プロローグ
僕が育った洲本という町は三角州に発達した町で、前方には大阪湾があり、周りは山に囲まれている。
自動車の普及した現在とは違い、僕が小さい頃は自家用車など持っている家などそう多くもなく、あの頃の僕にとって自分が毎日見ながら暮らしている山々の向こう側というのはまったく未知の世界であった。
夜空に輝く星達やお月様の方が、その姿が見える分身近であったと言える。
僕の母方の実家はこの三角州の頂点あたりにある。
当時この家の裏には電車が走っており、時折り訪ねたこの家から見る電車が僕にとって唯一の外界との接点だった。 そして、この電車に乗っている人々を見る度に、今で言うとそう、スペースシャトルに乗って宇宙に飛び出して行く宇宙飛行士を見ているような、そんな感覚を抱いていたものだ。
やがて小学校も3年生頃になると、それまで電車が努めていてくれたこのような働きは船に取って代わられる事になる。 僕は学校が終わると港に出かけて行っては、そこに停泊している蒸気船をいつまでも飽きる事無く眺めていたものだ。 そして時には、港にある赤や白の灯台に登って、港に出入りする船に向かって手を振ったりもした。
いつだったかは思い出せないが、そんなある日、僕は初めて両親に連れられて神戸にある親戚の家に出かけた。 初めて乗る蒸気船に喚起の声を上げたのもつかの間、船内に立ちこめるペンキの臭いと僅かに臭ってくる油脂の臭いで生まれて初めて、乗り物酔いというものを体験する。(もっとも、これが僕の最初で最後の乗り物酔いとなる・・・・であろうと考えているのだが。)
数時間の後、僕は初めて外国航路や別府航路の大型船がたむろする神戸港を見た。
この瞬間から僕の目は身近な世界ではなく、見知らぬ異国の地へ無意識の内に向けられていったように思う。
中学の修学旅行は東京だった。
当時就航したばかりのB−747を羽田で見たとき、僕の心の中でそれまで沸き返っていた異国への想いというものが少しだけ具体化したように思う。 「いつか絶対にあの飛行機で異国へ旅しよう。」
この思いがかなえられるのに3年あれば十分だった。
高校に入った僕は朝は牛乳配達、放課後は柔道部、そして夕方になれば酒屋で配達のバイトと多忙な毎日を過ごしながら少しずつ旅行資金を貯めていった。 どんなに寒い日も朝5時には起き、雨の日も風の日も、時には雷雨に打たれながらも、また風邪で学校を休まねばならないような状況でも、朝の牛乳配達だけは休まず続けた。 冬の朝は遅く辛かったが、配達途中の漁港から見る日の出や、酒の配達途中で見る夕日の美しさに勇気付けられたし、日曜日に放送されていた『兼高かおる世界の旅』や『世界の子供達』、『明日の世界と日本』、『すばらしい世界旅行』などのテレビ番組が嫌が上にも僕の異国への想いを盛り上げてくれた。
それから、『名犬ロンドン物語』なんて番組は僕の放浪癖のルーツとも言えるものではないだろうか。
そして高校三年の夏休みを含めて2ヶ月のヨーロッパ一人旅を計画するが、学校がそのような計画を諸手を挙げて賛成してくれる筈もなく、今度は40日で再計画。 何れも横浜から船でナホトカに渡り、ハバロフスク、モスクワ経由でヨーロッパに入るコースだ。 しかしながら、英語の通算平均点が20点以下だった僕は校長から母親同伴で呼び出しを受け、旅行を断念するよう説得を受ける羽目になった。
僕はこの旅行のために如何に努力して資金作りをしたか、どれだけの準備をしたか(語学の努力はまったく怠っていたが・・・・当時、僕は言葉が通じたんじゃ旅の楽しみなど半減してしまう、と考えていた。 いや、本当はやはり怠け者で勉強嫌いと言うことなのだけれど。)をとくとくと校長に説明した。
退学覚悟の強引な説得とクラブの先輩でもあった担任の理解で、夏休み中を条件にとうとう許可が出た。 許可はでたものの、すでに手配済みであったロシア経由の予約をすべてキャンセルし、急遽、飛行機での安い往復便を見つけねばならない。 ロシア経由はセット物でなく個人で、神戸の旅行社を通じて予約していたためそのキャンセル料やケーブルチャージで予定外の出費。
何とか、団体旅行の往復だけ同乗させてもらうエアオンリーというのに乗っかり、ヨーロッパ内の移動はユーレイルパスを購入。 ただ、帰りの便はアテネなのでローマ〜アテネ間のチケットも予定外の出費となった。
結局、往復切符16万円。 ユーレイルパスが5万円ちょっとに、ローマ〜アテネが2万幾らだったか。 僕の手持ちは、帰国予定の羽田〜洲本の交通費も含め24日間で7万円という事になった。
勿論、この内訳まで校長に話さなかったのは言うまでもない。
旅行計画とか予定コースなどまったく立てていない、気ままな旅ではあったものの、当時、ヨーロッパの都市の粗方の地形は理解していたし、大体の有名な建物は写真や映像で解っていた。 それに、ヨーロッパの列車が好きだった僕は、当時36路線あったTEE(Trans
Europe Express)の運行スケジュールもほぼ頭に入っていた。 第一、基本的に地図を見ながら街中を歩き回るのが大嫌いな僕に、旅の予定など立てられる筈もなく、立てた所でまずその通りの旅など不可能に近い。
何しろ『名犬ロンドン物語』で育ったのだから。
言葉が解らないハンディーは僕にとり、それが逆に異国気分を味わえる程度のものでしかなかった。
やがて出発の前日。
僕は大阪の親戚の家で一泊させてもらうが、小さい頃からボーイスカウトをやってた僕の従兄弟が自分の部屋の中にテントを張ってくれた。 あれこれ小道具を貰ったりその使い方を教えてくれたり、いつか二人で未知の土地を探検しよう等と、そんな密談が何故か部屋の中に張られたテントの中で深夜まで続いた。
出発当日。
若い頃、単身ボルネオで商売をしていた叔父と従兄弟、母が伊丹まで見送ってくれた。
ここから始まる事はすべて僕の人生で初めての事だらけだ。
そう、飛行機に乗るのが初めてなら、修学旅行以外で関西を離れるのも初めて、そういえばそれまで一人で一泊旅行もした事がなかった。
搭乗口に向かう僕の心に緊張感が無かったと言えば嘘になるかも知れない。
しかし、そんな緊張感など入る隙間も無い程、僕の心は未知の土地への期待と冒険心で一杯だったように思う。
|