遙かなる大地 「想い出はロシア号と共に」

 僕の手元に1本のテープがある。
実業高校のブラスバンド部が演奏するロシア民謡。 バンドをバックに力強く、そして時に哀愁を帯びて演奏されるハモニカ。 このテープの中にはハモニカの主が作詞し歌う二つの曲が録音されている。
一曲はシベリアの大地を、そしてもう一曲は中国、大連を想う歌。

 このハモニカや歌の主との最初の出逢い、それはもう4年ほど前のことになろうか。
我が家ではルーカスという雑種の犬を飼っている。 雌犬だのに何故かルーカス・・・・この犬を貰って来た時期、我らが長女はジョージ・ルーカスの大ファンで、犬の性別を確認もしないまま、彼女にルーカスなんて名前を付けてしまった。 それはまあいいのだが、世話をします、散歩も連れてきます・・・・という約束だった筈が、「約束や規則は破られるためにあるもの」の言葉通り、結局散歩はすっかり僕の仕事になってしまった。
 僕の会社は家から自転車で4分の所にある。
仕事が終わって家に帰るのが5時20分位。 家に帰った僕がまずしなければならない事、それはルーカスの散歩。 裏にある土手をずっと歩いて、母校(中学)のグランド横を通り、そのまま進むと市民球場がある。
そこが散歩の終点だった。 だったと言うのは、最近はコースを変えたから。

 この散歩の途中、いつの頃からか、2匹の犬を連れた体格のいいおじさんと挨拶を交わし、犬の話なんかをするようになっていった。 仕事場を離れた僕は、知らない人に会って話す機会があっても、相手の名前や住んでる所を聞くような事は余程の必要が無い限りしない。 このおじさんもそうだった。 だから、その人が何処の誰で、何をしている人なのか、全く判らないまま1年が過ぎ去っていった。
 そんなある日、僕の家に建っている無線用の大きなアンテナの話になり、僕が何気なく「さっきノボシビルスクのハムと話してたところですよ。」と言ったことがきっかけで二人の話題はロシアの事になった。 話の中で、このおじさんは嘗てシベリア鉄道に乗った事があること、そして、その中でモスクワ放送の取材をたまたま受け、自分の作った歌を歌ったことなどを僕は知った。 
「ひょっとしてお名前、K.S.さんとおっしゃるのでは?」
「えっ、僕の名前知ってたんですか。」
「知ってましたよ、もう何年も前から。」

 僕がまだ東京のメーカーで貿易をやっていた頃、タイピストでロシアと中国が大好きな女性がいた。
ある日、彼女から1本のテープを借りた。 それはモスクワ放送を録ったもので、彼女の話では、淡路島の人がシベリア鉄道で歌を歌ってたので、僕も淡路だから知ってるのではと思って持ってきたのだと言う。
見知らぬ同郷の人が歌う、ロシアへの想いを歌った曲。 「こんな人も淡路にいるんだ。」
それからその事はすっかり忘れていた。
 僕はそんなことで大いに驚き、おじさんは、僕がおじさんより遙か前にシベリア鉄道に乗っていた事に驚き、話はすっかりロシアの事で盛り上がってしまった。 犬を連れたまま僕はそのおじさんの家にお邪魔する事になって、その日、僕とルーカスが家に帰ったのは夜9時を過ぎていた。
 このおじさん、実は実業高校の先生で、昔、洲本の高校が甲子園で優勝した時のレギュラーだった人だった。
作曲家の阿久悠さんが同級生だと言うからこれまた驚いた。 話している内に色んな事がわかって来た。
大連の生まれで、退職後は大連の学校で中国語の勉強をしたいということや、そのついでに、中国の子供達に野球を教えたいという事。 ロシアが好きなこと・・・・このおじさんがロシア語を話すと、何とも太い声で、ほんとロシア語だって・・・・そんな印象を受ける。

 時が流れ、おじさんが定年退職。
おじさんはその言葉通り、高校を定年退職すると2年の中国(大連)留学を実行に移した。
彼地では大好きなハモニカ演奏で友人を多く作り、やがて、夢だった野球も大連市の協力の下、ボランティアで子供達に教えるまでになった。 そして、次の夢が、この野球チームを淡路に呼び、地元のチームとの友好試合。
夏休みで帰国したおじさん、いや今までおじさんなんて呼んでたけれど、このK.S.さん、まるで子供のように目を輝かせながらこの友好試合の夢を語っていた。
 そして、やはりロシア。
いつか一緒にシベリア鉄道でモスクワへ行って、帰りはモンゴルから中国、大連へ行こうと僕達は夢を話し合った。

 突然の出逢いはやがて突然の別れへと続く。
あれほど約束し、楽しみにしていたロシアへの旅を果たせぬまま、氏はもっと遠い所へ旅立たれた。
僕との夢は果たされなかったものの、少年野球団招待の夢は昨年、多くの支援者の下で実現される。
日本は戦後、経済力で世界を圧巻し、どんな僻地へ行ってすら母国の文明の一端にお目にかかるまでになった。
にも拘わらず、僕が英国でいつも考えていた事、つまり、経済力(文明)の浸透の割りにあまりにも文化面での輸出が遅れているんじゃないかと言うこと。 この疑問に対して、氏は一つの実践で答えてくれていたように思う。
「本当に大切なもの、それは目に見えないもんだよ。」と言う言葉、その言葉を僕は氏の死と共に噛みしめている。

 氏は音楽の先生で無ければ、ハモニカや歌を習った訳でもない筈だ。
この淡路にも幾つものコンサートホールが出来、有名著名な演奏家やオーケストラが来るようにもなった。
何度かは僕も足を運んだが、その演奏の殆どはまるで調整不足の、時としては僕らは練習台にされているのかと思わんばかりの演奏。 僕はサーカス見に来たんじゃない・・・・音楽を聴きに来たんだと叫びたいような演奏。
そんな中で、氏のハモニカや歌には心があり、音楽、そう音を楽しみ、人に訴えかける何かがあった。
 どんなに立派で高価な宝石も、その上に埃や汚れがついていたのでは、その輝きを愛でる事は出来ない。
反対に氏の演奏や歌のように、磨きかけの宝石でも、自身が必死に輝こうとしている姿はとても美しいものだ。
僕は氏の演奏や歌を聴く内、ロンドンで聴いたセコビアの演奏を思い出さずにはいられなかった。

 手元にある1本のテープ。
それは僕にとって何にもまして大切なものの一つ。

拙いながらもこの一文を、今は亡きK.S.さんに送ります。


 

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