語学学校

Central School of English

 オックスフォード通りを東の方に歩いて行くと、大きな四つ辻に出るが、ここで交叉しているのがトッテナムコートロードとチャーリングクロス通りで、この交差点から先はニューオックスフォード通りに名前が変わる。 この交差点にはトッテナムコートロードの地下鉄駅があり、向かいに背高ノッポでスリムなビルが目に入る。 今となってはそれ程インパクトも無いが、僕が初めてこのビルを見たときは結構モダンで格好いいビルに見えた。 この四つ辻を右に曲がって少し歩くと、蔵書数では世界一と豪語する本屋、ホエールズと言ったろうか?がある。 逆に左に曲がると劇場があり、そのちょっと先のビルの小さな入口を入ると直ぐに狭い階段が上に延びている。 人とすれ違うのがやっとのこの階段を登り切ったすぐ左手が受付になっていて、小さな窓口があり、その窓口に向かって椅子が置いてある。 ここが、僕が2番目に通い始めた学校、セントラル(Central School of English)である。 因みに、学校を出て前の道を渡ってそのまま真っ直ぐちょっと歩くとそこには大英博物館がある。

学生証

 窓口にはちょっとがっちりした体格の日本人がいて、この人が日本人と言わず訪れた人の応対をしている。 入学したい旨を話すと、早速学費の話や何やが始まり、シェークスピアの時と同じようにクラス決めの簡単な試験。 択一式の試験だが、これは当てずっぽうを書いても意味が無いので、解らないところは空欄のまま提出した。 内容を手早くチェックした彼は僕にエレメンタリークラス(初級)へ入るよう薦めたが、僕はビギナー(本当の初歩)を希望した。
 授業料を支払い、教科書を貰うとその日本人が僕を教室まで案内してくれる。 教室は受付から延びている狭い廊下を突き当たった所で、部屋に入ると8人程の生徒が授業を受けている。 流石、シェークスピアに比べ生徒数をちゃんと制限して、あっちより授業はよく統制がとれてるみたいだ。 あの質問責めの刑?には合わない分・・・・でもちょっと拍子抜けと淋しいか。 この学校の教室は、勿論、この上階にも幾つもあり、最上階だったろうか、小さなティールームがある。 僕の入ったビギナークラスにはさすが、日本人は一人もいない。 所が、折角ビギナーに入ったのに、1カ月しない内にエレメンタリーにクラス替えされてしまった。
 シェークスピアに通ってた頃はまだ日本料理店でバイトしていた頃と重なり、授業はバイトのあき時間に出ていたが、レストランを換えてからは3時〜6時まるまる出る事が出来るようになった。 しかも、授業の後、クラス仲間とのつき合いも出来る。 
 この学校は僕のロンドン滞在で結構長く通った学校だったが、結局、インターメディエイト(中級)が終わり、今度はアッパーインターメディエイト(中の上級)へ行けと謂われる。 しかしとにかく、学校は楽しく遊びに行く所だと考えていた僕には良く解る「このまま上級へ行ったのじゃ会話以外では苦労しそうだ」と。 そう、中級なんて言っても文法力は今だ中学1年のレベルを出ていないし、単語力なんて惨憺たるものだ。 
 では何故そんな状態なのに進級の指示が来たのかと言うと、まず学校側が日本のように単語力だの文法力を重視していなかったからだろう。 次に、この頃には曲がりなりにも、簡単な単語で言いたい事は言えるようになっており、その少ない単語力を総動員してフル回転させながら話すので、横で聞いてる分には一見結構すらすら話しているように見えた筈だ。 
 何しろ先生のやり方を憶えてしまった。 
つまり、知らない言葉(単語)を話さねばならなくなると、もっと簡単な単語なり表現に置き換える。 それも無理なら、即座にその言いたい単語の説明を違った言葉、もっと簡単な言葉で相手に説明する。 それで駄目なら、箇条書きのように説明を付けて相手に説明し、相手が理解したら適切な単語は何と云うか教えて貰う。 相手の言う事が解らなきゃ、同じように説明を求め、自分の理解が正しいか不安であれば、先に書いた個条書き戦法(言葉で)で自分の理解が正しいか確認する。 そんな訳で、実際の自分の実力は自分なりに把握していた事もあって、再度、中級に残る事を希望し、結局、セントラルではその在学期間の殆どを中級と中の上に在籍した。

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Stanton School of English

 仕事の時間が2時までになった事で、土曜日になると僕は時々ポートベロへ出かけるようになった。ポートベロ通りは元々骨董屋の多い狭い通りで、そこに青空市がたつようになったもの。 1.9キロ程の通りの両端に骨董屋や古着屋、果物屋だの、野菜屋だのの屋台がずらりと並ぶ。 ここの雰囲気が僕は大好きで、まだ仕事も見つからない頃からここには来ていた。 話が前後してしまい時系列が無茶苦茶になるが、セントラルについて書いたついでに最後に通った学校、スタントンについてもここで書いておきたい。 
 僕がロンドンにやってきた翌年の5月、TMと結婚し、住んでいたフラットをキルボーンからウエストハムステッドに移って同居し始めた。 この頃にはレッドバスのパスも持っているので、土曜になると僕一人で、時にはTMいやこの時期はHM(日本式の読み順)とポートベロへよく出かけた。
 ウエストエンドは159番のバスしか通らないが、ちょっと歩くと28番のバスがある。
これだと乗換無しでベイズウオーター近く、あのヒルブロウホテルの近くまで行けるのだ。 ポートベロはそこから歩いて10分程の場所にある。 マーケットの事は別の機会に書くとして、いつものようにマーケット帰り、その日はケンジントンガーデン近くにあるシシケバブ店のケバブが食べたくなってそっちの方に僕の足は向いていた。
 ケバブは中近東の料理で、羊だったかの肉を、この店のはパンに挟んで食べる。 
どの店もそうだが、道路に面した側にガラス張りの大きなウインドウがあり、そこに縦に長い鉄串が取付けられていて、その串に大きな羊の肉が串刺しにされている。 注文を受けると、ナイフでこの肉を縦に適量そぎ取り、レタスなんかと一緒にパンに挟んで出す。 串に刺して出す店もあるようだが、僕はパンに挟む方が好きだ。 パリのサクレクール寺院横、画家の卵が集まるテルトル広場の片隅にもこのようなケバブ店があり、ここのも結構美味かった。
 
 話がとんでもない方向に向かってしまったが、その日、ヒルブロウホテルの前を通って、ベイズウオーター通りに向って歩いていると、前から見覚えのある顔がこっちに向かって来る。
「石田さーん。」
「おや、お前さん何でこんな所にいるの?」
そう、それはアムスで別れた石田さんだった。
 話を聞くと、彼はこの通りのフラットに住んでいて、近くにあるスタントンと言う語学学校に通っているのだと言う。 彼も幾つかの英語学校に通ってみたが、少人数制で授業内容も結構いいので気に入っている・・・・・・その時は僕もすでにセントラルに通っていた上、授業料も払い込んでいたので気にはしていなかったが、セントラルの授業料の次の支払時期(3カ月単位で僕は支払っていた)が来たとき、石田さんの言葉を思い出した。
 別にセントラルに不満があった訳ではない。 クラス担当の先生はパトリッシアと言ってもともと化学専攻の結構美人でスタイルもいいし、授業も楽しい(文法やディクテーションを除いて)から辞める理由は無い。 ただ、学校を替えると気分も変わるし友達も増える。 戻りたくなったら、3カ月後に又、戻ればよいだけの事だ。

 大体、この頃には知り合った仲間や友達と交換授業ってのを時々やった。
お互い違う学校に行ってる場合、それぞれの授業を交換する・・・・勿論、学校は許さないだろうし、代返するには少人数過ぎる。 そこで、相手のクラスに勝手に入り、先生に「・・・・は今日風邪で来られないんで、代わりにどうしても授業を受けて来て欲しいと頼まれた」と話す。
 当時は余程のんびりしていたのか、いい加減だったのか(今もかな)、まずこれで駄目だという先生はいなかった。 「じゃ、そこに座って」 全く自分の生徒と同じ扱いで授業してくれる。 そんな訳で、学校を替えるという事は当時の僕にとってはさほど抵抗の無かった事。

 僕がスタントンに出かけた時、石田さんはもう帰国してロンドンにはいなかった。
彼は色んなデザイン事務所を当たっていたが、当時の状況ではこの種の仕事でワークパーミッション(労働許可証)を現地で取得するのは限りなく困難であった為らしい。

 数年前、ロンドンで生まれた長女が短大を卒業の折り、一人で一ヶ月間ロンドンへ英語の勉強と、美術館、博物館巡りのため行くことになった。 滞在先は家内の友人のユダヤ人宅にお願いし、学校は僕の薦めでスタントンに決めた。
 早速、本当に久しぶりにスタントンへ連絡のFaxと電話を入れる。  数日後、僕の手元に懐かしのスタントンからの丁重な返信が入り、別送で資料を郵送したとのこと。 送られてきた資料を見て驚いた。 僕の知っているスタントンに比べて見違える程立派になっている。 場所も、僕が知っている所からもっとベイズウオーター駅よりに移転しているではないか。 しかも、校舎が二箇所になっている。 

 僕が初めて訪れたスタントン英語学校、それは Hereford Road にあって、受付はセントラルと同じように1階(日本でいう2階)にあった。 セントラルのように、ちょっと狭い階段を上がると正面に小さな受付があって、そこを右に行くと小さな部家になっていて、そこがサロンのようになっている。 受付には若い英国人がいて、手続を済ませクラス決めの簡単なテスト。 インターメディエイトに決まり、授業は翌日から受けることにした。
 翌日、僕の入学手続をしてくれたのが校長だと知って、何と軽い校長だと驚いていたら、その校長の奥さんが日本人だと聞かされまた吃驚。 受付で冗談を飛ばしまくっている校長の姿をこれ以後、しょっちゅう見させられる事になる。 幾ら勉強が嫌いだからと言っても、入学初日から遅刻する訳にも行かず、時間の10分前に学校に入った。 僕の教室はサロンの横で、教室の扉はもう開かれていた。 クラスには6人の生徒がいて、これまでの学校に比べちょっと寂しい気もするが、授業が始まるとやっぱり皆積極的。
 授業を受けると謂うより、先生も生徒も皆が授業を楽しんでいるといった表現が当てはまっている。 僕達のクラスの先生はジュディーという、ちょっとばかり体格のいい人で、旦那が翻訳業をしているとか言っていた。 一度クラスの仲間と彼女の家に遊びに行った事があるが、日本の墨絵なんかが飾ってあって、ご夫婦とも日本が好きなんだと言っていた。
 暫くインターメディエイトにいて、今度はアドバンスクラスに上がる事になった。
別に僕の英語が上達したからと言うのではなく、クラス全体が移行する時期だったのだ。 僕はインターメディエイトに残る事を希望したが、ジュディー先生の勧めもあって、結局、皆と一緒にアドバンスへ上がることにした。 このクラスは資格取得の為の準備クラスで、日本では最近知られて来たケンブリッジ認定資格っていうやつになるんだろうか。 まずファースト・サーティフィケイト(First Certificate)と謂う資格があって、その上にローワ・ケンブリッジ(Lower Cambridge)と謂うのがある。 更に上にはプロフェッションシー(Proficiency)があるが、これは日本の某有名外大の教授が受けて見事に滑ったという話を聞いたことがある。 資格というものにはおよそ興味の無い僕は、このクラスで結局、帰国までのんびり英国生活を楽しむ事になる。 なにが楽しいって、このクラスじゃ結構色んな題材に就いての討論をやる。 先生がタイムスを持ってきて、その日の記事の適当なものを見つけて討論させるもので・・・いや、だからといって新聞を僕達が理解出来るという事ではない。 先生がまず始にちゃんとその内容について説明と解説をしてくれる。 ・・・カンカンガクガクの討議が始まる。
 意味が分かる分からないは関係ない。 こりゃオリンピックじゃないが、参加する事に意義がありそうなので、雰囲気に載っかって言いたいことは何でも口にする。 とにかく、文章を頭で組み立ててから話すのでは追っつかないので、全体の構文がまとまろうがまとまろまいが、まづ無意識に自分の解る部分まで口が先に滑ってしまうから、後の部分はその弾みで何とでも処理して言いたい事の核心は相手に伝わるようになってくるもんだ。

 
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ブルースカイ

 スタントンを出てすぐ左の方に歩いて行くと、その並びにブルースカイという安レストランがあった。 名の通り、外壁がブルーに塗られ、道路に面して木枠の大きな窓があった。 中は少し薄暗く、入口を入ると直ぐに、えらく長いカウンターが縦に走っている。 木製の質素なテーブルに椅子、がらんとし店内。 ロンドンにいる事を忘れさせてくれるような雰囲気、そう、この雰囲気はイタリアのイスキア島で入ったレストランの雰囲気に似てる。 どこか、庶民派で超安っぽい地中海的?な雰囲気。
 その雰囲気通り、メニューも安くて、でもボリュームはピカイチだった。
何しろカレーライスがあって、丸い皿に盛られた日本式の粘っこいご飯に、これ又日本のカレーによく似たルーが掛かって、更に、更にだ、マッシュポテトがたっぷりついている。 これで33p(¥120程度)だから驚かされる。 この店の近くにウインピーがあって、ヒルブロウホテルにいた頃は時々通ったが、ここのウインピーグリルが55p位だから、ブルースカイのカレーがいかに安かったか分かる。
 僕は是までに書いたレストランだけでなく、結構飛び入りで色んなレストランでバイトをしたが、日本料理店と一部の中華レストランを除いて何処も、ライスは炊くのでは無くボイルして料理した。 当時、日本料理店で使われていた米は殆どがカリフォルニア米かオーストラリア米で、これらは日本の米と殆ど違わなかったように思う。 これに比べ、西洋料理店で使われる米はひょろ長いぱさぱさした米で、ボイルしたら直ぐに水を通し、水切りをしてから容器に入れて冷蔵庫に入れておく。 ライスサラダやプディングなんかにしない限り、使うときはバターか何かで炒めて使う。 だから、インド風カレーにせよマリアが作るスペイン風カレーにせよ、ライスはパサパサ。 僕はどちらかと言うとカレーにはパサパサ米がいい。 
 ブルースカイのは日本風の米の炊き方だったので、どうしているんだろうとずっと疑問だった。
ある日、ここのちょと小柄で年の、一見ギリシャ人のような女将(だと思うが)にライスはどうしてクックしているのか聞いてみた事がある。 その時見せられたのが、何と日本製電気炊飯器。
「やっぱりなあー」 多分、この店でバイトした日本人がいて、この炊飯器を使った炊飯方法を教えたに違いない。 そうすると、あのカレーも日本式だったかも知れない。
この店は安いこともあって、スタントンの仲間とよく入り浸ったものだ。

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ハムステッド・ヒース

  スイスの旅から帰ってからも、それまでと同じような日々が続いた。
僕の休みが日曜になってからは、彼女が昼頃やって来て、夜9時頃には徒歩で彼女が住むストラウス家まで送ってから、また徒歩で僕はフラットへ帰る。
 そんな日が続いたある日、いつものように彼女をストラウス家まで送り、彼女が門をくぐろうとした時、それまで口に出そうと思いながら決して口に出せなかった一言を言うため、僕は思わず彼女の名を呼んだ。 すでに門の中に入っていた彼女は僕の方を振り返る・・・・が言葉が出ない。 少しばかりの沈黙の後、急に彼女は僕の手を引いて言う。 「歩こうか」

 家の前の坂を登り、ゆっくり、お互い何も話さず歩いて行く。
やがて僕達は小高い丘のような所に出た。 小さな池があり、歩道の片側には柵がしてあって、その向こうはなだらかなスロープを描いた芝生、それが眼下の森に吸い込まれている。 その森の向こうには僅かに、ロンドンの夜景がきらきらと輝いている。
 彼女がひょいと歩道端の柵に飛び上がって座ると、丘を緩やかに駆け上がってきた風が彼女の長い髪を優しくそよがせる。 風にそよぐ彼女の髪の毛の隙間から、ロンドンの明かりがちらちら、まるで変光星の輝きのように見える。
「グリンデルワルトで見たツリーみたいや。」
「ツリー?」
「木の葉っぱの隙間から星見えたやろ。」
「あれ、綺麗だったね。」
「寒かったな。」
「ベルンの方がもっと寒かったよ。 北海道は雪あるから、雪見てると寒さ感じない。」
「僕は死ぬかとおもた。」
「大丈夫だよ・・・・・ついてったげるから・・・・かえろっか。」
 冬も終わりに近いハムステッド・ヒースの風はまだ冷たかった。
そんな冷たさも、彼女の手の温もり、暖かさにはとてもかなうものでもなく、僕の心は部屋に帰るまで温かだった。

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結婚届け

  プロポーズなんて、そんな洒落たこともないまま僕達の意志は自然、結婚へと固まっていた。
僕は自分の両親と彼女の両親に宛てて、これまでの経緯と結婚の意志を伝えるため、手紙を書いた。
この時、僕はまだ未成年だったため、結婚手続きをするには両親の承諾書が必要だった。
 手紙を出してから僕の両親の返事が来るのにそう日にちはかからなかった。
「自分の思う事を自由にやってみなさい。 どんな事があっても、父と母、そしてお前の弟だけはお前を信じているし、お前が選んだ人を信じている。」 そんな文面の手紙と、父からは結婚に関する承諾書が同封されていた。
 父は体が不自由だったし、母も当時は決して体が丈夫な方では無かったこともあってか、僕は小さい頃、母から「この世の中のどっかに、将来お前のお嫁さんになる人がおるんやねえ。 お父さんも私も、その人の顔を見る事は出来んかも知れへんが、そんな人に巡り逢うことがあったら、大事にせんとあかんよ。」といったことを何度か言われたことを覚えている。 その頃、僕はこの言葉の意味も、何故そんなことを言うのかも分からなかったのだが、遠く両親と離れて初めてその意味が何となく解ったような気がした。

 北海道のご両親からの返事はちょっと違ったものだった。
「そんな年下の男と一緒になって、騙されているのに決まっている・・・・・・。」
この言葉を素直に受け止め、ご両親の心の内を理解するには、まだまだ僕は若すぎたと言える。
そんな僕に彼女はある日こう言った。
「言葉を文面通り受け止めないで。 どこの父親だって見も知らない男から娘を嫁にと言われて、はいどうぞって言う人はいないよ。 それに、多分父は私の花嫁姿を見たいだけのように思う・・・・・」
  3回ほど僕が北海道へ手紙を書いた後、突然、北海道のご両親からぼく宛に手紙と、結婚承諾書が送られて来た。 僕達は全く知らなかったが、僕の母と叔父が北海道のご両親に会いに出かけてくれたと、後日知らされた。 叔父は若い頃、単身ボルネオに渡って商売をしていた人なので、高校時代の旅でも大賛成してくれ、今回の渡英の時も出発前、叔父の家で沢山お世話になった。 その叔父が、わざわざ経営していた事務所を休んで北海道まで母と一緒に出かけてくれたのだ。

シャルトル〜パリの途上で
 僕達は結婚届けを5月5日、日本で言う子供の日に日本大使館へ提出した。 大使館を出た後、僕達はピカデリーにあるアクセサリーショップで指輪を買うことにした。 高い物を買う余裕もなかったし、その分、新婚旅行に回そうということで、お互いに60p(¥250位)の物を買った。
 父から僕達の結婚に関する書類が届いたと連絡が入ったのは、それから暫くしてからのことだった。 それと共に、驚いたことに英国側からも結婚証明書が送られて来た。 父は当時、役所にいたので僕達の結婚届けを処理するのが父の友人だった。  この連絡と共に、両親から国際郵便為替で30万円、僕の手元に送金されて来た。 
 丁度僕達はその年の夏、1ヶ月の予定でヨーロッパを旅しようと計画していたので、その資金に一部を使い、残りは年末、やはり1ヶ月の予定で帰国してそれぞれの家を訪問するための資金にすることにした。
 僕達はその夏、キスリングザックに寝袋しょって、でも、移動はユーレイルパスで1ヶ月、ヨーロッパを気ままに旅する。 その途中、スイスのツェルマットにある教会で二人だけの結婚式を挙げる。 父からお金は送って貰ってたとは云え、年末の一時帰国の資金のこともあり、相も変わらず野宿と安宿、車中泊でヨーロッパを巡り、フランスのシャルトルからパリまで
ポンペイ遺跡
は徒歩となった。 おまけに資金も底をつき、毎日パンにバターかジャム、時々道ばたの木に綯っていたサクランボウの実で食事。 小雨降る中、なだらかな丘を越えると僕の目にエッフェル塔が飛び込んできた。 思わず叫び・・・・・が胸が詰まって声が出ない。
 またぞろ、モンマルトルの、昨年冬に立ち寄ったパン屋さんへ入り、同じ事の繰り返し。
 本当にお金が底をついていた。 「この金額分だけ下さい。」 とジェスチャーで頼む。 おばさんは覚えて無いだろうけど、僕達はよく覚えてるよ。 本当なら、前回のお礼も込めて一杯買い物したかったんだけど、必要最小限のお金しか持って来てなかった。 よくもこう、ドンぴしゃと金銭管理するなあ・・・・と、僕の新妻に感心させられる始末。 
 おばさん、何を云ってるのか解らないが、「あんたたちかい」って云ってるような身振りで、再びパンを丸ごと1本取りだしカウンターに置いて、バターとジャムを付けてくれる。 

 
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クリーブロードのフラット

 僕達が結婚届けを大使館に出すに先だって、僕達が住むフラット探しを始めた。
彼女がオペア先のストラウス夫妻にこの事を告げると、通いでも良いとの許可をくれ、更に、給料を大幅に引き上げてくれた上、もしその気があるならと、婦人の友人2人を新たなオペア先として紹介してくれた。 つまり、少しでも実入りが良くなるようにとの気付かいであったと思う。
 実際、この時紹介してくれた婦人の友人とはオペアの主従関係というより、友達つき合いをさせて貰い、ロンドンで生まれた長女が先年、ロンドンへ1カ月行った時にはこの方の家にまる1カ月間、居候させて貰った・・・・約20年ぶりの再開である。(もっとも、長女にロンドンでの記憶などあろう筈も無いが。) 
 この方の家のキッチンに小さなマスコット人形が飾られている。
それはもう二十数年前、僕の嫁さんとなったHMが作ってその方にプレゼントしたもの。
長女が撮影したキッチンには、その人形が初めてこの家に来た時の姿のまま、同じ位置に何気なく置かれていた。 この老婦人が長女に曰く「Mだと思って今も話しかける事があるのよ。」

 僕がいたフラットのおかみさんに結婚の事と新居探しの事を話すと、家賃はそのままでいいから、良ければこのままいなさいと言ってくれた。 ベッドもダブルベッドを買ってやるからとまで言ってくれた。 部屋の広さは2人暮らしでも不自由は無いが、彼女が仕事に通うにはちょっと遠い(2駅だが)のと、もう少し広い部屋が欲しかった。 ウエストハムステッドの地下鉄駅を出て道を渡り、右の方、ウエストエンドグリーンの方にちょっと行くと、中古のテレビ屋と並んで日本で言うところの不動産屋がある。(今もあるだろうか?) 1週間程フラット探しをしていた僕達だが、何度も前を通っているにも関わらず、この不動産屋の存在には全く気付かずにいた。 隣の中古テレビ屋に置いてある、何台もの真空管式TVが懐かしくて見ている内に、この不動産屋の存在に気付いたのだ。
 中に入って聞いてみると、すぐ近くにいいのがあると言う。
早速、そのフラットの大屋さんに連絡を取って貰うと、今見に来ても構わないと言う。
場所を地図で見せてもらうと、何のことはない、キルボーンからストラウス家に向かう途中、いつも彼女を送る時に通っている道ではないか。
僕らの部屋は最上階

 僕達は徒歩で教えられた住所の所まで出向いた。                          
毎度見慣れた景色の中にそのフラットはあった・・・・「なんや、ここかいな。」前を通る度に「古そうな家やなあ・・・・100年経っとるかな。」等と話していた家だ。
 煉瓦製の塀があり、門を入るとこの辺りにしては広めの前庭がある。 庭には色んな花が植えられていて、その中を5m程進むと石段が玄関へと続いている。地面から半分程、ベースメントの窓が見えていて、グランドフロアはちょっと高くなっている。 石段を上がると、ステンドグラスの付いた緑色の大きな扉、右手には古そうな呼び鈴が幾つも並んでいる。 幾つか並ぶ名前の中で、教えられた大屋さんの名前が一番上に付いている。 呼び鈴を押そうとすると扉が開き、中に60歳前後、ちょうどストラウス婦人よりちょっと上位の年齢の女性が笑顔で迎えてくれた。
 促されるまま中に入ると、幅3m程の廊下が奥のホールのような所まで続いており、その両端とベースメントが大屋さんの部屋らしい。 床は細かいタイルのような物でモザイクになっていて、イタリアのポンペイ遺跡で見たのにちょっと似ている。 廊下の両端から奥にかけて骨董品のようなものが幾つか置かれ、ホールは大きな吹き抜けになっている。 その突き当たり、踊り場の下は公衆電話室になるのだろうか。 小さな部屋で公衆電話が置いてある。 左手からゆったりと幅のある階段がこの吹き抜けに沿って上に昇って行く。 天井が高いせいか、各階の間にはとても広い踊り場があって、骨董もののテーブルや椅子が置かれている。 窓もやはりステンドグラスの入った、大きなものだ。 僕達の部屋は2階、そう、日本式に言えば3階に当たる。 1階と2階の間にある踊り場は風呂場になっている。 
 風呂場の扉を開けると、6畳程の部屋になっていて、左手に白い大きなバスタブがドンと置かれていて、扉の正面の高い所に窓がついている。 これはでっかいタブだなあ、あのウクライナホテルにあったのと同じ位にでかい。 その気になれば大人2人で入れない事もない。 このタブがそのままデンと床の上に4本の足で立っている、これはいいね。 ウクライナホテルのもそうだったよな・・・・そうそう、ポパイに出てくるバスタブもこんなだし、西部劇なんかで出てくるバスタブもこんなんでした。 2階まで上がり、階段の真向かいの部屋が僕達が入るかも分からない部屋。 
 
 部屋に入ると、正面に二つの窓があり、右手には小さなキッチン・・・・オーブンもある。
白い暖炉の中にはガスストーブが埋め込まれている。 ソファーが2つに、小さなテーブル。
窓際には食事用なのか、ちょっと大きなテーブルに椅子2つ。 他には本棚や造り付けの戸棚、結構広いではないか。 調理用のガス代は不要だが、ストーブはコインタイマー制。 電気は、室内灯は部屋代込みで、それ以外のコンセントからのはコインタイマー制になっている。 風呂に入る光熱費は部屋代込みだという。 つまり、生活に必要な基本料金は部屋代込みで、それ以外はコインタイマー式と言う訳だ。
 しかも、この家には家政婦さんがいて、廊下や風呂、トイレの掃除はしてくれるが、週1階、希望すれば僕らの部屋の床掃除もしてくれると言う。 廊下の端っこに、大きな、そしてかなり重そうなフーバー(掃除機)が置いてある。 部屋代は週£15.00だから僕がいるフラットに比べて高くはなるが、今度は2人であることを考えればむしろ安い位だ。 僕達は躊躇なくこのフラットへの入居を決め、その場で大屋さんに1週間分のデポジットと、1週間分の部屋代を支払った。 不動産屋には1週間の手数料を支払い、総ての契約(契約書なんて無いが)完了。

 一週間後の日曜日の朝、僕達は最初の荷物を持ってこのフラットに出かけた。
部屋に入ると、食卓の上に花が生けてあり、その花の周りに何枚かのカードが立てられている。
花は大屋の奥さんと、妻・・・そう、もう妻となったんですねMTも・・・・の友人からだそうで、カードは友人やストラウスさんが届けてくれたのだという。

フェーバライト夫妻と
 こうして僕達のロンドンでの新婚生活が幕を開けた。
この大きくてくたびれかけたフラットが僕は大好きだ。 何せ古いのでコンセントだけでも3種類も違う型式の物がある。 トイレの便器のお尻が当たる部分、弁座は木製。 階段や廊下にひかれたカーペットはすり切れ、そうだそうだ、ジェルジンスキー号のカーペットもそうだった。
 廊下や階段は広さの割に貧弱な照明のお陰で、陽が落ちると灯りを付けても薄暗い。(廊下や階段の照明は、夜間でも普段は消えていいる。 大きな押し込み式の押しボタンを手の平でグイっと押し込むと灯りがともり、上階に行った頃、これが自動的に切れる。 グランドフロアから僕らの2階まで行って、部屋の鍵を開けるには都合3回、このスイッチを押し込まねばならない。 うっかり、階段や踊り場で話したり、まごまごしていると勝手に電気が消えてしまい、上なり下なりのスイッチまで月明かり、星灯りで行かねばならない。)
 父や母の実家、特に父の実家は藁葺き屋根の家で、僕が小学生の頃で築250年と聞いていたが、その家に行った時に感じる安らぎのようなものをこのフラットに感じる。 とても不器用そうなのだが、味わいのあるフラット、いや家だった。
そして同じように、この屋の大屋さんもとても味わいのある英国人だった。

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