フォーレンダム

 水平飛行していた飛行機が徐々に高度を下げて行く。
いよいよスキポール空港への最終進入体制に入りかけた飛行機の窓から下を見ると、昨年見たのと同じ風景が眼下に広がっている。 縦横無尽に広がる運河、一見洪水で水没した後のような街並みを見ていて、小さい頃聞かされたある逸話を思い出した。
 ある日堤防の縁を歩いていた小さな男の子が、堤防に出来た小さな亀裂を見付ける。
よく見ると、その亀裂から海水がチョロチョロ漏れ出てくる。 その子は直ぐにその亀裂に自分の指を差し込み漏れてくる水を止めたが、近くには人がいず、その子はずっとそのまま人が来るのを待ち続けるが・・・・・・その後どうなったか、僕は覚えていない。 この話が実話かどうかも知るよしはないが、そんな小さな子供ですら目前にあった堤防がいかに自分たちにとって重要であるかを理解し、自分達の土地は自分達で守らねばならないとの自覚が出来ているかとい うことだと思う。 

 見覚えのある空港で入国審査を受けてから、とうとうここで此までの仲間がそれぞれの道を進むことになる。 ハインツさんはドイツの自宅へ帰り、石田さんはその足でロンドンへ渡るらしい。
僕は気のあった初田君と、フランスの大学に入る予定という東京の女性の3人で取り敢えずリムジンバスに乗り、ダウンタウンへと向かった。
 僕や初田君は寝袋を持っているから、宿が見つからなくても何とでもなるが、スーツケースにハイヒール姿の女性はそうは行かない。 まずはユースホステルへ行ってみたが満員でダメ。 何カ所か当たったがやはりダメで、取り敢えず元のバスターミナルへ戻ろうと言うことになり、運河沿いに歩いていると、Student Hostelと書かれた建物を見付けた。 入り口が半地下になっていて、中に入るとやや薄暗い室内に小さなカウンターがあり、そこがレセプションらしい。
3人ともOKが出て、男女別々に部屋に案内された。
 部屋は大部屋になっていて、二段ベッドが幾つも並んでいるので、僕と初田君は指定されたベッドの横に荷物を置き、中から貴重品を取りだしてポケットに入れる。 そう言えば、去年の旅では野宿と安宿の毎日で、最後にアテネで泊まった宿は、ビルの屋上にテント(と言うよりタープ)を張っただけのもので、一応汚いベッドはあったが・・・・まあ、一泊700円ならそんなものか。 それに比べりゃここは天国だ。
 荷物を置いて、他のベッドの連中と挨拶したり、身振り手振りで雑談?している内に腹が減ってきた。 窓から外を見るともう日が落ちかけている。 うっかりしていた・・・夏のヨーロッパの日は長い。 9時でもまだ外は明るかったんだ。 僕らがチェックインした時間自体がすでに夕食時だった筈で、他の連中はもう食事を済ましてるんだ。 早速、初田君と彼女を誘って外へ食事に出掛けることにした。
 ホテル近くのレストランで食事をしていると、石田さん達とばったり出逢った。
何でも、飛行機でロンドンに入るのはやめて、翌日、フェリーでドーバーを渡るのだと言う。 僕の目的地もロンドンだったので、一緒にどうかと誘われたが、その前に僕はどうしてももう一度モンマルトルの丘から夕日が見たかったので、折角の誘いを断った。 別にこれと言った予定がある訳ではない。 ただ、もう一度あの場所で、今度は夕日が見たかっただけなのだ。

この後急に雨が・・・・

翌朝、学生ホテルの売店で売っているフランスパンと、簡単なサラダにミルクで朝食を摂りながらその日の予定を考えていた。 このアムスの街中だって幾つも行きたい場所はあるけれど、僕は街中よりも郊外へ行く事を考えていた。 その筆頭がフォーレンダム。 別に深い意味はなくただこの名前の響きが好きだった。
 「まいど」、初田君が眠そうな顔をして起きてきた。
 「今日パリに行くの?」朝食のパンやサラダを皿に取りながら彼が尋ねてきた。 
 「急ぐ旅ちゃうからな、今日は風車でも見に行こか思てんね。 そっちはどないするん?」
 「俺も一緒や、どう、最後に3人でそこへ行こか。」

 バスに何分位揺られただろうか。
碁盤の目のように走る運河の彼方に何基かの風車が見えて来た。 フォーレンダムはその風車群のすぐ近くにあった。 バスを降りた僕らは早速このこじんまりした、そして例にもれず運河の多い町中の散策を始めた。 町の中心部はアムスをもうちょっと小綺麗にした感じで、運河の幅は町のサイズに合わせてかもっと狭い。 風車を見るのが目的だったので、バス中から風車の見えた方角に向かってぶらぶら歩いていると、石造りの橋の袂に小さなカメラ屋がある。

 僕はキャノンFtbというカメラを持ってきていたが、それ以外にもう一台、ポラロイドカメラを持っている。 これは大阪を出る時従兄弟がくれたもので、モノクロフィルムは丁度使い切った所で、カラーフィルムを欲しかったところであった。 カメラ屋に入ると、ほっそりした背の高い初老の紳士が出てきた。 なかなか上品な感じの人で、良かったら橋の所で写真を撮ってあげようと言うことになった。 2〜3枚撮り早速撮った写真を見て見ようということになったが、このおじさん、肝心のプリント部分を運河に落としてしまいさあ大変。 別に泥鰌が出てきて挨拶したわけじゃないが、折角着ている背広が汚れるのも気にせず運河に降りてプリントを拾って来てくれた。

 しばらく歩くと町外れに近づき建物も石造りのテラスハウスから、平屋か2階建ての一軒家が多くなってきた。 どの家も窓を広々と採り、内側には白いレースのカーテンが掛けられ、思い思いの置物が窓の内外に飾られている。 そう言えば、隣国ベルギーのブルージュはレースで有名だった筈。 ぶらぶら歩いている先に一件の骨董屋を見付けた。 そう広くもない店内に入ると、実に様々なものが置いてある。 僕が育った洲本の町には骨董屋と呼べるような店は無かったので、珍しさも手伝って風車の事など忘れてそこにある様々な物達に見入ってしまった。 中には浮世絵や日本の陶磁器、くし、銅鏡などもあり何とも不思議な感じがする。 これらの美術的、骨董的価値など知る由もないが、僕の興味はそんな事よりむしろ、これらの品物がいつの時代にどのような経緯でこんな所までやって来たか、という事に向けられつつあったその時、二人が外で僕を呼んでいる。 空が曇って来たので、雨になる前に風車を見に行こうということらしい。 ほんの少しこの店の品々に未練を残しながらも、雨に当たっては大変と店を出た。 そう言えば、『旅情』という映画では、キャサリン・ヘップバーンがベニスのある骨董屋で、その店の主と恋仲に落ちるが、残念ながら僕らが立ち寄った店にいたのは、若くて色気のある姉ちゃんではなく、ちょっと太り気味の中年おじさんだった。
 少し歩くとそこはもう町の外れで、僕達の目前に水田が広々と広がり、その間を運河が無数に走っている。 その向こうの方にはバスから見た風車が一列に何基か並んで立っている。 僕らはこの水田の中のやや広目のあぜ道を風車小屋に向かって歩き出した。 風車小屋はこの小さな運河(と言うより、溝を大きくした程度のもの。)に沿って立っている。 風車を間近に見て初めて気付いたが、風車は何時も同じ方向を向いて立っているものでは無いらしい。 効率を考えれば当たり前の事だけれど、風向きによって風車の方向が変えられるようになっているし、羽のピッチもちゃんと変えられるようになっている。 それに、これも当たり前のこったけれど、ブレーキもちゃんと付いている。

 勝手な想像だけれど、風を読む技術や羽のピッチを変える技術は船の帆走に役立つ筈だし、特にピッチを変えるのは今のスクリューやレシプロ機のプロペラも同じ理屈ではないか。 このような技術が植民地開拓時代の航海技術に反映され無かった筈はなく(その反対か?)、冒頭に書いた子供の逸話に代表されるオランダ人魂と、この風車技術が無ければ、あの東インド会社設立も無かった・・・・・・いや、これは飛躍し過ぎでした。 まじめに物事考えよう。
 どれ位歩いたろうか、風車群の真ん中当たりを過ぎた頃、とうとう雨が降ってきた。
雨具など持ってきていない僕達は、ここで一つの決断を天に迫られる。 と言うのも、今から町に戻るには今来た道を戻り最初の風車近くの橋を渡るしかないが、これは結構遠い。 雨はどんどんひどくなっているから、家並みに辿り着く頃にはずぶ濡れになっているだろう。 風車は全て扉が閉まっていて鍵も掛かっている。 もう一つの方法は、目前の運河を飛び越してしまうこと。
 どうせずぶ濡れになるなら、運河を飛び越そうと言うことになり、まず僕が飛ぶことにする。
いま降り出したばかりというのに、草で覆われた地面にはすでに水たまりが出来、黒い土がじゅるじゅると滑り易くなっている。 カメラを初田君に一旦預け、軽い助走の後思いっきり対岸へジャンプする。 雨が目に入り、とても前を見ていられない。 次の瞬間、僕の足は無事地面を捕らえ着地したかに見えたが、ツルンと泥で足を滑らせ尻餅をついてしまった。 ジーパンの尻が泥だらけ。 でも、そんな事に構ってはいられない。 初田君にカメラを放り投げて貰い、今度は東京のお嬢さんの番だ。 僕と同じように助走を付けてジャンプするが、残念ながら岸のちょっと手前でドボンと運河に飛び込んでしまった。 すぐさま僕が彼女の手を持って引っ張り上げようとするが、底は泥になっているのか、上がって来ない。 見かねた初田君は運河に飛び降り、彼女を下から押し上げる。 
 何とか対岸に渡った僕達はもう泥まみれで、さあ雨宿り等という考えも飛んでしまい、出てくるのはお互いの姿を見て笑いばかり・・・でも笑ってばかりもいられない。 このままじゃ、バスに乗る事も出来ない。 対岸に渡れば近くに民家が何軒もあるが、中から何人かの人がこっちを見ているものの、誰も出てきてはくれない。 そりゃそうだろう、どこの馬の骨か判らん泥だらけの連中のために、こんな雨のなか出てきてくれと言う方が甘い。
さっきの写真屋さんは親切だったので、そこへ行ってみよう・・・・・いや、でもこんな泥だらけじゃ迷惑をかけるだけだ・・・・なんだかだと話している所へ傘をさした老女が通りがかった。
最初は僕らを避けて通ろうとした彼女も、流石に気の毒と思ったのか、僕らに近づいて来て何やら話しかけて来る。 とうやら近くに教会があるのでそこへ行きなさいということらしい。            

 教えられた教会に着く頃には雨も小降りになってきた。
教会の正面扉の方に行くと、中から大勢の子供達が出てくる。 どうやら、何か催しが行われていたらしいので、子供達が出払ったのを見計らって、教会の扉にあるベルを押した。 ほどなく、コツコツという靴の音が中から聞こえてきて、神父らしき人が扉を開けてくれた。 僕らの姿を見て驚いている神父さんに、我らがお嬢さんが英語で事情を説明すると、別棟のもう一つの通用口へ回るようにとのこと。 言われた通りもう一つの扉に回ると扉はすでに開かれ、中の方に大きな洗濯機が見える。 タオルや籠、それに服のようなものを持った一人の婦人が出てきて何やら言っている。 どうやら、一旦これらの服に着替え、その間に洗濯機で汚れた服を洗いなさいと言うことらしい。
 生まれて初めて使う洗濯機(しかも、アメリカ映画でしか見たことが無かった横置きで、丸い窓がついたあれである。)に戸惑いながらも洗濯開始。 洗濯機の中の僕達の衣服がまあるいガラス窓の向こうで回り出す頃、先ほどの婦人が暖かいコーヒーとお菓子を持ってきてくれた。
洗濯が終わり、3人とも生まれて初めて経験する乾燥機の威力に関心しながら、ついさっきまではグジョグジョだったそれぞれの服に着替える。 神父さんと婦人にお礼をと思ったが、さっきの子供達の母親達とだろうか、何か話し込んでいる。 そこで僕達はお礼を手紙にする事にして、まずは手持ちのお金から幾らかずつを出し合った。 そして手紙にはお嬢さんの提案で「このお金を神の御心に沿うようお使い下さい。」と英文で書いてもらった。 僕達が付けた床や椅子の汚れを綺麗に拭き取った後、この手紙とお金を残して僕達はそっと教会を後にした。
空はまだどんよりとした曇り空だけれど、さっきまであんなに降っていた雨も上がり、この一時の雨で洗われた木々や町並がとても新鮮に映る。
 さっき降りたフォーレンダムのバス停まで戻るつもりであぜのような道を再び懲りもせず歩いていると、こんもり盛り上がった土手道をバスが走って来る。 行き先表示にアムステルダムと書いてあるのを見た僕達は、夢中で土手を駆け上がりバスに向かって手を振った。 バス停でも何でもない場所だったが、バスは僕達をちょっとだけ追い越して停車した。

 不思議なもので、アムスにはまだ1泊しかしておらず、街中すら殆ど見てないと言うのにバスが街に近づくと故郷に帰ったような親近感が沸いてくる。 勿論、それにはフォーレンダムで雨に打たれ、運河にはまりとひどい目にあったからという立派な理由があるからだろうけれど、まるで古里に帰ったような懐かしさを感じていたのは僕だけだろうか。
 これと同じような経験を昨年の旅でもしている。
生まれて初めて歩く異国の地パリ。 朝の11時半頃、オルリ空港に到着し、ここから僕の一人旅がスタートした。 リムジンバスでアンバリッド(ナポレオン廟)前のバス停に着いた僕は小雨の降る中、モンパルナス駅近くに1泊13F(当時のレートで約¥850)の安宿を見付けた。 ほんの少し時差惚けの頭に鞭打ち、荷物を部屋に置いた僕は貴重品とカメラを持ち直ぐホテルを飛び出した。
 生まれて初めての一人旅がヨーロッパと言うのも無茶だが、それでも僕は地図片手に散策することに抵抗感があり、この時も事前にフランス政府観光局から入手していた地図は持っていたものの、結局カメラバックにしまい込んだまま、取り敢えずアンバリッドまで歩き出した。 アンバリッドまで出ればエッフェル塔、凱旋門まで地図などいらないし、ここからはシャンゼリゼ大通りを下って簡単にルーブル宮(美術館)へ行け、そのままサンジェルマン教会を左に見ながらセーヌ河畔を少し行き、ポンヌフを渡るとそこはシテ島。 ちょっとした迷いはあったものの、然したる問題も無く僕は初めてのパリをのんびり散策した。 ルーブルやノートルダムに入るのは翌日でいい。 本屋やデパートへ入ったり路地裏を覗いて、その日はパリの空気を味わえばそれで十分。
 ところが、いざホテルへ帰る段になって、どうしても僕の頭にホテルの位置がイメージ出来ない。 場所はモンパルナス、ホテルを出て最初の角を曲がった所からモンパルナスタワーというノッポビルが見えた筈だ。 このビルの下まで来ているというのに、まるで狸にでも化かされているかのようにホテルの姿が忽然と姿を消してしまった・・・・・とさえ思えて来る。 「そう言や、爺ちゃんが若い頃、狸に化かされて何度も酷い目にあった」と言ってたな。 その内、再び小雨まで降りだして来た。 ポンチョやホテルの住所を書いたカードは部屋に置いて来たので、人に聞くことも出来ない。 「こりゃダメだ。 もう遅いしまずは腹ごしらえが先だな。」
 簡単な夕食を済ませた頃にはもう辺りは薄暗くなっていた。 
この時の僕の感覚はまだ7時位だったが、時計を見て驚いた・・・・9時を過ぎている。
「まっ急ぐ旅じゃなし、明日には見つかるだろう。」と覚悟を決めて、何気なく路地を曲がった先に我が懐かしのホテルの入り口が、薄暗い明かりに照らされて暗い小道にうっすらと浮かび上がっているではないか。 さっきから、この前の広い道を何度通ったろうか・・・何故気づかない。
 歩き疲れと小雨にあたった疲れで、その時僕はどんな顔をしていたのだろうか。
入り口のぶ厚く大きな扉を開くと、チェックインした時にいた懐かしい顔のマダムが、まるで遅くまで夜遊びをして帰った子供を迎えるような、しかし優しい顔をして僕を迎えてくれた。
この時、このホテルがまるで何十年の住処のように思えたものだ。

                              

 話を再びアムスでの出来事に戻すと、一旦学生ホテルに戻った僕達は夕食のため再び外出した。 両端に土産物屋やレストランの並ぶ明るい通りを歩いていると、店もその中で働いているウエイターも飛び抜けて明るそうなレストランがあったのでそこに入ることにした。 このレストランのあるビルはそう古い感じのビルではないが、オランダの古い建物独特の形をしている。 つまり、間口が狭く奥行きを一杯とってあるのだ。 これは嘗てオランダの運送網が運河を行き交う船に託されていた時代に、船に載せる荷物を出し入れするのにどれだけ占有面積を取るかで税金が決められていた。 つまり、そのビルの間口のサイズによって税額が決められていたためで、そのため間口が狭く奥に深い構造になっている。 このレストランもそのようなビルの1階にあり、入り口こそ狭いが中に入ると奥行きがあり、左手に異様に長いカウンター、右手にはテーブルが並んでいる。
 僕らが席に着くと2人のウエイターがやって来て、メニューを差し出しながら何やら話しかけて来る。 「日本人か?」というのは僕にも理解出来たが、次が解らない。 お嬢様の通訳によれば、「このメニューを日本語に訳してくれれば、夕食はダタにするがどうか?」と言うことらしい。 これはもう僕らにとって願ってもないことで、一も二もなく引き受ける。 翻訳は彼女が引き受け、どうしても解らない単語は僕らが彼女の英和辞書で引くことにした。 翻訳をしながら僕らの注文を別の紙に英語と日本語(アルファベット)で書いてゆく。 マネージャーらしき人が、値段の心配はいらないから何でも好きな物を注文しなさいと言う。 僕にでも解る単語が多いせいもあって、作業は以外に簡単に終了した。 もう忘れたが、ついでにキャッチフレーズも日本語で入れて、立派な手作りメニューが出来上がった。
 結局僕達はスープ、サラダ、メインにデザート、コーヒーまでたらふく食べてタダと言う、とんでもある経験をしてしまった。 きっと、さっき置いてきた、いや神様に捧げたお金への神様のお返しだと大喜び。 ポラロイドで写真撮ると言うと、厨房の中にいた人まで出てきて全員で記念写真。 しっかりカウンターに飾ってくれた。 27年前、もしアムスのレストランで日本語のメニューを見た人がいたら、それは僕達が作ったものかもわかりませんよ。

 一夜が過ぎ、短い期間だったが言葉では尽くせない体験を胸に、初田君との別れの時が来た。 彼とはジェルジンスキー号の中で「まいど」「おいど」の挨拶を交わした時からうち解けられ、もう長い友のように感じられていた。 実はこの頃、関西では横山プリンの『テレビテレビテレビ』という番組が流行っていて、その中で「まいど」と言うと「おいど」と答える挨拶が流行っていた。
 朝早く僕らは食事も採らずにアムステルダム中央駅に向かった。
ほぼ半円に近い扇状に広がったこの街の頂点にこの駅があり、この駅は東京の八重洲口にあるあの赤煉瓦造りの駅舎そっくりだ。 それもその筈で、確か八重洲口駅舎はこの駅をモデルに作られたものだったと思う。 駅に着いた僕らはそれぞれの乗る列車時刻とホームを確認した。 僕とお嬢様はパリ行きに乗るが、彼が乗る列車より早いようだ。 彼はこれからテ゛ュッセルドルフへ行き、暫くはドイツ語の勉強をするそうだ。 
 やがて僕達の乗る列車がホームに入線して来た。 彼女と一緒に列車に乗り込み、コンパートメントの窓を開けると彼の姿が見えない。 彼が乗る列車はまだ入線していないから、ホームへ行く筈もないしと窓から頭を出して探していると、白い紙袋を持った彼が僕らの方に向かって歩いて来る。 窓の下まで来ると彼はその白い袋を僕に手渡し、右手を差し出して来る。 しっかり握手しながら「パリまで頼む・・・な」と、何時も笑顔か冗談しか言わなかった彼が真顔で僕に呟いた。 どういう言葉を返したのか、僕は覚えていない。 しかし、彼とはいつも冗談ばかりのやりとりで、まじめな話はそうしなかったように思うだけに、この時の一言で彼の印象が途轍もなく強いものとなったのは間違いない。
 発射のベルもなく列車は静かに駅を離れだした。
追いかけて来た彼がホームの端に行き着いた時、両手を口にあてて何か叫んだようだが、もう僕達には聞こえない。 ただ、僕には「まいど」と叫んだように思えた・・・・・ちょうどキャビンで初めて会った時のように。

追稿
白い紙袋の中身は2人分のサンドイッチとミネラルウオーターだった。
今手元にある当時のトマスクック時刻表を見ると、僕らの乗った列車は7時53分発のパリ行きRap
(Rapid 急行と特急の間位のもの?)で、パリには同日13時48分に到着している。


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