モンマルトル その日の昼過ぎ、列車はパリ北駅に到着した。 彼女の目的地へ向かう列車の発射時刻がギリギリだったため、慌ただしく車上の人となり、見る見る僕の視界から列車が消えてゆく。 一人になった僕は取り敢えず少額をフランスフランに換金し、ロンドンまでのナイトフェリーのチケットを購入した。 今夜10時発の列車でこの北駅を出て、ドーバー海峡に面したカレーからフェリーで対岸、つまり英国のドーバーに渡った後、もう一度列車でドーバーからロンドン(ビクトリア駅)に向かう。 列車の時間までまだじゅうぶんの時間がある。 このパリまでわざわざ遠回りして来たのは、何もお嬢様を送るためだけでは無いのだ。 荷物を駅のロッカーに預け、僕は早速モンマルトルの丘を目指して歩き出した。 北駅はモンマルトルの丘の麓あたりにあるので、サクレクール寺院のある丘まではそれ程の距離でもない。 そう、僕はあの寺院の前の階段に立つ、ただそれだけのためにわざわざパリまで来たのだった。 何故僕がかくもこのモンマルトルに惹かれたのか、残念ながら自分でも説明がつかない。 もし僕が文学、絵画、音楽のどれかに造詣が深ければ、モンマルトル墓地を訪れる理由はあるし、画家の卵であれば、寺院の横手にあるテルトル広場で絵でも描いて即売するだろう。 しかし、僕には当然そのような思い入れなどあろう筈もなく、ただこの丘の持つ独特の肌触りと言うか、感触が大好きだったのと、ここから見るパリの街がたまらなく好きだと言うこと、それくらいの理由でわざわざここまでやって来たと言える。 パリという街はとても魅力的な街だと思う。 1年前に3日だけ滞在して感じた僕の印象は、何か魔性の魅力と言うか、何かに取り憑かれてしまうのではないかという程の危機感すら感ぜずにはいられなかった。 それだけに、この街の全体像を一歩引いたところから見られ、それでいてパリの香りがぷんぷんするこの場所は僕にとって、安心してパリを味わえる場所と言えるかも知れない。 北駅からサクレクールへは、丘に続く道を寺院に向けて歩いて行けばいいだけだけれど、僕はわざわざ寺院の正面に出てそこから階段を登って行く。 ヨーロッパの寺院の場合、僕の知っている限り一部の修道院や寺院を除いてその多くは平地か比較的低くなだらかな丘に建っている場合が多いようだ。 ところがこのサクレクール寺院はモンマルトルのちょっと高めの丘に建っている。 こうして階段を登っていると、故郷にあるお寺や神社の長い階段を登っているような錯覚にとらわれる。 長い階段を登りきった途端に突然ぱっと目前の視界が開け、それまで階段を見続けて登ってきた苦労が一瞬にしてどっかへ飛び去ってしまう・・・・・と共に、何故か心の中までぱっと洗われるようなさわやかな瞬間。 この階段を登り切った時も似たような感覚を僕は感じる。 この寺院を造った人も同じ考えで造ったのだろうか? まさかね、でも確か建築家のブルーノ・タウトも日本のあのような寺社建築について、階段を登りきった時の感想を僕と同じように書いていた(いや、あっちが先だ)。 つまり、日本人も外国人も考えることは同じなんだ。(どうしようもないと思える位、違いを実感することも多いけど。) この時の日本人とはその後、ロンドンで偶然知り合い、何かのきっかけでモンマルトルの日本人の事を話すと「ああ、彼ら結構学生仲間じゃ有名らしいよ。」と僕には言ったが、その声で僕には彼がその当の本人だとすぐに判った。 何だかんだといろいろもの思いにふけっている内、パリの街並みがオレンジ色に染まり、夕暮れ時が近いことを告げている。(もっとも、夏のヨーロッパは9時でもまだ明るいが。) 僕はふとモンパルナスの方に目をやった。 モンパルナスビルの近くに、昨年僕が泊まったホテルがあり、今頃はあのマダムも遅い夕食準備に追われている頃だろう等と考えていると、急に洲本の家が懐かしくなってきた。 実際には時差があるので今の日本は早朝の筈だけれど、父が仕事から帰ってくる姿や、母が夕食の準備をする姿、遠くの方から包丁で野菜を切るあのトントンという懐かしい音まで聞こえて来そうな気がする。 「親父は今日も無事に帰ったろうか?」 僕の父は先の戦争で右足を根本から無くしているが、義足を付け、毎日自転車で仕事に通っている。 だから、僕は小さい頃から父が仕事で遅くなる日でも、無事な父の姿を見るまで寝られなかった。 だけどこの土地には僕の帰る家はどこにも無いし、暖かく迎えてくれる家族や友人もここにはいない・・・・でも、僕はこのような孤独感や緊張感はたまらなく好きだ。 それは、日本に帰ればいつでも暖かく迎えてくれる家族や友がいるからであり、だからこそ、その事が僕に力を与えてくれる。 何も無いと言うことはこれからどんな物でも自由に創れると言う事なのだ。 夕暮れに沈みつつあるモンマルトルの丘を後に、僕は北駅へと向かった。 Index パリ北駅発 駅構内の売店でサンドイッチとコーラを買い、ベンチに座って少々遅めの夕食にした。 サンドイッチといってもフランスパンを15cm位に切った物に切れ目を入れ、これにサラミとレタスを挟んだだけの簡単なもの。 これがコーラと良く合うので去年も時々やっかいになった。 この駅に着いた時は活気のあった構内もこの時間になるとすっかり静かになり、列車を待っているのはこれから夜行に乗る人達だけになってしまい、夕食を買った売店ももう閉める準備をしている。 こうして駅構内のベンチに腰掛けていると時折、適度なエコーを伴いながら心地よい響きの構内放送が流れて来る。 「アトンション、アトンション○×△□・・・・・」 そして、聞き慣れない言葉や、何処でも共通の笑い声などなど。 僕はヨーロッパの鉄道が大好きだ。 何故って聞かれると返事に困るが、そう、やはり映画『鉄道員』の挿入曲の影響が非常に大きいことは確かだ。 少なくとも日本の大きな駅によくあるがさつな構内放送や、感性を疑うような耳障りなベルの音が無い分、そして、ホームが低い分ヨーロッパの鉄道、そして駅が大好きだ。(日本のように高床式の駅も一部あるけれど。) ホームが低いと謂う事は、僕達が列車を常に見上げる格好でホームにいるということで、それが理由でか、ヨーロッパの列車は視覚的に大きく見える。 しかも、入線して来るとき、車輪や下回りの音がストレートに耳に飛び込んで来るので結構凄い音がする。 去年、日本語で言うと「空っ風」を意味する、フランスが世界に誇るTEEル・ミストラルに乗るため、ミラノからわざわざマルセイユまで行き、この駅でミストラルが入線して来る様子を見ていた。 待望のミストラルが姿を現したかと思うと、まるで龍にでも追いかけられているような、もの凄い音がマルセイユ駅構内に響き渡ったことを覚えている・・・・これは港で汽笛を聞く時のような、何とも懐かしさを感じる音に僕には聞こえる。 日本でなら九州で列車に乗って北海道まで行っても、日本は日本。 いかに地方色があって違うと言っても同じ国だが、陸地で繋がるヨーロッパではうっかりしていると国境を越えてしまう事すらある。 実際、ベネルクス三国では何もないまま通過って事もあるくらいだ。 国が違えば言葉も違う。 習慣風習も違い、僕らの常識は彼らの非常識と言うケースは検挙にいとまがない。 ここでは国際・・・・なんてさ程の意味も持たない。 Intercity、Inter Railと言ったって、単に国と国をまたぐ列車程度の意味しか持たないのではないか。 僕らが考えるような意味での国際・・・・とはちょっと違うニュアンスで考える必要があるように思う。 確かに、国や民族が違えばどうしようもない大きな溝をそこに突きつけられる時がある。 しかし、こうしてヨーロッパの駅にいると、それ程肩をいからせてやれ国際・・・・などと仰々しくする必要がどこにあるのか疑問に思えて来る。 いやむしろ、国際化を強調すればする程、僕らの国は国際化から離れて行くように思うのは僕だけだろうか? これから乗る予定のロンドン行きの列車は、北駅の一番モンマルトル側のホームに入線する。 ヨーロッパの多くの地上路線は車内検札が一般的なので、チケットが無くてもホームに自由に入れる場合が多いが、このロンドン行きのホームにはしっかり柵があって自由に中へは入れないようになっている。 「最近イギリスは入国が難しくなってるみたいで、入国拒否や1日、2日の滞在許可しか貰えないケースが続出しているらしいよ。」石田さんの言葉を思い出した。 「特にヒースロウは厳しいようだから、飛行機で入るのはやめにした。」 そう、何でも飛行機よりフェリーの方が入国審査が甘いというのだ。 観光でしばらく滞在するつもりなら何も心配する事は無いが、少なくとも1年や2年は滞在しようと考えているだけに、腰掛け感覚には完全に成りきれない。 それに、ここで入国拒否を食らったのでは残り少ない軍資金がますます寂しくなる。 目前にある柵を見ているとそんな石田さんの言葉が浮かんできた。 「まあいいさ、入国拒否されればパリで皿洗いの仕事でも見付けるさ。」 やがてロンドン行き(実際にはカレーまでで、そこからはフェリーに乗り換え、ドーバーからビクトリアはイギリスの列車になる。)の列車がホームにゆっくりと入線して来た。 駅員がやって来てゲートを開けると、やっとホームへの入場が許される。 僕はキスリングザックを担ぎ、ゆっくりと列車の先の方に向けて歩き出す。 やっとロンドン行きの列車に乗れる。 飛行機なら北回り(今は無いが)で16時間、南周りでも23時間もあればロンドンに着ける時代に、僕はここまで10日かけてやって来た。 あのジェルジンスキー号に乗り込んだのが、もう何年も前のように思えて来る。 今頃はあの船の中で、シベリア鉄道の中で、また、ウクライナホテルの中で色んなドラマが起き、それぞれの人達の中にいろんな形での思い出が作られているんだろうなあ。 夜行と言うせいもあってか、シベリア鉄道内の陽気さや、アムスからのような会話もないまま、列車は真っ暗な中をドーバー海峡に向けて走る。 幾つかの駅に停車後、深夜になって何やら工業地帯かと思わせるような、明かりが一杯灯った場所にやって来た。 列車は徐々にスピードを緩め、やがて大きな駅に到着した。 再びキスリングを背負い、皆が行く方向に向いて僕も歩き出す。 「こんな夜中に何思てこんな事せんなんねん。」 乗船すると、先ずは荷物を置きゆっくりと一寝入りするかと思ったが、それどころでは無い。入国管理カードが配られて来た。 「何、アホか。 今から入国審査やと。」 と僕一人息巻いても何にもならない。 カードに必要事項を辞書片手に記入して、入国審査が行われている船内のラウンジへ行くと、すでに何重もの人垣が出来ている。 4〜5人の審査官が机に座り、一人一人面と向かって入国審査をしている。 一般論として島国と開発途上国は入国審査が厳しいとある本で読んだ事はあるが、そこに座っている審査官を見ていると、この本の著者は決して当てずっぽうを言ってる訳でないと確信出来る。 「おいおい、手回しのええこった。 ここで入国拒否されたら片道分の運賃が浮くから、カレーでホテルでも探して今夜はのんびりするか、それとも外でごろ寝して明日、豪華なディナーでも食って、そのままバイトさせてくれとでも頼んでみるか。」 いよいよ僕の番だ。 僕の審査官はほっそりした年輩の男性で、口ひげを生やしている何やら厳格そうな人だ。 椅子に掛けた僕は黙ってパスポートとチケット、出入国管理カードと税関申告書を出した。 審査官は一通り目を通した後、学生か?と僕に尋ねた。 昨年の旅でパスポートをとった折り、当初はソビエト経由の予定だったので、その時のビザが貼ってあり、僕のいた高校の名前が書かれているが、これを見たらしい。 「Yes」 入国の目的は何か、何日滞在するかの質問の後、僕のパスポートに大きな判子をポンと押し、何やらチョッチョとしてからニコッと笑顔を見せながら書類を返してくれた。 「何や、ええ人やんか。 こないして見たら『戦場に架ける橋』に出てくる英軍将校みたいや。」 ・・・・・勝手なもんである。 自分の椅子に戻るのも待てず、僕はあわててパスポートのビザ欄を開いてみると、訳の解らん英語の中にしっかり、SIX MONTHSの表示があるではないか。 しかし、僕の手持ちはもう6万円をとっくに切ってる。 もし、所持品検査されていたらほぼ確実に入国拒否されてるなあ。 でも、いま考えるともしそうなってたら、僕は今少しくらいはフランス語が使えるようになってたろうに。 プロローグに書いた通り、僕は私立校の就職組在学中、英語の試験で平均20点程度の学力の持ち主で、最高得点は38点だった事を今でも覚えている。 勿論、自慢じゃないが0点は数知れず・・・・だったので、外国人と話す時は始めから相手の話を全て聞こう等と考えてもいない。 たとえ聞こえても僕には馬の耳に念仏。 だから、相手の話す何でもいい、一つの単語でも知ってるのが出てきたらそこから推測で話を進める。 こっちが話す時は文法もへったくれもない・・・どうせ文法のぶの時もしらないのだから、知ってる単語を言いたい核心の順に並べる。 とにかく一握りの知っている単語を最大限に利用し、勝手に造語するのはおてのもの。 とにかく、肯定さえ出来れば否定は何でもかでも「ノー」を先につけた。 Expensiveなんて難解な単語を僕は知らなかったので、High Money、それで相手がポカンとしてればYou kill me。 それでだめなら「高いちゅうてんねん」・・・・僕も若かった。 船がドーバーに着くのは早朝なので、少しでも寝ておこうとするがなかなか寝付けない。 大体、日本のフェリーなら畳の部屋があって、横になれるがこのフェリーは椅子席しかない。 シュラフを取りだして寝るには時間が少なくて、シュラフを畳むのがおっくうだ。 時間はもう朝の3時を回っている。 ドーバーに着くまで3時間程しかない。 椅子にうずくまってうとうとしている僕の頭には、限られた知識の中からひょこひょこと断片的にドーバー海峡にまつわる事柄が僕の頭の中を駆けめぐる。 そうだ、ここは英国とフランスを分ける海で、もしこの海が無ければ英国の歴史はもっと違ったものになっていたかも知れない。 嘗てパリを陥落させたナチス・ドイツと英国がこの海峡を隔てて睨み合い、ドイツのV型ロケットがこの海を越えてロンドンの街に打ち込まれた。 また、英国の誇る戦闘機スピットファイアーとドイツの名戦闘機メッサイシュミットが制空権をかけて戦った所でもある。 ヨーロッパ戦線の末期にはすぐ近くのノルマンディーで史上最大の作戦(D−Day)が繰り広げられたことは、その名の通りの映画でも有名だ。 やっとうとうとしかけた頃には、東の空が白み始め、フェリーはもうドーバーのフェリーバースに入りかけていた。国こそ違っても、島で育ち、フェリーに乗り慣れた僕にはなんとも親しみのある光景が窓の外に見える。 Home Index Next |