ストラウス夫妻〜

ストラウス夫妻

 スペインの作曲家にロドリーゴという人がいる。
この作曲家の名前を知らなくても、アランフェス協奏曲と言えば、またこの曲を聴いて知らないと言う人は少ないのではないだろうか。 この曲も大好きだが、この人の作品に『ある貴神のための幻想曲』と謂うギター協奏曲がある。
曲自体はガスパール・サンスのものを主題にしたもので、ギターの巨匠、アンドレス・セコビアに捧げられた名曲だ。 曲の舞台は南イタリアの方の筈なのに、この曲を聴くと何故かストラウス氏のことを思い出してしまう。 別に氏がこの曲を愛していたという話しを聞いたわけでもないが、この曲の持つイメージが僕の氏に対するイメージととてもよく合致するのだ。

 当時、氏は某都市銀行の重役をしており、夫人と2人で大きな邸宅に住んでおられた。
TM(今はHM、僕と同じイニシャル。)がオペアでお世話になっていたのがこのストラウス家。 
 僕が初めてこの家を訪れた時に出てきたおじさんは、口ひげを生やしたダンディーな人で、てっきりこの家の主だと思っていたら、その人は氏の息子さんだと後日判った。 当のストラウス氏はちょっと小柄で、眼鏡をかけた人の良さそうな上品なお爺さん・・・・にはまだ早かったか・・・で、やっぱり口ひげを生やしている。 もっとも、このお爺さん、いやおじさんも、一度パーティー等で正装するとまるでマフィアのボスのように恰幅がある姿に変身するのだから見事なものだ。(そう言えば、ダイアナの親父はマフィアのボスだと言ってたっけ。)
 一方、夫人はちょっと大柄でがっちりした感じ、そうだ、我らがフラットのフェーバライト夫人を上品にした感じ、ちょっとサッチャー女史にも似てたな。 パッチワークが大好きで、ボランティアで此を作っては寄付したり、チャリティーなんかで売っては募金していた。 TMとは友達のように接してくれた気さくな方だ。

ストラウス夫人
 夏のバケーション時期になるとご夫婦揃ってスイスへ出かけるが、僕達が結婚し、HMが通いになったことで、この期間中は出来ればご夫婦の家で暮らして欲しいとの問い合わせをある時いただいた。 僕らに異論がある筈もなく、快諾して僕のステレオをこっちに持って来させて欲しい旨、氏に伝えると氏からは「私の書斎のを使うといい」との仰せだった。 しかし、氏のステレオは高級家具に埋め込まれたタイプのもので、これを使うのは心が引ける。 自分のを持ってくると告げると、氏は自ら愛車ジャガーを運転して僕達のフラットまでわざわざやって来てくれた。 僕のステレオを見て氏曰く「マニアックだねえ」・・・・いやいや、普通のステレオコンポですよ。 氏はそんな人だった。
 この家には実はもう一人、いやもう一匹の住人、いや住犬がいた。
僕の家には昔、「テツ」という犬がいた。 小学校低学年の頃からこのテツと共に育った僕は、当然、犬が大好き。 テツが亡くなったとき、足の不自由な父がテツを抱いて裏の河原へ行き、わざわざ土手の下へ降りてその河原に穴を堀り丁重に埋めてやった。 じっと手を合わせて暫くの間動かなかった父の姿を今でも覚えている。 「ロバート」との生活は、僕にとってその時以来の犬との生活でもあった。 仕事と学校から帰ると僕はロバートを連れて、あのハムステッド・ヒースまでの暫しの散歩を楽しんだ。 散歩から帰るとまずロバートの夕食、そして僕達の夕食。 

 ある日、ストラウス夫妻から僕達は2枚のコンサートチケットを頂いた。
夫妻が行く予定だったが、急用が入ったので僕達が代わりに行ってみないかというものだった。
場所はクイーンエリザベス・ホールで「モーツアルトの夕べ」のような題名、チャリティーコンサートだ。
このホールはテームズ河畔、ちょうど国会議事堂やチャリングクロス駅の川向こうにあり、ロイヤルフェスティバルホールや、僕達がよく映画を見に行った(このクラブの会員だった。)ナショナルフィルムシアターの一角にある。
 僕達がホールに着くと、すでに黒服・・・おいおい、みんな正装だぜ・・・の紳士淑女が一杯集まっている。 僕達も、まあ背広とまでは行かないまでも、ちょっとはまともな格好をしていたので、別に変ではなかったが、チャリティーだというので軽く考えていたがとんでもない。 しかも、案内された僕達の席は日本で言うところのS席。 一番特等席じゃないか。 
 「アイネクライネナハトムジーク」は覚えているが、他は覚えていない。
ただ、アンコールになって、コンマスが何故か僕らに向かって軽いウインクをしたように思えたのだが、その直後、彼らが演奏し始めた曲、それは「荒城の月」だった。 突然の演奏に僕は一瞬、それが母国、日本の曲であることにすら頭が回らなかった。 思考回路が急停止したまま数秒が流れ、やがてそれが僕の良く知っている曲、ああ、日本の曲であることにやっと気付いた。 演奏が終わると割れんばかりの拍手の嵐・・・・コンマスがどうだいっていうような顔をしてちょいと僕らを見た・・・・ように思った。
 このアンコールが果たして、ストラウス氏の仕組んだものだったのか、それとも、当日、コンマスが仕組んだものだった、いやいや、この日、東洋人の姿は見なかった。 まあ、どうでもいい。 数日後、フィンチリーロードを歩いていると、後ろから見慣れたジャガーが僕に追い付き、助手席の窓が開いた。
「コンサート楽しめましたか?」 悪戯なストラウス氏の顔を見て、僕はこの疑問に終止符を打った。

 ストラウス氏は僕らが日本に帰って4年後に他界された。
僕らが帰国するちょっと前、氏の地下室に描きかけの油絵を見たのを覚えている。 それは夫妻がスイスへ旅した折りに夫人が撮影した写真を絵にしているものだった。 果たしてあの絵は完成したのだろうか? そして、今は何処に飾られているのだろうか? この文章を書いた年は夫人からクリスマスカードが僕達のもとえ届いた。 しかし、今、ここで打ち込みをしているこの時にはもう夫人はこの世にはいない。 僕達がロンドンに残してきた大切な宝物がまた一つ消えて行く・・・僕達の心
に大切な思い出を残して。
ロバートと

 ご夫妻は過去の事を多くは語らなかった。
しかし、遠い昔、日本人に大変お世話になったというような事をHMに語ったことがあると言う。 それが何なのかは知る由もないが、その頃、一時アメリカにいたと言う話しから、ひょっとしたら戦時下のドイツから神戸を経て米国に渡った人達の中に、氏の姿もあったのかも知れない。
 「外交官としてではなく、一人間として当然のことをしたまで。」と言う、この言葉の意味の重さを最近僕は噛みしめている。 遠く離れたロンドンの地で僕達がこんなに大切にされたその訳の一つに、遠い昔、一日本人のとった勇気ある行動があるのかも知れないと僕は思っている、いやそう確信すらしているのだ。

                            
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BGMは「シチリアーナ〜リュートのためのアリア」 
    提供はReiさんのPure Pure Pianoによります。

豆腐とモヤシ

 ピカデリーのレストランを辞めて次の仕事を探していた時、セントラルで知り合った日本人から仕事の話しが舞い込んだ。 その仕事とは、中国人経営の豆腐とモヤシ屋でのもので、朝8時から12時までで週£38くれると言う。 場所はキングスクロスの駅から近いと言うので、早速、翌日彼と一緒に出かけてみた。
 キングスクロスへは159番のバスでベーカー通りへ出て、ここで30番に乗り換えるとろう人形で有名なマダム・タッソー館を経て郵便タワーのあるユーストンを過ぎキングスクロス駅に停まる。 帰りは、学校へ行く時は73番のバスに乗れば直行でセントラルのあるトッテンナムコートロードへ出られる。 もっとも、学校へ行かない日でも、帰りは必ず73番でオックスフォード通りへ出て、この界隈をうろちょろしていたのだが。

 その豆腐とモヤシ屋はキングスクロス駅から歩いて7〜8分の場所にあり、別にこれと言った看板も出ていないので、普通に歩いてる限りは前を通っても全く気付かないだろう。 別に商店街の中にあるわけでもなく、周りは閑静な住宅街で、その会社がある建物の裏には出来たばかりに見える小綺麗な集合住宅がある。 古ぼけた建物の扉を開けて中に入ると、すぐ右手にベースメントへ続く階段があり、正面に大きなテーブルが置いてあって、その奧で一人の男が揚げ豆腐を作っている。 左にも通路があって、そちらは倉庫のようだ。
 細身で小柄なおばさんと、同じ様な、でも一寸はがっしりした体格のおっさんが中から現れた。
ドラゴン・・・・・カンパニーの経営者夫妻だ。 条件はもう総て聞いているので、仕事の様子を見せてもらい、ちょっと話してから、じゃあ明日から来てくれとのこと。
 
 朝8時にこの会社に来ると、まず更衣室で着替えをする。・・・・これが又、この建物のグランドフロアは嘗て何かの店だったようで、着替えはそのショーウインドウでする。 ガラス一枚向こうは通りである。 勿論、このガラスにはペンキが塗られていて、通りからは見えないようになってはいるが、人が通ると陰が見て取れるから、通りから僕達の着替えてる姿も薄い陰のように見えていた筈だ。
 ここで働いているのは日本人と中国人で、午前は僕ら日本人のチームで作業し、午後は中国人と交代するようになっている。 一人は揚げ豆腐を作るのが専門で、モヤシや豆腐を作るのはベースメントの作業場。 7人程で先ずはモヤシのコンテナを栽培室から出して、モヤシをどんどん水槽に放り込む。 水槽に入れたモヤシはザルで掬って一端容器に入れ、袋詰めされる。 コンテナは何列もあって、ローテーションを組んであるので、出荷すると直ぐに洗浄して豆を入れて次の栽培の用意をする。 モヤシ栽培に使われる豆は日本のような大豆ではなく、緑色の、大豆よりだいぶん小振りの豆が使われる。 だから、出来てくるモヤシも日本のものより随分細くてひょろ長い。
 これが終わると、豆腐の準備。
型枠を組んで、これに濡れた布を被せてから、豆乳にニガリを入れて或る程度固まりかけた豆腐をバケツからこの型枠に流し込み、素早く掻き混ぜ、この型枠を何段か積んでから上に重石を置く。 これが済むと交代で休憩。 上に上がってテーブルでコーヒー飲んだり、揚げたての揚げ豆腐貰って、ちょっとこれに塩を掛けて食べたり。 休憩の後は、豆乳を沸かした釜の掃除や次の準備、モヤシの袋詰めやコンテナ洗浄をやる。 豆腐が出来ると、型枠を外して豆腐を水槽に入れ、これを切り分ける。 分担を決めて流れ作業でやるのだが、チームワークは抜群だ。 12時になると一斉に引き上げ、着替えをしてから、経営者のおばさん手造りの昼食を皆で採って終了。 メニューは当然、豆腐やモヤシがふんだんに使われたものが多かった事は言うまでもない。
 時々、このおばさんが白菜やら人参やらほうれん草やらを持ってきて、帰りに新聞紙に包んでくれることもあった。 ここで働いている日本人は色々だった。 北は北海道の長万部から南は九州の鹿児島まで、美容師の卵やギタリスト、ヒッピーのお兄ちゃん(彼はフォークギターが抜群に巧かった。 ある日、彼のフラットでローソク灯りの中で聴いた『22才の別れ』今でも忘れられない。)、スペイン人の奥さんを持つ、一寸やんちゃなお兄ちゃん・・・・・その中でも、ギタリストのAさんからの影響についてここで語らねばなるまい。

 かつて、某クラシックギターのコンクールで優勝経験があるAさんは、髪を腰まで伸ばしてポニーテールにし、継ぎ接ぎのジーパンに素足で下駄履き。 いつもは馬鹿ばっかり言っているが、ギターの話しになると目が爛々と輝き始める。 語学力も何故か相当なもので、誰かの話しではプロフェッションシー受ければ軽く通るだろうという実力・・・・確かに彼の英語は日本人離れしている。 相手によりコックニーから黒人独特の英語まで自由自在に使い分けた。
 彼の勉強方法を見ていると、何かに拘わったりすると、それに関係する単語や言い回しを徹底的に調べてその機会に覚え、実践する。 例えば、何かのきっかけで病院にかかると、医学関係の言葉を徹底して憶えると謂った方法で、相当専門的と思える言葉まで使っていたので、これには参った。 スラングもこれまた凄くて、口喧嘩などすると、相手のレベルに合わせた言い回しや単語、発音で機関銃のようにやるもんだから、イギリス人もたじたじになってしまう。
 僕は彼からギターの魅力を教えられ、彼の影響でクラシックギターを始め、髪を腰まで伸ばした。
残念ながら、僕がギターに興味を持って、実際にやってみたいと思った頃には彼は帰国しており、彼から直接ギターを教えて貰ったのは1回だけだった。 帰国直前まで英語の勉強をしていたと、彼と同じフラットにいた日本人が言っていた・・・僕は彼が勉強している姿を一度も見た事が無かったのだが。


今度はモヤシだけ

  この仕事にもすっかり慣れ、ロンドン生活も地に付いて来だした頃・・・・学校はスタントンに替わっていた・・・この学校で知り合った日本人から別の仕事の話が入った。 と言っても、内容は似たりよたりなんだが、モヤシ専門の工場で、給料は何と£48も出すと言う。 場所は、地下鉄ベーカールーラインのウィルスデングリーンの近く。 僕が前に住んでいたキルボーンの一つ先の駅で、そこからバスで5分、徒歩3分だというからキングスクロスより近い。 僕のフラットの前をC11番のマイクロバス(赤バスの小型版)が走っていて、このバスに乗ればウィルスデングリーンへ直通で行けるから、これは実に快適。
 この工場も閑静な住宅街の中にあり、広さは前の会社の何十倍もあるだろうか。
オーナーはやはり中国人で、この会社以外に手造り高級スピーカーのメーカーも持っている・・・もっとも、そっちは趣味が高じて始めたらしいが。 それはさておき、モヤシ工場の工場長は何故かギリシャ人で、その下に中国人のマネージャーがいて、工場で働いているのは5人の日本人に中国人が数人、それに黒人が7人程。
 朝8時に工場へ行くと着替えをしてから、高さ1.6m、幅約70cmに縦1.6m程のコンテナをローテーションに沿って栽培室から引き出し、前と同じ要領で大きなプールにどんどん放り込んでいく。 これを笊で掬い上げて容器に入れる。 前はドラム缶程のプラスチックコンテナだったので、プールへの移し替えも早かったが、今度は大きいので踏み台に上がって、コンテナの中に栽培されたモヤシをどんどん引き抜いてプールへ放り込む。
 掬い上げたモヤシは隣の部屋で、黒人の女性達が袋詰めをする。
これが又賑やかで、ワイワイがやがややりながら、その内興が載ると歌い出したり、時には踊り出したりと・・・・ピカデリーのレストランを思い出させてくれる。 僕達も他の仕事が終わるとこの手伝いをするのだが、その前に、この作業が済むとプールの掃除をして、コンテナを洗浄、殺菌してから次の栽培の準備をして再び栽培室にコンテナをセットする。 途中10分の休憩をして、一通りの作業が終了するのが12時頃。
 二階は食堂や休憩室、オフィスになっていて、作業終了後、ちょっと体格のいい中国人おばちゃんが作ってくれる昼食を食べてその日の仕事は終了になる。

 この国で働きだして何処もそうだったように、この工場の工場長も僕らと友達感覚で接してくれる。
とにかく、ピカデリーのレストランのシェフと同じで、人生遊ぶため、楽しむ為に生きているんだって人だから、仕事をよくする分、実によく遊び、やりたい事をやって人生を楽しんでいた。  僕がこの工場で働きだした年の夏、突然工場長が出社しなくなって、どうしてたんだろうと思っていたら、エーゲ海クルーズに一ヶ月行ってたのだという。 ヨーロッパでは長期休暇は別に珍しくもないが、イギリスで1ヶ月の休暇というのはあまり聴かない。 実際、ストラウスさんなんかも、夏のバケーションは10日か2週間位だった。 その代わり、僕らが1ヶ月の休暇を申し出ても、2〜3日も前に言えば「楽しんできな」の一言。 新婚旅行で1ヶ月旅した時はピカデリーのレストランにいたが、1週間前に休暇を申し出ると、オーナーはその為だけに臨時のバイトを雇ってくれたし、ストラウス夫妻も決して長期休暇に異議は唱えなかった。

 結局、この後僕らの給料は収益に比例して上がり、£54、£63そして帰国でこの会社を辞める時には£78になっていた。 イギリス人で大学出の初任給が£200/monthだったことを考えると、これは今でも信じられない話しだが、僕らは半日でフルタイムの大卒者以上の給料を貰っていたことになる。 当然、僕達の生活もそれに比例して楽になっていたことは言うまでもない。 

 ただ、どこでもこんなだと思われるとまずいので、念のために書いておくと、HMの友人等で、同じようにオペアをやっていても、結構酷い扱いを受けているような例も一杯聞かされたし、バイトでも条件の悪い所だって幾らでもある。 僕の文章を読んで、まさか総てのケースがこうだと考える人は少ないと思うが、僕は幸運だったのかも知れない。 もっとも、僕が劣悪な環境に置かれれば正面切って抗議するし、ダメなら何時でも辞めて違う仕事を探す覚悟はあった。 それをやっても多くの場合、其れが通る通らないは別として、そのような態度に対して耳を傾けてくれる土壌はある社会だと僕は思う。

 飛び入りで働いたバイト先も含め、幾つものバイトを経験して僕が感じたこと、それはここは契約社会なんだということだったと思う。 そして、自分の主張はハッキリ発言しない限り、日本のように相手が察してくれると言う機会は少ない。 勿論、長く付き合っていると必ずしもそうでないということも判って来たが、少なくとも基本的には沈黙は同意を意味する。 このような契約社会で自分の主張を明示出来ないと言うことは、自分の本意とは別に、罪ですらあると極論することが出来る場合がある。
 演歌じゃないが、義務と権利を秤に掛けた場合、義務が重いのが日本の社会。
義務があって権利がある。 これが日本の社会ではないだろうか? しかし、このロンドン滞在で僕が感じた事、それは義務と権利が同じ重さを持って語られるということ。 どちらが先でもない、同じ横並び。
 昔こんなやりとりが学生時代あった。
就学規則のことで学校側と議論になったとき、決まって先生方の言うせりふがあった。 
「規則を守れないお前らに権利を主張する権利は無い。 まず義務(規則)を守れ。」  その時はそうだと妙に納得したものだ。 確かに、一度その規則にちゃんと沿ってから、それで尚、不都合があったらそれを改めるよう要求するのが筋・・・・・ウンウン、確かに筋は通ってる。 ただ、これって、社会に出て経営者がこの言葉を使うと、雇われる方はすごく不利になりますね。 
 外国人と仕事した人や、彼らを使った事がある人が「欧米人は権利ばかり主張して・・・・」と漏らすのを何度となく聞いたことがあるが、僕は逆に「いや、貴方は義務ばかり押し付けてませんか?」って聞きたくなることがある。 義務優先で慣れ育った僕らにとって、それが空気のような存在になって、そうでない社会の人達の考え、常識を少しでも理解しようとした事があるのかなと思うことがある。 我々の常識は彼らの常識とは限らない・・・・・と僕は思う。
 昔に較べ日本は実に西洋的になったと言われる。
しかし、まだまだ色んな点で、いまでも封建的な考え慣習を多く残しているように、この時の体験や後に帰国して働いた、日本の企業にしては実に西洋的な居心地だった日本の会社や、英国の会社での経験から思う。 そして、外国人を雇いながらトラブルを抱えている会社の幾つか、また、海外に進出しながらうまく現地側と理解しあえない会社を見ていると、自分達でも気付かない自分達の常識をそのまま相手の常識と考え、知らず知らずの内に押しつけ、その常識でもっていろんな事を判断、査定しているように思うのは僕の幻想だろうか? 僕はここで、西洋の考えが正しくて、日本の義務優先の考えが間違っているといっているのでは無い。 ただ、日本という小さな社会、国だけで考えていればそれで良かったが(特に経営側にとっては)、すでにこの考えが通用しない状況が多くの場面で出てきているように思う。 

義務と権利は対等にあるべき。  
これが英国滞在で僕が感じ取った一つの教訓であり、これまで、海外取引を行う上で極力、僕の力で及ぶ限り実行してきたことの一つである。 そしてこの事は、相手が例え子供でも同じではないかと思う。

話がむちゃくちゃになるのを恐れず書こう。
子供が出たついでに、欧米人は相手が小さな子供でも、物事を頼んだり言いつけたりして其れを実行させた後、必ずお礼を述べる。 英語なら「Thank you.」 ロンドンでの経験から僕もこの癖が付いてしまい、今でも必ずお礼は言う。 末っ子(5歳)の子に対しても同じ。


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