チューリッヒ〜ベルン

 チューリッヒ行きの英国航空機はロンドン郊外にあるガトウィック空港を4時過ぎに離陸、滞空時間1時間ちょっとでチューリッヒに到着した。 夏場のヨーロッパは日が長く、9時や10時でなければ日が沈まないが、冬になると4時頃には日が暮れて来る。 チューリッヒに着いた時はすでに外は真っ暗で、駅に向かうリムジンバスからの景色では、ここがスイスであることを実感させてくれるものは何も無かった。
 バスがダウンタウンに入ると、通りや店のショーウインドウに施されたクリスマス飾りが至る所で目に入る。 しかし、残念ながら異常気象のせいか、雪が全く見られない。 バスはやがてチューリッヒ湖の側にある駅に到着。 これから僕達は列車でベルンに向かうが、発車時刻までまだ大分時間がある。 取り敢えず湖の辺に行ってみようと駅の外に出ると、冷たい風が露出した手や顔を刺すように吹いて来る。
 所々凍結した駅前の大通りを渡る時、僕は無意識に彼女の手を引いていた。
実の所、僕達が手を繋ぐのはこれが初めてだった。 すでに陽の落ちた湖の辺からは何も見ることは出来なかった。 ただ、冷たい風が暗い湖の方から僕達2人に向かってびゅーびゅー吹いて来るだけだ。

 1年と3ヶ月ぶりに見るベルンの街並みは少しも変わらず僕達を迎えてくれた。
あの時も夜中にパリからこの駅に着いた。 霧雨降る、人通りの全くない街並みの中を僕は、今背負っているキスリングを担いだままとぼとぼと歩いていた。 普通なら寝場所を探さねばならないと言うのに、僕は何かに取り憑かれたかのようにある場所に向かって歩いていた。 別に頭に地図を思い浮かべていた訳でもない、何故か自分の足が勝手に動き、ある場所へと誘っているようでもあった。
 僕が辿り着いた場所、それは時計塔のある通り。
この時計塔をくぐり、アーレ河の方に石畳の道を少し行くと小さな噴水がある。
この噴水には、ベルンのシンボルでもある熊が甲冑を着て、旗を持って立っている像が載っている。
ツェーリンゲン噴水

 暗く静まりかえった街の中にこの熊の像が、街頭の明かりによってうっすらと浮かび上がっている姿を見ていると、まるでスピルバーグの映画に出てくるSFXの人形のように、今にも動きだしそうな気配を感じたものだ。 僕が小さい頃、夜というのは魔物がうごめき回る恐怖の空間だった。 洲本には先山という、火山ではないが富士山に似た山があり、その山頂に千光寺というお寺がある。 僕が幼稚園に上がるかどうかの頃、このお寺に行った事があり、その時見た仁王像が天を突く大きな化け物に見えた。 祖母から、この仁王様は毎夜悪い子を探して町に降りてくると聞かされた僕は、このことを本当に信じていた時期がある。
 そんなある時、大きな台風が来て仁王像が風で飛ばされたのだろうか、仁王様が麓で見つかったという話を近所の人が話していたのを聞き、やっぱり仁王様は夜に動きまわるのだと言うことを確信、それと同時に、時には夜遅く帰る父が、きっと仁王様より強いからこんな時間に帰れるのだということも確信したのだった。 夜動く魔物は何も仁王様だけでは無かった。 狐の嫁入りの話や、狸の提灯行列の話は両親の体験談として良く聞かされた。
 大人になった今、そのような話を信じる程僕はロマンチストでは無い。
しかし、いつまでもこのような感性を失わずにいられたら、どんなに素晴らしいことだろう。 曲がりなりにも大人になりつつあったあの時の僕にとって、嘗ては恐れの対象だった魔物達の存在が懐かしく感じられる。 噴水に尻を向けてアーレ河の方に向かう僕は、何故か無意識に何度も振り返ってしまう。  恐れと言うのではなく、むしろ自分自身の過去の夢、遠い昔の自分自身への回帰がそうさせていたように思う。
 その夜、僕はこの道の先、アーレ河を渡った所にあるバス停でごろ寝した。
丁度小さな小屋風になっていて雨が凌げ、木で出来たベンチ椅子の上で寝袋にくるまって一夜を明かした。 そう、あの熊の視線の先で。

 今回もこの間と同じような時間にベルンに着いて、同じように時計塔へ向かっている。
ただ違うのは、雪が無いとは言え季節が冬で、天気がいいので満天の星が僕らを見下ろしている。 そうそう、それから今回は一人ではないってこと。 
 今夜寝る場所も決めてないってのに、僕はあの熊の像を彼女に見せたいがために、まずこの場所にやって来た。 冬の凛とした空気の中に、あの熊像は去年と同じ姿で立っている。 暫く立ちつくした後、今夜のねぐら探しだ。 ベルンはアーレ河を境に旧市街と新市街に分かれていて、駅のある側、つまり僕らのいる側は旧市街にあたる。 旧市街地は歩道が回廊のようになっているので、雨が降ってもここで寝れば雨に当たる心配はないのだが、今夜はまず雨や雪の心配は無い。 とくればこのシーイングのいい季節に星を見ながら寝るってのもいいもんだ。 街外れのスーパーにある、半地下へ通じる階段の下にちょうどごろ寝にいい場所が見つかった。 ここなら風も防げながら、星空の下で寝る事が出来る。 それぞれのシュラフを並べ、靴下を履いたままシュラフに潜り込む。 
 彼女のシュラフはオールシーズン用だが、僕のは夏用。 去年旅した時は夏だったので、何も考えずに夏用を買ってしまったのがそもそもの大失敗だった。 薄手の毛布をシュラフの中に入れて来たとはいえ、時間とともに足先の方が冷えて来る。 その内体中が寒くなってガタガタ震えだしてきて、とても眠るどころの騒ぎではない。 横を見ると彼女の方はもうすっかり眠ってしまっている。 ガクガク震えながら星空を見ると星達が皆その美しさを競い合っている。
 去年、ローマで夜中にコロッセウムに忍び込んだとき、このローマ時代のスタジアムの中から星空を見上げて驚いた。 自分がまるで井戸の底にいるような、丁度魚眼レンズを使って夜空を見上げたような感覚。 周囲の壁が僕に倒れかかって来るような恐怖感・・・・・僕達の両端にある壁がその時と同じような感覚を僕に与える。 雪山で遭難するとよく眠くなるとダメだって云うよな・・・・・僕は眠れないんだから死ぬ事はないって。 ハッとして彼女を揺り起こす。 「寒無いか?」 「いいえ、暖かいよ。」  朝になったら何食べよう・・・・・色んな事が頭をよぎっては消えて行く。
 綺麗やなあ・・・・幼稚園を卒園し、小学校に上がる頃の僕にとって、夜はもう魔物の世界では無かった。 代わりに、宝石を散りばめた星達が支配する不思議な世界だった。 家を一歩外に出ると星が降ってきそうな程近くに見えたものだ・・・・・丁度今のように。 おさな心に、家からほうきを持ち出し、天に向かって振り回していた事を思い出す。 僕にはこの星の幾つかが、ほうきに引っかかって落ちてくるように思えたのだ。
 結局この夜、僕は殆ど一睡も出来ないまま、体を震わせながら朝を迎えた。
冷たくなる事もなく無事朝を迎えた僕達は、ロンドンから持ってきたパンとバター、ジャムに牛乳で朝食を採り、荷物を駅のロッカーに預けて身軽になった。

 ベルンはアーレ河を境に旧市街と新市街に分かれている。
この河はU字型に流れているので、地図で見ると旧市街がちょうど天狗の鼻のような半島のようにも見える。 この街のシンボルは熊で、実は高校の旅で僕がごろ寝したバス停というのは、この半島のようになった旧市街の突端にあるニューデック橋を渡った所にある。 このバス停の前が熊公園で、道路から石で出来た手すりごしに下を覗くと熊がいる。 ベルンの事は少しは調べていたつもりの僕だったが、これには全く気付かず、夏だったのに肌寒い朝、梅干しを口に入れ背伸びしながら道路向かいのこの手すりまで行って初めてこの事に気づいた。
キルフェンフェルト橋からの眺め

 ベルン中央駅から時計塔の方に歩いてきて、時計塔の交差点を右に曲がって進むと直ぐにキルフェンフェルト橋にさしかかる。 ミュンスター(大聖堂)裏の見晴台からの景色もいいが、僕はこの橋からの旧市街の眺めがとっても好きだ。 この橋を渡り、真っ直ぐ進むとヘルベティア広場に入り、広場を囲むようにスイス山岳博物館やベルン歴史博物館など幾つかの博物館がある。
 僕達は街中を散策した後、これらの博物館をゆっくり見て回った。 大英博物館のように大きな博物館も楽しいが、僕はこのような小じんまりした博物館も好きだ。 如何にも箔のありそうな、堂々とした博物館よりむしろ何の衒いもなく、自然体で迎えてくれるこのような博物館の方がどうも僕には向いているようだ。
 午後は街中でなく、森の中を歩こうという事になって僕達は木々の生い茂る緑の中へ入っていった。 どこをどう歩いたのだろうか、小さな小川が流れていて、その小川に沿った小径を歩いて行く。 その小径は遙か遠くに見えるアルプスに向かっているようだったので、散歩気分でブラブラ歩いていると、段々道が狭くなり、辺りの木々で陽が覆われ暗くなってきた。 もうアルプスも見えない。 その内、鉄条網が巡らしてある場所に出たが、その先が少し明るくなっているのでこの鉄条網をくぐって更に歩く。 と、突然異様な光景が僕達の目に飛び込んだ。 なんとそれは鉄条網に付けられたドクロマークの表示。
 スイスは永世中立国と言うこともあってか、平和というイメージが強いが、実際は国民皆兵制の国であり、徴兵制を引き、各家の地下にはシェルター、食料や武器が保管されている。 のどかな田舎風景の裏には、彼らの国防に対するシビアな考えがしっかりと根付いている。 彼らは決してガンジーのような無抵抗平和主義者では無い。 軍の演習所? 射撃ではない、周りが少し荒れていたから薬品? 地雷? いろいろな事が頭を駆けめぐるが、木々に弾痕は無いし、薬害の様子も見られない。 僕達はこの不吉な標識を無視して、しかし、ちょっと慎重に先へ進むことにした。
 暫くして、突然森が切れ、僕達の前に広い草原のような景色が出現した。 牧場のようにも見え、その後ろにはついさっきまで見えていたアルプスの山々が聳えている。 あのドクロが何の意味だったのか判らぬまま、僕達はこの森を迂回するように遠回りして旧市街へ戻った。
 夕食はスイス国鉄の社員レストランのような所で食べた。
駅の建物の一角に清潔そうで、値段も安く、しかも大きな窓越しにアルプスが望めるレストランを見付けた。 どうやら国鉄の社員レストランらしかったが、ダメもとで僕達は素知らぬ顔で中に入る。 何という事もない、外のレストランより遙かに安くうまい夕食にありついた。 遠くのアルプスがまるで朱色の墨汁を垂らしたように赤く染まり、やがて暗い闇に姿を隠し出すまで僕達はこのレストランで時間を潰す・・・・僕は今夜寝る、暖かくて夜露を凌げそうな場所を頭に思い浮かべていた。
 
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