なんて事を書いて別に文部省の肩を持つつもりも無ければ、今の英語教育で十分だとか、正しいとか考えてる訳でも無ければ、反対に間違っていると書こうと思ってる訳でもない。 第一、書いてる本人の英語が実にいい加減なもので、文法力なんてまるで中学1年の1学期を過ぎた頃の学生以下なんだから、そんな大それたテーマを扱える筈もない。 でも、ちょっとだけ僕が感じている事を書いてみたいと思う。 非常に主観的な見方で書くので、結構無責任な内容になると思いますが(他の稿も同じか)暇と時間があったら読んでみてください。 今では幼児教育とやらで、幼稚園からでも英語教育をはじめてるケースもあるようだけど、一般的には中学から英語を始めて、高校、そして大学で勉強する人はさらに何年か英語の勉強をするから、単純に考えて8〜10年位は英語の授業を受ける事になるんだろうか。 「十年近くも英語の勉強をしていながら何故日本人は英語が話せない?」よく聞く決まり文句。 雑誌や語学の本、TVにラジオ、いろんな所から偉い先生方がそんな内容の有り難いお話をされる。 なるほどなるほど・・・・・僕がロンドンに行った頃も、1年ほど仕事していた英国企業でも(何人もの外大出がいたが)感じる事は同じ。 上手い奴は上手いが、失礼ながらそうでない人はこれでよく外大出られたなあと思うような人もいた。 断っておきますが、僕は英語力ありません。 何せロンドンで学校通っていたと言ったって、それはビザ延長と友達と馬鹿話しするのが目的で、自慢にならないが中学時代に買って貰った辞書(一応、UKにも持って行ってた。)が今でも新品同様な位ですから。 先に書いたお偉い先生方の言われる言葉もここまで諄くなると、これはもう警告や意見と言うより洗脳に近いのではないだろうか。 さらに言えば、そんな教育制度で既に育った人達にして見れば「じゃあ、俺達が勉強した英語は何だったんだ」ってことになる・・・・責任者出て来い(失礼、漫才ではありませんね。)とも言いたくなる。 そう、真面目にやった人であればある程そう言いたくなると思う。 話が変わるが、高校時代の欧州旅行や卒業後、ロンドンに住み始めてつくずく感じた事、それは自分の単語力の無さと文法力の無さだった。 まあ、文法の方は言うほど意識した事は無かったが、単語力の無さと、定型文を知らない事で時には一つ一つの単語は解っても言葉全体の意味が解らないという事が多かった。 How do you do. この言葉の意味を理解出来ない日本人はそう多くはないでしょう。 実際にはこんな言葉はあまり使われないが、しかし、高校を出た当時の僕にはこの言葉の意味が解らなかった。 いや、どう訳していいのかさっぱり解らない・・・にも拘わらず、電車の乗り換えや安宿の交渉は立派に英語?でこなしていたんだから、言葉って不思議なものだ。 少なくともこの時期からヒアリングに困ったとか言う経験はしていない。 「まさか」と思われるかも知れないが本当の話だ。 別に僕に語学の才能がある訳じゃない。実に簡単な話だ。 相手の話が早くて聞き取り難ければ Speak slowly please. の一言でいいし、言葉の意味が解らなきゃ、 I don't understand. Speak simply please. で相手の話し方はがらりと変わる。 会話と言うと相手があって始めて始まるものだ。 別に弁論大会やる訳じゃないし、自分の英語力をひけらかさなければならない訳でもない。 一番大切なことは、上手い英語を話す事ではなくて、自分の考えや言いたい事を相手に伝えることの筈だ。 そう考えると、少なくとも単語力や定型を幾つも知ってさえいれば、会話を続けるのになんら障害は無い筈ではないだろうか?(時間が無い時は別)それでも全くだめと言うなら、それは英語教育の問題というより、教育全体もしくは自分自身の問題であって、それを再考しない限り問題は解決しないように思う。 まして、外国人と話す機会が無いから・・・・・なんて理由にならない。 何故なら、僕は何度も目にした事がある。 田舎なんかに行って素朴なご老人達が何のてらいもなく外国人と接している姿を。 言葉が出来る出来ないなんて関係ない。 僕が見た彼らは心で接していたように思う。 この姿勢である限り、そこにたとえ机上知識であっても単語力があれば、恐らく彼らは堂々と英語で対応出来ると思う。 それでもやっぱりダメと言うなら筆談すればいい。 筆談でもいいではないですか。 僕はアジアへ旅する時、相手が中国語が出来て英語がダメって時は紙と鉛筆出してよく筆談したもんだ。 時には絵や地図を描いたりして、今度はそっちの方で話が盛り上がったり。 まして英語の基礎学力がある人なら、これを何度も繰り返している内に話せるようになりますって。 僕ら日本人はやはり真面目な人種なんだろうか? えらく発音や文法を重視する・・・・から余計それが気になって話せない。 って事すら教育のせいにしたがる。 でもね、こんな教育体制が出来上がるって事は単に文部省のせいでは無く、やはり僕らの国民性に根ざしている面も大きいように思う。 勿論、改革すべき面は大いに改革が必要でしょうけれど、それだけで問題は解決しないように思う。 更に言うと、果たして発音なんか何処まで正確にやる必要があるのか僕は疑問です。 勿論、ある基準は必要だけど、言語学者にでもなりたいなら、また、本当に英語が好きでこんなように喋れるようになりたいなんてことなら別だけど、そうでないなら、そこまで真面目に考える必要は無いと思う。 それじゃあ相手に誤解を与えたり、真意が伝わらない・・・・・馬鹿な、じゃあ、日本人は皆標準語を話してますか?って事になる。 実際、英国ですら下町の生粋の英国人でも普通にこんな言葉を使っている。 He go to ・・・・・・ これを聞いたある某外大出の日本人が、君の英語は間違ってると言ったもんだから、そのパブにいたコックニーを話す連中が大笑いした。 それに誤解大いに結構だ。 外交だの企業間の取引ならいざ知らず、民間レベルの誤解はそれがたとえ起きたとしても、それはそれで解決に努力すればいい。 なにも一方通行じゃない。 お互いの努力と忍耐でこれを解決すればいいだけだ。 こうやって信頼も生まれてくると言うもの。 だた、命にかかわるような内容のものはこんな悠長なことは言ってられないけど、言葉のイントネーションや雰囲気、相手の表情でそれと解るのが普通で、その国の国情と照らして肌で感じる敏感さは要求されると思う。 何でも日本と同じ感覚でいたらそれこそ命取りになり兼ねない。 その事は僕も何度か痛感してます。 話が題名からおおよそ違った方へずれてしまったが、 まあ、誤解を恐れず一言で言ってしまうと、いくら詰め込み教育であろうが何であろうが、教育される側に将来の展望なり何かの夢や目的があれば、それはそれで立派に機能すると思う。 少々いい加減な教育でも、やる気のある人間はどうとでも工夫して物にしていくのではないかと思う。 今の教育にはその一番大切なものが抜け落ちているような気がしてならない・・・・と言うか今の社会と言った方がいいのかなあ。 だから、くり返すようだけれど、やれ英語の教育がどうのとかいうより、教育制度全体、さらには社会全体の問題としてとらえる必要があると思う。 それから、もっと基本的なこと、それは個人個人の英語に対する考え方をもっと気楽に、肩の力を抜いて考えたらいいのではと思う。 ![]() ![]() |
ヨーロッパを旅した人達の殆どが言う言葉に、「ヨーロッパは自然が一杯残されていて・・・・・・」という決まり文句のようなものがある。 確かに、ロンドンでもパリでも街中には大きな公園が多くあり、あの有名なハイドーク(多くの人がケンジントン・ガーデンとハイドパークを一つの公園だと思っているようだけど。)だって、キュー・ガーデンやリッチモンドに比べれば決して大きな公園とは言えないくらいだ。 確かに緑は多い。 郊外や田舎にいっても綺麗に造形?された自然が車窓から延々と続くさまは正に壮観。 実際、写真を撮ろうとした場合、被写体に苦労する事はない。 だいたい何処を撮ってもさまになるんだから、大げさな言い方をすればヨーロッパ全体がまるで公園のようだ。 僕が結婚して、その新婚旅行にヨーロッパを1ヶ月程旅した時、丁度フランスのシャルトルに着いた日でユーレイルパスが切れた。 この町にあるシャルトル大聖堂へはどうしても行きたかったので、結局僕らはこの町で一泊してから、パリまで歩く事にした。 何せお金の無い旅。 キスリングに寝袋しょって、3日かけてパリまで歩いた。 延々と続く(ホントは永遠と続くと書きたい位だったが)田舎道をトボトボ歩いてる内に、何故かこんなことを思うようになった。 「ここは公園や、どこもかしこも人間の造った公園や。」 イギリスに住んでて、ヨーロッパを旅して思うこと、それはどこも彼処も綺麗過ぎる。 いや、別の言い方をすると人間の手が入り過ぎてる。 彼ら欧米人にとっての自然って何なんだろう? そう考えた時、彼らにとっての自然とは克服するもの、管理するものでは無かったかと思う。 言い方を変えてみると、自分たちの都合がいいようにさんざいじくって、そこから出来た自分たちにとって美しいと思うものにした作品じゃないかと。 それなら綺麗なのは当たり前だ。 中世までのヨーロッパは緑に覆われた、深い森が支配していたといったことを何かの本で読んだことがある。 「ヘンデルとグレーテル」にせよ「赤ずきんちゃん」にせよ、あのロビンフッドが暴れ回るのも森の中だ。 それが今の姿になったのは結局、人間による森林伐採であり、今の姿はそれ以後人の手によって造られてきたものという事らしい。 彼らの自然保護という意識はその辺から芽生えているのかも知れない。 従って、自然にはうち勝てないと考えるのではなく、自然は克服出来るものであり、そうである以上、人間がちゃんと管理しない限り、それを破壊もしてしまう。 ただ、ここで僕が思うのは、この人間が・・・・という部分。 ひょっとして、彼らにとってはこの部分が人間がというのではなくて、「自分たち(つまり西洋人)が」という事ではないかと。 彼らの言う自然とは、人の手によってきちんと管理された環境を言う・・・・極論かな? じゃ、人の手によって管理されてない環境はというと、それは「野生」と言うのだろうか? 一方、僕らの場合はと言うと、比較的穏やかな気候で、地質面でも安定期にあるヨーロッパとは違い、台風もあれば地震もある。 自然は克服するのでなく順応するものという意識が強いのではないだろうか? 僕らが自然と言う言葉を聞かされた時にピーンとくるもの。それは、「人の手が入ってない、あるがままのもの。」ではないだろうか? でも、これは西洋人にとって自然ではなく野生なのだと思う。 僕らにはこの野生と自然の区別が無い、いや薄いように思えてならない。 自然保護、動物愛護・・・・言葉はいいが、もし自然や動物とちゃんと共存していれば、こんな言葉は出て来る筈のないものなのだ。 そんな運動が必要になるのは、結局、その反対の事を行ってきたからであり、何も初めから崇高な理念があって始まったものでは無い筈だ。 〜保護と言う言葉の裏には、それを保護する側が圧倒的優位で主の位置にある事を意味するものがある。 これでは自然保護じゃなくて自然管理といった方がいい。 もし保護と言う言葉を使うなら、野生保護とか野性の保護って方が僕にはピンと来るのだが。 追稿 東京がまるでコンクリートジャングルのように言われる。 しかし、僕が住んでいた調布には一杯の緑があったし、コンクリートでない、土盛りの土手もあった。 そこには蛇や蛙、何処だったかザリガニだって見た覚えがある。 夜になれば虫の声だって聞けたもんだ。 反面、緑が一杯の筈のロンドンでは動物園以外で蛇を見る事も無かったし、東京のようにふんだんに色んな虫たち(害虫も含め)に出会う事もなかったように思う。 それとも、僕が忘れてるだけなのだろうか? 確かに、公園へ行けばリスや綺麗な鳥たちはいた(檻の中じゃなく)。 でも、動物や虫ってのは人の好む種ばかりじゃないだろうに。 この事が今でも不思議で仕方がないのだ。 ![]() ![]() |
僕がモヤシ工場で中国人や黒人と仕事をしていた頃、黒人の中にオビと言う大柄の男がいた。 背丈だけではなく、体格も隆々の彼とはコンテナのモヤシを水槽に移す時などよく競争をしたもんだ。 最初はいいが、コンテナは深いので底の方のモヤシを引き抜くには腰を折り曲げてやらねばならず、結構重労働だ。 一見力強そうな彼の上半身の力こそ凄いものの、下半身はそうでもないらしく、殆どの場合僕がこの競争の勝利者になった。 「masa、お前の何処にそんな力があるんだい?」と彼がよく僕に言ったもんだ。 そんな彼がある日僕にこんな事を言った事がある。 「アメリカ人は俺達黒人を差別するがね、英国人は俺達を区別するんだよ。」 この時僕は、彼の言ったこの言葉の意味が何なのか理解出来ないでいた。 差別と区別? それから日が流れ、オビのこの言葉の事も忘れたある日、僕はバンクにある欧日協会の日本語図書室である本に出会う。 会田雄次著の『アーロン収容所』がそれで、副題には(西欧ヒューマニズムの限界)と書かれていた。 この本は、戦後から昭和22年5月までビルマの英軍捕虜収容所で過ごした氏の体験を中心に書かれているのだが、その中に、ある英軍女性兵達(看護婦やPX関係)の事が書いてある部分がある。 要旨だけを書くと、彼らは彼女達にまるで家畜か単なる物体のような扱いを受けたというもので、例えば女性兵や看護婦が用便中、風呂上がりの全裸の時、 そのような時でも捕虜とアジア系の人間はノック無しで彼女達の部屋に入れたと言うのだ。 全裸姿を彼らに見られたとしても、彼女達は何ら恥ずかしがる訳でもなく、彼らを顎で使ったと言うし、彼らの存在を完全に無視出来たと書いている。 そう言えばエジプトの時代劇なんかで、女王が男の奴隷の前で平気で裸体を晒すような場面を見た覚えがある。 つまり、奴隷を人間として考えていないのである。 そこにいる異性を単なる家畜の一種と考えるなら、例えば女性でも自分の愛犬(雄)の前で裸になるのを躊躇するだろうか? オビが言った言葉がこの会田雄次氏の体験談と同じ内容のものとは勿論思わない。 しかし、彼が言った区別という言葉の裏には、この本に書かれたような背景が不気味に潜んでいるように思えてならない。 僕はオーディオも趣味でやるので、その事にちょっと当てはめて考えてみる。 ステレオセットにはプリ・アンプやパワーアンプ、レコードプレイヤー、CDプレイヤー、スピーカーなど色んな装置が組み合わさっている。 アンプとスピーカーと言った場合、これらはまったく違った役割(増幅と言う点では同じだが)を持った装置であり、これらの能力、仕事の違いを僕達は区別して理解している。 そこで、今度はAと言うアンプとBと言うアンプを比較した場合、両方とも同じアンプであることに違いはなく、その用途も当然同じなわけだ。 そして、Aのアンプは非常に高級な回路や部品が使われているのに対し、Bは取り敢えず音が出ますといった作りだったとした場合、僕たちはこの2つのアンプを差別化して考える訳だ。 これらが同じ会社、同じシリーズのものならさしずめAはBの上級機と言う事になる。 昔、白人達が泳いでいるプールに黒人が入った途端、蜘蛛の子を散らすように白人がそのプールから出てきたと謂った話があった。 結局の所、差別と謂う行為は被差別対象を同じカテゴリー、つまり同じ人間と考えた上で差別化を図ってる訳だ。 所がそれが区別と言う場合、自分たちとはまったく異質な物、いやもっと直接的に言えば、相手を人間と見なしていない事が考えられる。 相手を人間として見ていない、人格を認めてないんだから、自分の裸を見られても別に恥ずかしくも何とも無い。 いや、時にはまるでペットを可愛がるように大切にもするかも知れない。 オビはそんな何かを体験したか感じたか、それを僕に伝えたかったのかも知れない。 この問題は勿論、イギリスやアメリカだけの事ではない筈だ。 この日本にだってあるし、世界のどの国へ行っても多かれ少なかれ存在するし、別に民族間でだけの問題でもなく、会社や学校、家庭でも存在する問題ではないだろうか? そしてこの国を眺めて見た場合、昔の虐めだの仲間はずれだの、村八部だのってのは何だかんだと言ってもその根本は差別、つまり、少なくとも相手を人間(同じ人格を持った)として対峙していたように思う。 所が、最近を見てみるとむしろ区別化に起因する虐めや更にエスカレートすれば殺人のような凶悪犯罪が増加して来ているように思う。 会田雄次氏は西欧ヒューマニズムの起点、このような出来事の行動起点を牧畜社会の形成に被せて捉え、西欧の家畜管理に対する考え方があのアーロン収容所での捕虜管理に反映されていると考える。 この日本でもこのような西洋思想の流入によって、僕らの思考形態も知らず知らずの内に彼らの考え方が潜在意識の中に形作られているんだろうか? 更にPCやTVゲームの浸透が僕らの心の中のどっかに、人が人を区別するという感覚を植え付けているのかも知れない。 誤解の無いように断っておくが、西洋人がすべてこのような考えであると考えるべきでは無いと思う。 戦争と言う特殊な環境の中にあって体験された事である事を忘れてはならない。 何れにせよ、相手の人格を認めないと言うことはとりも直さず、自分自身の人格をも否定する事にはならないだろうか? ![]() ![]() |