アムステルダム再訪(アンネ・フランク記念館) 長女誕生を5ヶ月後に控えた1977年初春、僕たちは£120の予算でアムステルダムへ一週間の旅をすることになった。 当時HMが書いた日記を見るとざっとこんな予定を立てている。
ヨーロッパの公園や庭園、広場などを歩いていると、ベンチに腰掛けて鳩に餌をやったり、編み物や読書をしていたり、時には何をするでもなくただじっと座ったままの老人達を見かける。 このような光景はロンドンでもよく見かけるし、この老人達が時には朝から晩までその場所にいたりなんて信じられない光景も何度となく目にした。 「流石、福祉が発達した国だ、老人たちは何の悩みも無しにああやってのんびりした余生を送れるなんて。」と、最初は関心したものだが、暫くする内にこの考えはだんだんと変わってきた。 ロンドンでの生活基盤が固まって来ると、自分の日常生活圏というものも形作られて来る。 僕たちはウエストハムステッドの近く、クリーブロードに住んでいたが、買い物はフラットを出て左に、ちょうど地下鉄の線路に沿うようにフィンチリー通りへ歩き、この駅近辺にあるセンズベリーっていうスーパーに行っていた。 毎日この通りを歩いている内、僕はある事に気付いた。 フィンチリーへ向かうその途上、ある家の二階窓からいつも外を眺めていた老女がいる。 年の頃なら70から80位だろうか、ほっそりした顔に灰色っぽい髪、肩にはいつもショールのような物を巻いていつも無表情な顔で通りを見下ろしている。 「幽霊?」 初めてこの姿に気付いた時、僕の心臓は一瞬止まりそうな程の衝撃を受けてしまった。 それ以後、まるでこの窓に彼女の写真を貼り付けてあるかのように身じろぎもせず、時に朝日の中で、また時には夕暮れのオレンジ色に染まりながらこっちを見ている老女の視線を気にしながら、僕はこの通りを通っていた。 多分、腰掛けにでも座っていたのだろうけれど、この老女を見かけるのはいつもこの窓辺だけで、路上や玄関先で見ることは一度として無かった。 時が過ぎ、僕達の帰国が近づいたある日の夕方、いつものスーパーでHMに頼まれた夕食の買い物をした後、フラットに向かって歩いていた僕の目に見慣れた彼女の姿が映った。 いつもなら窓を閉めてその向こうから見ている彼女が、どういう訳かこの日は窓を開けている。 帰国前に何故か急に彼女に挨拶をしたいと思ったが、窓を開けているとはいえあの無表情な姿は同じ。 躊躇しながらも、僕はありったけの勇気をふり絞って彼女に声をかけた。 「グッ・イブニング マム」 突然声を掛けられた彼女は少し驚きの表情を浮かべた後、ほんの少しだけ窓から身を乗り出すようにしながら僕に向かって挨拶を返してくれた。 「奥さんと可愛い赤ちゃんは元気?」 「元気ですよ。 僕たちは間もなく日本に帰ります。」 「なんて残念なんでしょう、初めてお話が出来た時がお別れの挨拶だなんて。」 「僕たちはまた2年後に来ます。 この街が好きだから、またこの街に住みますよ。」 「じゃ、2年後、皆さんと一緒にお茶でも飲めるのおを楽しみにしてますよ。」 彼女は今まで見たこともない穏やかな顔をしていた。 翌日、僕たちはハムステッドに出かけるが、残念ながらこの日彼女の姿はその窓には無かった。 あの時見ていた彼女の姿というのは決して彼女一人の姿ではなく、西洋の個人主義社会(そして核家族社会)の中の一つの典型であったような気もする。 日本は工業、経済の先進国の一つでありながら、こと福祉面ではこれら先進面程には先を行っていないように思う。 ただ、確かに英国や他の一部福祉先進国のそれに比べ、日本のそれは遠く及ばない感があるけれど、単に西洋型の福祉体制や器具をそのまま導入すればいいと謂うものでもない事は無知な僕にもわかる。 日本の場合、古くから「向こう三軒両隣」って言葉通り、いろんな形でのコミュニティーが存在していた筈だ。 それらは必ずしも組織化されていなくとも例えば、今夜の食事に醤油を切らしたので隣から借りるとか、近所で葬式があると近所が手伝うとか、あそこは老人の一人暮らしだから時折近所の人が声を掛けてやるとか・・・・・そんな立派なコミュニティーが存在した。 僕の家はたばこ屋をやってるが、小学生の頃、母がちょっと留守していた時、たまたまたばこの客が来たのか、通りがかりの近所の人が商売していてくれた事を覚えている。 勿論、別に母が頼んで行った訳ではない・・・・・通りがかって、「おや留守かい、じゃ私が帰るまで見てたげよう。」ってやつだ。 このような無形のコミュニティーが混沌として存在した日本の旧社会にあっては、本来、福祉という役割は無意識の内に市民同士の間で行っていたのではないだろうか? 一方、個人主義が発達した西洋の場合、日本より個々のものがより明確に独立して存在しているため、これら個々のものを結びつける潤滑(交流)の場として、例えば教会やコミュニティー施設が利用されてきた。 福祉体制の発達はこのような個人主義社会の地盤を基に発達してきたんだと思う・・・・違ってたらゴメンなさい。 先に書いた、一日中公園で鳩に餌をやっている老人やベンチに腰掛けてのんびり時を過ごす人達、彼らが本当に幸せかどうか、それは僕には想像もつかないこと。 確かに、このような老人達が西洋社会の全てではない。 いやむしろ、こちらの方が少数派なのかも知れない。 実際、お金なんか無くったって老後を実に楽しく、活き活きと楽しんでいる人達も僕は知っているのだから。 ただ、現代の日本はそれまで育まれてきた日本的な、いい意味でのソサエティーを失いつつ、西洋という、我々にはまだまだ馴染み薄い社会、歴史の中で生まれたシステムを未消化のまま導入しているように、傍目に見える。 結局どちらも中途半端で、向こうのような整った設備や体制がある訳でもなく、それでいて日本の良きコミュニティーや市民間の意識も低下しつつある。 この国での福祉問題というものは老人問題も含め、先に書いたような古来からあった良い意味での市民共同体意識をベースに考えない限り、福祉体制というものの存在が市民共同体意識の掃き溜めになってしまう恐れすらあるように思えるのだが。 クリーブロードのゴースト あれは僕が帰国間際にみた別の意味の亡霊だったのだろうか? Home Index |
帰国前〜帰国 東京にあるクラシックギターの専門学校のことを知った時から、僕はこの学校への入学のことしか考えていなかった。 この年からクラシックギターを専門的に学んだところでさしてものにならないこと、それどころか、授業やレッスンについて行けるのかといった不安は当然の事ながらある。 当たり前の話だ、なにせギターのレッスンを受けていると言ったって、街のギター教室で週1回だけ、しかも、レッスンはギターの弾き方を教わっているだけであって、音楽の学科授業なんて全く受けていないのだから。 ある日、そんな多少の不安を僕はギターの先生であるサイモンに投げかけて見た。 「東京にあるギターの専門学校に入って勉強してみようと思うけど、僕の年ではもう遅いかな?」 「もう遅いって、専門教育を受けるのが遅いかって聞いてるのかい?」 「そう、だってクラシックなんて普通は幼児から始めるもんだろう。 まして専門学校だなんて。」 「masa、君らしくないなあ。 何故、そんな事に悩む? 考えたり悩んだりする前に、もし君が本当にそれをやりたい のなら、まずそこに飛び込んでみることだね・・・・それが君らしいし、君の年ならまだ出来る事だよ。」 そうだった、僕はこれまで物事に迷ったとき、まず飛び込んでみることにしていた。 もし自分が本当にそれを欲するなら、考える前にまず飛び込んでみること、扉を開かない限り道は見えもしないし、開かれもしない。 何事も結果を心配していたのでは先を進めないんだ。 決心がついた時、その時が僕達の帰国準備の始まりだ。 4年足らずとは言え、この間に僕たちの荷物は思いの外多くに膨れあがっていた。 必要な物は送り返し、捨てるものは捨て、利用出来るものは友人などに貰ってもらう。 長女に使っていた色んな用具は偶々出産を控えていたある商社マンの奥さんに引き取ってもらった。 仕事先や学校、友人に別れを告げた後、僕の足は自然とビクトリア駅に向かっていた。 18の夏、僕は一人でキスリング・ザックを背負いこの駅に降り立った。 あれから4年近くの間、僕はこの街で何とか自活し、その気になればワークパーミッション(労働許可)を採ってやろうという話も無いではなかった。 一体何を好んで大好きなこの街を離れると言うのか? そんな想いがとめどなく僕の頭の中を駆けめぐり、決心した筈の僕の心は大きく動揺した。 ビクトリアからバッキンガム宮殿を経て、ハイドパークを横切りクインズウエイへ。 そこにはHillbrow Hotelがある。 そしてマーブルアーチからボンド通りをピカデリーに向かった。 嘗てお世話になったあのユダヤ人経営のレストランの前に差し掛かると、経営者は替わったものの、中にダイアナの姿が見える。 「あいも変わらずでかいなあ彼女は。」 僕はレストランの斜め向かえの歩道に腰を下ろし、ポケットから両切りのピカデリー(たばこ)を出して火を付けた。 ビクトリアに行った時から動揺し続けている気持ちを抑えるように、僕はこの場所から仲間達一人一人に心の中で別れを告げた。 ピカデリー・サーカスからリージェント通りに入った所にBOAC(ブリティッシュ・エアウエイズ)のビルがある。 今ではオーナーが変わったらしいが、このビルの前のバス停で159番のバスを待つ。 「この次、僕がこのバス停に降り立つのはいつになるのだろうか?」 ふとそんな思いが僕の脳裏をかすめる。 40分位待ったろうか。 普通この路線は5分に1本の割でバスが来る筈なのだが、交通事情でか、来ない時は全く来ず、来るとなったら何台もまとまってやって来る。 これはロンドンの全てのバス路線に言えることで、僕ももう慣れっこになっている。 やっとやってきたバスは案のじょう5台もの159番が連なってやって来た。 僕は2台やり過ごして3台目のに乗った。 このダブルデッカーに乗るのも最後だし、これから見るオックスフォード通りも取り敢えず通り納め。 バスがセルフリッジスの前で停まった時、僕の頭にはクリスマスの飾り付けがされたあのショーウインドウの姿が想い起こされ、それと共にアコーディオン弾きの爺さんの演奏や栗売りの声が、色んな音が僕の耳の遠くで聞こえる気がする。 フラットに帰り部屋に入ると、部屋はもうすっかりHMによって片付けられ、僕らが初めてこの部屋を見に来た時のようになっている。 「やっぱり僕は日本に帰るんだ、今夜がロンドン最後の夜になる。」 これから好きなギターを本格的に学べると言うのに、僕の心は何故か暗く寂しかった。 翌朝、ヒースロウ空港までのタクシーを予約してから、3人でハムステッド・ヒースに出かけた。 この丘やケンウッドの森は僕たちの思い出の場所であり、最後の一時をここで過ごしたかったからだ。 フラットに帰ってタクシーを待つが、時間を過ぎても一向に姿を見せない。 フェーバライト夫人が心配して何度か予約先へ電話してくれたがらちがあかない。 夫人が見当たらないと思ったら、タクシーに乗って帰ってきた。 もう待てないので、通りすがりのタクシーを拾って来たのだと言う。 慌ただしくタクシーに乗り込んだ僕達は、ゆっくりお礼を告げる間もなくフラットを後にした。 御夫妻の姿と思い出のこもったフラットの姿が見る見る遠ざかって行く。 タクシーはフリーウエイを通ってヒースロウに到着した。 荷物を下ろし、代金を支払おうとすると、フェーバライト夫人から貰っていると言う。 西洋人がこのような気の利かし方を滅多にしない事を僕達はよく知っていただけに、夫人の心遣いに感謝した。 搭乗手続きをしてからパスポート・コントロールを過ぎて搭乗ゲートに。 1ヶ月の一時帰国の時とは違い、今回はチャーター便でなく、アエロフロートの定期便だ。 赤ちゃんがいるため、僕らの席はちょうど間仕切りの後ろで、他の席より広くなっている。 赤ちゃんは間仕切りの壁に組み付けられた簡易ベッドに寝かされる。 飛行機は定刻より1時間遅れてゲートを離れた。 もう暗くなっているため辺りの景色はあまり見えない。 飛行機はゆっくりと誘導路から滑走路に向かって進んで行く。 やがてキーンというエンジン音がゴーという音に変わり、機は離陸速度まで一気に加速して行く。 4年近く前、ハバロフスクから乗ったアエロフロート機と同じように、ちょっと荒っぽいテイクオフで僕達は瞬く間に闇夜に舞い上がった。 旋回の時ちらっと見えたロンドンの夜景・・・・「ピーターパンになったみたいだね。」 それまで無言だったHMがポツンと囁いた。 窓の方によじっていた体をもとに戻し、深い深呼吸の後僕は目を閉じた。 何故か遠くの方から歌と共にある光景が僕の瞼に浮かんでくる。 いったいどこの景色だろう・・・・直感的にそれは北部高地地方(ハイランド)の景色のようで、湖があってその淵にある小高い丘には朽ち果てた城が見えている。 いや、これはインバネスか? そして、その廃城の上で黒いショールに身を包んだ女性が湖の方を向いて『Amazing Grace』を歌っている。 女性の側にはアイルランドの民族衣装を身にまとった体格のいい、髭面のおじさんが腕を組んで、同じように湖の方を見ている。 この景色が一体どこのものなのか今も分からない。 小さい頃いつも思っていたこと「あの山の向こうには何があるんだろう。」。 この疑問、ロンドンにいた間中、この想いはアイルランドに向けられていた。 行こうと思えば何時でも行けた筈なのに、何故か行くのが怖いようなもったいないような、アイルランドは僕にとってそんな地だった。 ひょっとして僕の心の中にいつもあったアイルランドへの想い、そんなものだったのかも知れない。 騒々しい機内放送の音で、虚ろになっていた僕の意識が我に返った。 窓の外はもう真っ暗な闇の世界。 さようなら愛しのロンドン、青春の思い出と夢を置いて僕は今、新たなる夢に向かって飛び立つ。 いつの日かやって来ますまた、残して来た多くのものを探しに。 Home Index 遙かなるテームズの流れ 家族のみんなが寝静まった後、静かな部屋で一人C27コントロール・アンプのスイッチを入れる。 ちょっと時間をおいてMC1105パワー・アンプのスイッチを入れると、マッキントッシュ独特の淡い、まるでカプリ島で見た海の色のようなブルーのイルミネーションが灯る。 CDデッキのスイッチを入れ、そこに一枚のCDを入れてスタートボタンを押す。 愛用のパイプに手が届くのが早いか、イギリス生まれのタンノイ(G.R.F.メモリー)からあの曲、『Amazing Grace』が流れ出す。 ジェシー・ノイマンの緊張感に富んだ、それでいて優しい声が僕の部屋に広がる。 演奏を最初に戻し、再びスタートを押した後、パイプに火を入れるとまずはおもいっきりふかした後、目を閉じているとあの頃の懐かしい人々の顔が一人ずつ僕の瞼の奥にしなやかに蘇って来る。 人は過去の思い出を懐かしむようになると、年とった証拠だと言う。 僕の場合はロンドンを離れる前から、そんな懐かしい感情に駆られていたのだから、ひょっとしたら、僕の頭はあの当時から年とってたのかもわからない。 何十年か過ぎた今、何人かの人はもうこの世にはいない。 一見、めまぐるしく変わり行くように見える時の流れの中で、あのテームズの流れは今も緩やかにロンドンの街中を通り過ぎて行く。 CDの演奏が終わる頃、僕のパイプたばこも燃え尽き意識は現実の世界へ引き戻されて行く。 まるでピーターパンの魔法が解かれたかのように。 Home Index エピローグ ちょっとした思いつきでこの旅行滞在記を書き始めたのは1996年頃だった。 実際にはA4用紙100枚程度になっていたが、その中から適当に選び出してこのHPにアップし始めたのが2000年の8月末頃だった。 書き出した当初は人に見て貰うなんて事は考えて無かった筈なのだけれど、いつのまにやらこうしてアップした量も結構なものになってしまった。 このまま滞在記を続けるより、一端この辺で完結させ、以後はエッセイ編でこの滞在記では取り上げなかったいろんな事について書いて行こうと思う。 旅行記、滞在記と書きながら観光案内らしきものも無く、役に立つような情報も無いこんなサイトを最後までお読み頂いた事にたいし、心よりお礼申し上げる次第です。 |