、確かにちょっと太めのロープで規則正しく所々に結び目の付いたロープが、この螺旋階段の真ん中に垂れている。 どうやら、僕らが行く最上階から吊されているようだ。
 薄暗いこの階段を、右手でロープに捕まりながら登り切るとそこが僕らの部屋だった。
屋根裏部屋ではあるが、とても広くて以外に明るい。 屋根裏部屋とは言え、大きな窓が一つに、やや小さ目の窓が二つ、それに天窓があるから明るいのも当然だ。 ダブルベッド一つにシングルベッドが二つ。
窓の下にはテーブルが二つ離して置いてあり、大窓の前にはソファーがテーブルを挟んで向かい合わせに置いてある。 タンスにカップボードや小物入れと、これは長期滞在型の部屋やね。
 大窓を開けると、正面に運河があって遠くに西教会が見える。
昨日の吹雪のような一日が嘘のように晴れ渡り、すがすがしい風が大窓のレースカーテンを揺らしながら吹き込んでくる。 「西教会の鐘が聞けそうだね。」 嫁さんが嬉しそうに言う。 実際には、西教会の鐘の音どころか、いろんな所の鐘の音や、オルゴールの音が結構聞こえてくる事が直ぐに判った。
 

 ゆっくり休んでいると腹がへってきた。

例のロープを伝いながら下のレストランへ行き、昼食をとる。

彼女はミルクがいるのでホットミルクを頼む。

女将さんらしき人がミルクを持ってきてくれたが、「コーヒーか紅茶でなくていいのかい?」って聞くので、事情を話すと「そりゃあめでたい」と言いながら、レセプションにいる旦那
に向かって「あんた、この子達にもうじき子供が出来るんだってよ。」ってな事を言っている。 すると旦那がレセプションから出てきて、「じゃあ、あの階段はキツイだろう。 誰かに掛け合って部屋を交代して貰おうか?」と聞いてきた。 トンデモナイ話や、折角あの部屋は気に入ってるのに。 丁重にお断りした。
 この話があってから、このホテルをチェックアウトするまで、毎朝の食事、夕食時には必ず女将さんがホットミルクをサービスしてくれたし、ホテルにいるとき、顔を合わすとミルクいるなら何時でも言いなさいと気を遣ってくれる。 
 この日は昼からのみの市へ行ったり跳ね橋見たり、通りがかりで見つけた楽器屋に入ってギターを見たりして過ごした。 


マルケン島

 朝、例の如く目が開いた所で、外が明るければ起床。
レストランへ行くと何人かの泊まり客が食事をしている。 僕らも席に着くと、あの女将がやって来て、嫁さんに、お腹は大丈夫かって聞いてくれる。 「快調だよ」って言うとにこにこしながら旦那に向かって、OKのサインをしている。 心配してくれてるんだなあって事が雰囲気で伝わって来る。
 朝食は、葡萄パン、ハムを挟んだフランスパン、チーズを挟んだ丸いパン、バターにジャム、ゆで卵、そして紅茶。 嫁さんには紅茶以外にホットミルクが付いてきた。 
 紅茶を飲みながら、今日行こうと思っているマルケン島について調べていると、女将がやってきて、郊外へ出掛けるのかいって聞かれる。 そうだよって言うと、ちょっと待ちなって仕草をして奥に引っ込んだ。 何か案内書でも持ってくるのかと思ったら、小さな水筒のようなものを持ってきて、ミルクを入れとくから、奥さんに飲ませてやれと言う。 おいおい、気を遣いすぎだよと思いながらも「ありがとう」。

 マルケンはアムスの北東約13Kmにある、アイセル湖に浮かぶ小さな島で(島とは言え、堤防で大陸と結ばれている。)、今でもオランダのこの地方の風習が残されていると言われる。 僕自身が島育ちなので、島が大好きな事もあって、前回、対岸のフォーレンダムを訪れた時、今度は絶対マルケン島へ行こうと決めていた。 
 中央駅前のバス乗り場からバスで約40分の行程。
フォーレンダムと同じ方向だから、車窓から見える景色は何となく覚えている。 前回、フォーレンダムへ行った時は雨に打たれ、運河にはまり散々な目に遭った事が想い出される。 そうだよなあ・・・・今頃、初田君やあの東京のお嬢さんはどうしてるかなあ。
 そうこう考える内にバスはアイセル湖の堤防を駆け抜けてマルケンに到着。 バスを降りた途端、アイセル湖を駆け抜けて来た冷たい風が頬にあたり、身震いする。
 ここは鄙びた漁村って感じで、いや、だけど緑と白に塗られた小さな家々がとても可愛くて、対岸のフォーレンダムとは違った雰囲気だ。 小さな村の中を歩いていると、民族衣装を纏ったお婆さんが洗濯物を干している。 しかも、木靴を履いてるではないか。
 観光のためなのか、それとも丁度、日本のお年寄りが着物を着る感覚で普通に着ているのか? 服の汚れや経たり方からみて、観光用に着ている訳でも無さそうだ。 こんな光景はフォーレンダムでは見られなかったけど、やっぱりマルケンに来て良かった。
 昼食はカキを食べた。
カキが日本で高いものだなんて事は僕が知る筈もない。
それどころか、カキなんて食べたこともあまり無かったので、どんぶりのような食器に一杯、酢付けのようにされた新鮮なカキが出て来た時は驚いた。 ロンドンのフレンチレストランでマリアが時々パエリアを作ってくれた。 これにはカラス貝がふんだんに入っていたが、このカキは僕にとっては珍しいものだった。  値段は・・・・高い筈が無いでしょう、僕らが食べる位だから。
 
 マルケンからアムスに帰った僕らは、夕方まで街中を散策し、夕食後、跳ね橋のイルミネーションを見るため再び街中へ飛び出した。 でも、思ったより暗かったのでちょっと残念だった。 僕のイメージだと、もっと明るくてきらびやかに橋が浮かび上がっているもんだと思ったけど。

マルケン島
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