突然の連行

 26日、僕達はグリンデルワルトを後にして、再びベルンに戻り、その足でバーゼル経由パリ行きの列車に乗った。 二等列車のコンパートメントは僕と彼女の二人っきりだった。 列車はスイスを出てフランスに入った所で小さな駅に停車した。 入国審査をするようだが、普通なら審査官がコンパートメントにやって来てパスポートに印を押して、手続きはアッという間に終了する筈なのだが・・・・・2名の審査官らしき人が来たのでパスポートと乗車券を出そうとすると、何やら 「付いてこい」 と言っている素振りをする。 荷物はそのままでコンパートメントを出ようとすると、荷物を別の男が持って来る。 列車の廊下には警察の制服を着た男が2人いて、どうやら彼らに付いて行けと言う事らしい。 訳も解らず付いていくと、僕達は駅舎のある一室に案内された。
 部屋には木製の机があり、椅子が4つ置いてある。 窓からは、僕達の乗っていた列車が見える。 椅子に座って間もなく、列車が動き出すのが見えた。 「アホかお前ら、この列車乗れなんだら明日まで列車無いの解らんのか。」 僕は思わず警官に向かって日本語で怒鳴りつけた。(わざわざ夜行を選んで乗ったのに、この列車を降りると明朝まで次の列車は無いのだ。) 言い終わるのが早いか、警官は右手を拳銃にかけた。 僕は彼が銃の安全レバーをそっと外すのを見逃さなかった。 同じ銃のモデルガンを中学時代持っていたので、彼が今した事は何を意味するのか位は直ぐに解る。 「下手したら撃つかも知れん。 何か知らんが怯えとる。」
 やがて英語の出来るらしい刑事のような男がやって来て言うには(彼女の通訳による)、彼らの署に赤軍ゲリラの手配書が回って来ており、その中の一人に僕がそっくりなのだそうだ。 どうやら、車内で車掌か誰かが僕にその嫌疑をかけ、警察にでも連絡していたのだろう。 でなければ手回しが良すぎる。 先に警察がコンパートメントに入らず、荷物を審査官が持ってから警察が姿を見せたのは、万一の事を考え、僕達の荷物を先に確保したかったからに違いない。 僕が彼らの立場なら必ずそうする。
 明日、パリから担当捜査官が来るのでそれまでは警察署に拘束すると言う。
こうなりゃ喚いてもしょうがない。 僕は彼らに、その僕だと言う手配書を見せるよう要求すると共に、明日、日本大使館に僕のパスポート照会と身元確認をするよう要求した。 暫くして彼らが見せてくれた手配書。 Tシャツ姿の日本人はどう見ても僕ではない。 当たり前だ、これが僕なら、ここにいる僕は一体誰なんだ。 ずっと目を通す内、身長らしき部分で僕の目は留まった。 「僕より身長が低いではないか。」 この事を主張するが、全く取り合ってくれない。 その内、もう一人、刑事らしいおっさんがやって来て、その手配書と僕を暫く見比べた後、帰っていいよと言う素振り。 またまたカチンと来た僕は 「列車はとっくに出とるは。 どないしてくれんねん。」 怒鳴りつける。 何やら彼らが相談しているようで、そのあと、僕を連行した警官の一人が付いて来いという仕草。
 もう暗くなっている、霧雨まで降っている寒い町中を暫く歩いたろうか、石造りの長屋の一角に明かりが漏れている窓があり、重そうな扉の向こうは飲み屋の様だった。 中にはいるとそこはまるで大戦中の飲み屋の様(映画でしか見たことは無かったが。)。 マレーネ・デートリッヒが出てきて、リリーマルレーンを歌っても不思議ではない。 ここのオヤジといい、客と言いまるでレジスタンスの秘密会議でもやってるような雰囲気だ。
「これはヒョウタンから駒だ。 いい体験になりそうだ。」 
警官がなにやらカウンターにいるオヤジに話すと、このベレー帽かぶったオヤジは僕達とその警官にジョッキ一杯のビールをついでカウンターの上に並べた。 ジョッキを手に持った警官は僕達の方に乾杯の仕草をする。 これで水に流そうやって事らしい。 
 自慢じゃないが、僕はこの当時まだ酒にはめっぽう弱かった。(まだ18歳だったので、この言葉は妥当かどうか解らないが、いずれにせよここはフランスだ。) 高校三年の時、友達と2人で酒糟を手の平程食べた事があったが、二人共顔が真っ赤になり酔ってしまった。 彼が帰ると言うので送ってってやろうと、自転車で彼の家まで行くと、今度は彼の姉が心配して僕を車で送り返してくれた位だ。 案内された部屋はやはり、民家のベッドルームの一室と言う感じで、この店のオヤジはカーテン屋でもやっているのだろうか? 何故か部屋の中、カーテンが一杯置いてある、それもすべて広げて椅子やテーブルに、まるで展示会のために並べてあるかのように綺麗にされている。 
 翌朝、部屋の窓に付いている鎧戸を開けると、朝の清々しい冷気が部屋の中に吹き込んできた。 昨夜の雨は上がっているが、道路や木々はまだしっとりと濡れている。 朝ご飯を食べる間もなく、列車に乗るため僕達は駅に向かった。 結局、思った通り宿泊費は僕達払い・・・・もう持ち金が底をついている。

パリ〜ドーバー再び

 夜行なら朝パリに着いて、ロンドン行きの夜行が出るまでの丸一日はゆっくり出来たのに、いらぬ所で一泊したお陰でパリ東駅に着いたのは2時頃になってしまった。 東駅と北駅は、単なる方角で考えると90度も違う筈だが、実際にはこれらの駅はすぐ近くにあって、北駅の方がモンマルトル側に位置する。 僕達はすぐそこの北駅へ移動し、荷物を預けてからロンドンまでのチケットをまづは購入した。
 予定より遅れたとは言え、列車の発車時刻まではまだ充分間がある。
僕達は一旦東駅に戻り、真っ直ぐセーヌの方向へ歩いて行く。 河岸に着くと向いは最高裁判所やノートルダムのあるシテ島。 ここで右に曲がって最初の橋がポン・ヌフ。 このパリで僕が好きな橋は3つある。
 一つは西の方にあるミラボー橋。
高校時代、本という本を読まない僕がたまたま、何かの雑誌か何かである詩に出逢う。

  ミラボー橋の下 セーヌが流れる
  我らの恋が流れる
  私は思い出す
  悩みのあとには楽しみが来ると
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ 私は残る

この詩と、その横に何故かムンクの『叫び』の絵が挿入してあり、その事が僕の興味をそそり立たせ、たったそれだけの事で、去年はこの橋まで出かけてみた。
 もう一つの橋、それはアレクサンドル三世橋。
これは右岸、つまりシャンゼリゼ側から見るこの橋とアンヴァリッドが好きだから。
 今一つの橋がポン・ヌフ。
橋と言えば川を渡るもので、道路の一種位に考えていたが、中世の橋にはその両側に家が建てられ、人々が生活している場合が多かった事を何かで知った。 そう言えば、そんな絵を見たこともあるような気がする。 イタリアのヴェニスには確かに、形こそ違えど、今でもそのような古い橋が残っている。 このポン・ヌフはパリでは始めて、橋本来の目的で建てられた橋であると何かのガイドブックで書いてあった。 まあ、そんなことは僕にはどうでもいいのだが、何故かこの橋が僕は一番好きだ。
 橋を渡り、一旦左に折れてサン・ルイ島の見える所まで歩き、ここからのノートルダム寺院を暫く楽しむ。 僕は高校時代まで、本という本はろくに読んだためしは無いが、ロンドンに来てから、何故か日本の本をよく読んだ。 英語の勉強がてら、英語の本でも読めば良かったのだろうけれど、とにかく辞書を引くのが大嫌いな僕にそんな事を要求する方が無駄というもの。 その読んだ本の中に森有正氏の『遙かなるノートルダム』と言うのがある。 僕がHP作りを決心し、題名を考えていた時、自然に出てきたこの題名、もう内容も忘れたこの本の影響が非常に大きかったと思う。
 河岸沿いにコンコルド橋まで歩き、橋を渡ると、ナポレオンがエジプトから持って来たという巨大なオベリスクのあるコンコルド広場に出る。 実は、オベリスクはロンドンのテームズ河畔にもあるのだが、不思議なもので、エジプトで造られ(しかも遠い昔に)たと言うのに、パリやロンドンの街に実に良く馴染んでいる。 僕はこれを見るたび、何故だか『2001年宇宙の旅』を思い出してしまう。 こんな何でもない形の物なのに、何故か地球人が造った物だとは思えないのだ。
僕達がセーヌ河畔を歩いている頃にはもう辺りは暗くなり、街中に照明が灯り始めていた。 夏の日は長いが、冬は陽が落ちるのがとても早い。 僕達はマドレーヌ寺院を過ぎモンマルトルの方に向かった。
 やっぱりモンマルトルはモンマルトルだった。
何を馬鹿な事を言ってるんだろう僕は。 今夜の晩飯と明日の朝食を買わねばならないが、じつの所、僕達にはもうそんなお金は残されていなかった。 余分なお金は一切持ってきて無かったのだ。 勿論、非常時のお金は僅かにあったものの、これを使ったんじゃ非常時の意味がない。 モンマルトルの丘近くでパン屋に入ってみたは良いが、僕達の手持ちのお金で買えるものが無い。 やもう得ず、持ち金を見せ、身振り手振りで 「この代金分だけパンを切って欲しい」 と言った説明をする。
 『魔女の宅急便』に出てくる おそのさんに似た体格の、年はもっと食ってるが、女将が暫く僕達の目を見詰めてから、やおらバスケットに何本も差し込んであったフランスパンを引き抜き僕達の前に差し出した。 いやいや、僕達が欲しいのは此処までだと両手を使って指し示すが、彼女はそんな事構わずバターの小さな包みと小さなジャムの入れ物を取り出す。 フランス語で何を言っているか解らないが、これだけ持ってきなさいと言っているようで、ザックを背中に背負うような格好をして何か言っている。 どうやら、自分の息子はザック担いで旅しているが、あんた達もそうなんだろう・・・・・というような事らしい。 結局、僕達はこの女将の行為に甘え、差し出した僅かばかりの代金で十分過ぎる食料調達を果たせた。
(この翌年、僕達は新婚旅行を兼ねてヨーロッパを1ヶ月、旅するが、この時はシャルトルからパリまで3日がかりで歩き、再びモンマルトルのこの店で女将と出会う。)

モンマルトル

僕にとっては3度目の訪問になるが、実は彼女も初めてではない。
彼女も僕同様にナホトカ航路でロシアに渡り、シベリア鉄道でヨーロッパに入ったのだけれど、僕と違うのはナホトカからモスクワまで総て鉄道を使った事と、彼女はポーランドのワルシャワからパリを経由してロンドンに入った。 飛行機ならハバロフスクからモスクワまでたった9時間の所を、彼女はナホトカからも含め7日かけてモスクワに行ったのだ。 彼女の強さを知ったのは、翌年の1ヶ月に渡るヨーロッパ新婚旅行の時だった。 このことは何れ機会があれば書くことにしよう。
 もう暗くなったモンマルトルを散歩した後、北駅に着いた僕達はさっき貰った(に等しいな)パンで夕食。 去年待ったと同じ場所で、床に腰を下ろしてホームへの門が開くのを待っていると、後ろで無邪気に遊んでいた子供が泣き出した。 ドイツ人らしきその子の母親があやそうとするが泣きやまない。 と突然、僕の横にいた彼女がその子の耳近くでカチャカチャと音を立てると、その子が 「なんや?」 って顔をして泣きやむ。 ちょっと時間をおいてまた泣き出しそうになると、再度音を出す。 「なんやいねん?」 って顔をしてまた泣きやむ。 その内、泣いていたのを忘れて一人で無邪気に遊びだした。 母親が礼を言ってきたのに対してう軽いウインクで返礼。
 
 ドーバーでは今度は下船してから入国審査。
彼女はオペアで滞在しているので、向こう2年は滞在が保証されており、簡単に通過。 続いて僕。 前と違って立ったままで入国審査。 最初は順調に見えた手続きも 「What do you do?」の質問からおかしくなってきた。 「What do you do? 」? 何じゃそれ? How do you do.なら初めましてって事だろうけど(実際にこんな挨拶はしないようだが。) 「お前何する?」・・・・・? インデアンじゃあるまいし、こいつ何言うてんねん。 このおじさん、余程頭が固かったのか、融通が利かなかったのか、こっちがポカーンとしていても、この言葉を繰り返すだけ。 たまりかねて 「Do you speak Japanese?」 と僕。 これでようやく、こりゃダメだと思ったらしく、やっと観光か?学生か?と砕けた聞き方をしてくれた。
 「始めからそない聞かんかいな。」   「Student.」
ほっとした様子(向こうが)で、今度はまた訳のわからん事を聞く。 いま考えると証明書を出せと言っていた筈だが、その時はそんなこと解らない。 
 今度は金を見せろと言う・・・・・これは解った。 「No money.」
カトリックで嘘はついてはならないと教えられた。 どうせ調べられれば判る事だ。 
パスポートのロシアのビザを見て 「高校生か?」 と聞いてくる。 「Yes.」 これは嘘。
今度は 「お前の父さん何してる?」 と来た。
公務員だがそんな英語知るわけない。 「Officer」   「何のオフィサーか?」
ひつこいやっちゃなと思いながらも、英語で何と言うかわからんと考えていると、以前ピカデリーで知り合ったレイモンドって英国人がよくパーラメントって言葉を使っていたのを思い出した。 意味は解らんがなにやら公務関連のように思えたのでパーラメントと答える。 おじさん、一寸驚いた様子で、今度は 「パーラメントで何してるか?」と聞く。 これは困った、僕の知ってる英単語でこの関連のものといえば一つしかない。 迷わず 「Defence」。 おじさん、納得したのか判子をパスポートにポンと押してくれ、何やら書き込んで無事通過。 ビザを見ると前回の Six Months でなく 12 Months になっている。

 この時、僕の財布にはヴィクトリア駅からキルボーンまで帰るお金しか残っていなかった。
よくあの時、審査官のおじさんが財布を確認しなかったものだ。 こんなに言葉の出来ない奴が仕事する筈ないと考えたのか、それとも、目を瞑ってくれたのか、それは判らない。 ただ、その後、この国で暮らしてみて、この国の懐の深さや大らかさを僕なりに感じる出来事に何度も遭遇する。 確かにヨーロッパは色んな点で魅力的だが、この無骨で不器用でちょっと澄まし顔、それでいて本当はとても大らかで人なつっこいこの国がやっぱり僕は大好きになりそうだ。
僕にとってヨーロッパは旅する所で、イギリスは住む所、いや住みたい所なのだ。


 
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