リカベトスの丘〜プラカ地区散策

 アマリアス通りをぶらぶら歩いてくと、アテネに着いた時に降りたバスターミナルが見えてきた。

その少し先には昨日、ちらっと見えた無名戦士の墓がある筈なのでそこへ行ってみる。 
ギリシャは1923年の独立戦争まで実に400年の間、トルコの支配下にあったと言う。 この独立戦争で亡くなった兵士を祀ったのがこの無名戦士の墓だ。 日本では考えられない事だけど、この墓は国会議事堂と並んで建っている。 日本で言えば国会議事堂と明治神宮(ちょっと違うか・・・)が並んで建っているようなものだな、これは。
 戦争そのものに正義なんざ存在しない・・・・・・と僕は思っているけれど、これまでの歴史が証明している通り、自分が戦争しませんよと宣言して平和が得られる訳でもない。 支配していたトルコに対して独立戦争を起こした事をどのように捉えるのか? 第三者から見れば、また、聖戦は無いと言う観点から見てそれが如何に正当性の無いもののように見えても、この国にいた被支配者にしてみれば、この戦争は正義の戦争、そう聖戦だったのかも知れない。 いや、この国にとってはそうだったからこそ、このような立派な無名戦士の墓がある訳だと思う。
 反対にトルコへ行けば、この戦争で亡くなった人達の墓がやっぱり立派に建っているんだろうか? 英国でもフランスでも、植民地支配に携わり、これに拘わる戦争で亡くなった人達を祀る墓や祈念碑、それにこのような無名戦士の墓があることを知っている。 歴史、それにまつわる戦争というものの捉え方は見る角度によっては幾らでも違ってくるね。 僕は決して戦争肯定者ではないし、例えば先の大戦での日本の歴史的事実を肯定するものでは無いけれど、時々思うときがある。 「欧米人にとっての平和って、彼らが平和である事を言うのではないか?彼らの利益が守られる事ではないか?」ってね。 まあ、この事は別に欧米人だけに言えることではなくて、僕等日本人にとっても言えるとは思うんだけど・・・・・・・でも、本当の平和ってのはそんな狭い器量の物では無い筈だよね。 民族衣装に身をまとった、ちょっとバチカンのそれを思い起こさせる衛兵を見ていてそんな事が頭の中を過ぎる。

 アクロポリスの丘から見たリカベトスの丘が忘れられない。
まるでモン・サン・ミッシェルのようにアテネの街にぽつんと浮かんで見えたあの丘。 
どうせ狭い街だ、いっぺんあの丘の周りを回ってみよう・・・・・わざわざアテネまでやって来て馬鹿な事を考えるもんだ。 このシンタグマ広場から街中に入れば一杯面白そうな所があるってのに。 そう、このたかだか500m四方位の狭い空間にアテネの色んな楽しみが詰まっている筈だ。 でも、昔から電車の線路の先や山の向こう、太平洋に出てく大きな船を見るたびに思った疑問、そう、あの向こうには何があるの?ってこの感覚は今も僕に付きまとっている。 そして、アクロポリスの丘で思ったことは、あの丘の向こうに行ってみたい・・・・・・なんて無意味で馬鹿なとも思えるが、まあここは感情に忠実に動いてみようではないか。
 地図で見たときのアテネの街は小さなもののように感じた。
小さく入り組んだ街中ではあっても、時折見えるアクロポリスやリカベトスの丘の様子で簡単に行きたい所に行けると思っていたが、これがどうもパリのような訳には行かない。 大きな間違いは無いものの、あっちへふらふらこっちへフラフラしていると、時々、自分が何処を歩いているのか分からなくなる時がある。 丘の麓に着けばあとは簡単なものだ。 この丘の頂上には白亜の麗な教会がある筈で、上に行くことも考えたが、やめとこう。 再び街中に戻ることにする。

 国立歴史博物館の前を通りアクロポリスに向かって気の向くままに歩いてると、なんだかビザンチン風の建物(教会?)が角にあって遠くにパルテノン神殿が見える広場に出た。 この景色がとても気に入って、場所をガイドブックで見てみると
モナスティラキ広場となっている。 ここへ来るまでの間も、ちょっと入った小道などでビザンチン風の教会を見たけれど、この建物もあのパルテノンの姿と妙にマッチしていて違和感無く目に収まる。 
 この広場を渡るとのみの市が目に入った。
イフェストゥ通りは骨董店なのかガラクタ屋なのか、土産物屋なのか、なんだか色んな店が並んでいる。
淡路にはこんな場所が無いので手当たり次第の店に入ってみる。 民芸品や・・・・・おっと、サーベルが傘立てのような物に何本も差し込んである。 買って帰りたいが、お金もないし、日本じゃあ銃刀法に触れるかな。 なんだか、長閑な雰囲気でええなあ。

リカベトスの丘 モナスティラキ広場 イフェストゥ通り

 ふと入った店の中で、僕が履いているサンダルの底が突然抜けてしまった。
と言っても、全てが抜けた訳でなく、右足に履いているサンダルの爪先部分がベロリと捲れてしまった。 参ったなあ、普通に歩くとその捲れた部分が地面をこすってしまい、その捲れが益々大きくなっていくようだ。 
 店の前に出てそのサンダルを脱いで捲れた部分を見ていると、店の中にいた店員のお姉さんが出てきて何やら僕に話しかけてくる。 どうやら直してあげるとでも言っているようだ。 本当に直せるのかなと思いながらも、言われるまま、彼女に壊れたサンダルを渡すと、彼女はそのサンダルを持って店の奥に入っていく。 彼女についてくと、彼女は工具箱のような物の中から金槌と短い釘のような物を取り出して、僕のサンダルの捲れた部分に釘のような物を打ち込み始めた。 そんなんで直るのかなあ? 彼女はその釘のような物を何本か釘を打ってから、捲れた部分がしっかり付いているか爪先部分を何度か折り曲げて確認し、サンダルを僕に戻してくれた。 履いてみるとどうしてどうして、ちゃんと問題なく歩ける。 

 幾らかでも代金を払おうと財布を取り出したが、いらないと言う。
お礼を言ってから彼女と店内に戻ると、この店の亭主だろうか、彼女を指差して「うまいもんだろう」ってな仕草をする。
狭い店内を見て回ると、僕が履いているのと同じようなサンダルが幾つか並んでいる。 この店で作った物かどうかは知らないが、どうやらあの工具箱と無関係でも無さそうだ。
こりゃあ何か買ってやらないとなあ・・・・・・土産も買ってない事だし。 結局、小さなランプと水入れ、それにネックレスを買わせて貰いました。 まあ、小さな物ばかりだし安い物ばかりをしっかり値切って買った。(こればっかりは別です。) 
 いろんな所を歩き回って見て回ってると腹が減ってる事も忘れるもんだ。
昼飯を食べてない事に気付いたが、今更食べるのも勿体ない。 お金も無い事だし、夕食まで我慢する事にして、このまま夕方までこの近辺、プラカ地区を散策することにした。

 夕方、ホテルに戻り共同シャワーで汗を流してから食事に出ようとすると、宿のオヤジがTVを見ている。
ギリシャのTVを見るのも面白そうだと、暫く一緒に見てから夕食に出掛ける。 近くの安レストランで食事を済ませ、再び街の散策に出発。 まずはオリンピック・スタジアムに行ってみるが、これは現代の建物で遺跡ではないからイマイチ。 公園を通り抜けて、プラカ地区へ入り、色んな店のハシゴを始める。 毎度の事だけど、土産物屋より市民が毎日普通に利用する店屋さん、そう、スーパーマーケットや本屋、レコード屋、それに雑貨屋、なんでもいい、こんな店をぶらぶらするのが一番。 特に、食事支度前の買い物時だと、そこに暮らす人達の色んなものが見えて楽しい。

 街中にポツポツと明かりが灯り始め、やがてあのパルテノン神殿にも照明が当たり始めても僕は街中を歩き回っていた。 やがて陽が落ちてしまい、周囲が暗くなった頃、僕が歩いている通りの反対側に一際明るい空間を見つけた。 「何やろ?」と興味本位に歩を進めると、そこは市場(アゴラ)のようだ。
 ここは昼間通ったような気がする。
そうだ、あのモナスティラキ広場へ出る前に通った場所だ。
昼間と違って、夜になると街の見え方が違って来るので、どうやら僕が思っている辺りとは大分違った方向に来ているらしい。 
 それはいいが、この明るい空間は僕にとってはとても魅力的な空間だ。 なんだか夜店のようで、いや、この感じは夜店と言うより弁天さんのお祭り・・・・・そう、あれだ。 道路に覆い被さるように張り出したあの屋根を見ていると、弁天祭りの時にやってくる見せ物小屋やお化け屋敷のような・・・・勿論、目前にあるのはそんな物とは全然違う訳だけれど、何とも言えない親しみを感じてしまう。 光と喧噪にさそわれてそんな空間の中にふらふらと入っていく。 活気と熱気に満ちたその空間は僕を童心に返らせてくれる。 国が違うのに、なんだかここから少し歩くとその先に僕の家があるような不思議な感覚。 

 ホテルに帰ったのは一体何時だったのだろう。
歩き疲れもあってか、ベッドに体を横たえるとまるで自分の足が無くなってしまったような気がする。
薄れ行く意識の中で「明日は帰国や・・・・何時だったっけ・・・・・・もし遅れたらこのままこっちで生活しょうかなあ・・・・・・・・・・」


帰 国

 
1973年8月13日(月)
目覚めてから朝食も摂らずに街中の散歩に出掛ける。
街中はもう飽きたので、今度は街の外へ向かって歩く。 ホテルを出たのが8時頃だから、取り敢えず1時間はどんどんホテルから離れるように歩き、その後うろうろしながらホテルに戻れば丁度昼前になる。 それから食事してアトランティックホテルへ行けばよい。 郊外に向かって歩いたからといって何が見える、何がある訳でもないけれど、ここは気の向くまま風の吹くまま、好きに歩いてみる。
 正直言って、自分の部屋があるわけでも無く、当然、ロッカーがある訳でもないあのホテルの屋上に荷物を一式置いて、しかも今回はカメラまで置いて外出するのは危険な気がした。 荷物全ては困難としても、その気になれば、カメラ程度なら簡単に持って出られるからだ。 ただ、ほかの連中もザックなんかは置いたまま出掛けているし、僕もそのようにしていた。 第一、野宿する時はどうやっても同じような状況が展開するから、ここで心配しても仕方のないことだ。 それに、万一盗難にでもあって、おまけにチケットまで無くなれば、手続きの間だけ多くこっちに滞在出来るってもんだしね。 学校を休む理由も出来る・・・・・・。
 
 朝の散歩から帰り、ホテルをチェックアウトする時、宿のおっさんがブドウを一房くれた。
生ぬるいブドウを食べながらアトランティックホテルへ向かう。
けっして高級なホテルとは言えない、でも、僕がこれまで泊まった宿に比べれば立派なアトランティックホテルの正面階段を登り、フロントへ行って団体さんの添乗員を呼び出してもらう。 暫くすると、奥の方からパリのオルリ空港で分かれた添乗員の中谷さんが出てきた。
 「やあ、ご無事でしたか。」
僕の顔を見るなり中谷さんはこう僕に声を掛けてきた。
無事も何も、それよりあんたの方がまだベテランのようには見えへんけど無事に団体さんを引率出来たんかいな。 団体さんとはパルテノンでちょっと顔を合わせていたが、挨拶をした程度で旅の事は聞いていない。 まあ、この笑顔からして楽しい旅が出来たようだ。 中谷さんに促されるままカフェで珈琲を飲みながらこの旅の事や、これからのスケジュールの事を聞いた。
 1時にホテルを出ると言うからまだちょっと時間はある。
荷物をホテルに預け昼食に街中へ出る。 何故かスパゲティが食べたくなり、近くのレストランでスパゲティとコカコーラを注文する。 これが欧州最後の食事だと思うとなんだか物足りない。 折角エンジンが掛かってきて、さあ、これからって時に帰国とはなあ。 高校の夏休みが大学並みにあれば、当初の計画通り40日間の旅が出来た筈だ。 そう考えれば、まだ旅の半ばだってのに。

 バスは少し遅れてホテルを出発した。
アテネからカイロへまず飛ぶ。 カイロへのアプローチの途中、窓の下に突然、四角形の大きな石の構造物が3つ現れた。 「ピラミッド」とその名前が浮かんだ途端、それは僕の視界から消えてしまった。 「ギザのピラミットの真上を飛んだ。」 ちょっとした感動であった。 真上から見たピラミッドはどれも真四角に見えた。

 『ピラミッド』という映画を見たことがある。
多くのお金と人を費やしたスケールの大きな映画だったが、窓からチラッと見えたピラミッドの姿からは残念ながら、そのスケールを想像する事は出来ない。 小学生の頃、京都にツタンカーメン展がやってきて家族で見に行った事がある。 デスマスクや棺、ベッドに椅子・・・・・・目映いばかりの品々への驚きと、王家の呪いの話への恐怖感、僕にとって初めてのエジプト文化との出会いだった。 僕にとって古代エジプトは不思議の国である。 これは今も変わらない。
 数多くの民族、国家が存在するこの地球で、あのエジプト文明だけは何故だか地球の物とは思えない不思議な魅力をずっと感じていた。 彼らが信仰する神々の姿といい、名前と言い、全てがなんだか違う世界から突然この地球に現れた別の存在のように感じていたのだ。 この旅でエジプトにも出掛けるべきだった・・・・・・。

 「新幹線やないか」
カイロの空港の待合室には新幹線のどでかい看板があった。
まさかこんな所で新幹線の写真を見るとは思わなかったね。 東京に着いたら、東京駅から新幹線で神戸に帰る。 実はこれもこの旅の大きなハイライトではあったのだ、僕にとって。 なんせ、新幹線に乗ったことが無かったんだよなあ。 トイレに行くと、出てきた所で訳の分からんオッサンに「お金くれ、タバコくれ。」と言われる。 「アホかボケ、僕は学生じゃ、こっちがお金欲しいわ、ドアホ。」と日本語で言うが、どうやら雰囲気で分かったのか、その後は向こうがこっちを無視。
 カイロからは日航のDC−8になる。
まずはカラチに着いて、ここでもロビーで待機し、次はスコールのニューデリー、山が見当たらなかったバンコクを経て香港へ。 ロビーで1時間の待機があったが、この空港は比較的大きな空港だったので暇つぶしは十分出来た。 伊丹のように、なんだか民家の直ぐ近くに飛行機が降りる感じでなかなかスリルがある。
 狭い機内の中ではあったが、薬大のお姉さんと色んな話で盛り上がっては食べて、食べては話して寝てと時間は意外に早く過ぎて行く。 来るときの北回りより遙かに長い時間を機内で過ごしている筈なのに、この南回りの方が早く時間が流れていく感じがする。

 真っ暗な中、飛行機は東へ飛び続ける。
「皆様、当機は只今沖縄の北西・・・・・・・・」スチュワーデスがアナウンスしてくれた。 沖縄の近くを飛んでるんだ。
僕の母方の叔父に当たる人は沖縄戦で戦死している。(もう一人、やはり母方の叔父が満州で戦死している。) 母は言っていたなあ、死ぬまでに一度は沖縄と中国へ行って見たいと。 ちょっと前に通過した台湾、台北には父が入院していた病院がある。 父はフィリピン戦で右足を失い、台北で療養していた事があるのだ。 旅の終わり、僕は先の大戦で起きただろう様々な悲劇の地を通り抜けて行く。 今飛んでいる遙か下の方ではあの神風特別攻撃隊の特攻機が敵艦を求めて飛び交い、様々な空中戦や地上戦、海戦があって多くの命が散っていった・・・・・その同じ空の上を飛んでいる。 もう少し進めば東シナ海、そう、戦艦大和が沈んでいる海だ。 恥ずかしくて手を合わせる事など出来なかったが、暗い海に向かい、写真でしか見たことのない叔父に手を合わせた。 そう、母に代わってね。
 「只今当機は紀淡海峡の南を東京、羽田空港に向かい・・・・・・・」今度は機長のアナウンスだ。 
このアナウンスによれば羽田到着予定は23時30分頃で、天候は雨。 遅くなるなあ、どこで一夜を明かそうか? そんな事が頭の中を過ぎると共に、この暗い海のすぐ先に淡路島がある。 昼間なら柏原山が見えたかも知れない。 ヨーロッパにいる時はあんなに帰るのがいやだったのに、いざ家の近くを飛ぶと早く家に帰りたくなる。 「何でやねん。」  

 香港を出て以来ずっと暗い海の上を飛んできたので、すっかり暗さに慣れてしまった目に突然、大きな灯の塊が飛び込んできた。 いや、無数の小さな灯が集まって、まるで球状星団のように暗闇の中に輝いている。 その灯が段々と大きくなり、窓の外に広がって行く。 「ギューン」気圧のためか、性能低下を来していた僕の耳に突然、飛行機のエンジン音が飛び込んできた。 やがて着陸装置(車輪)の作動音、そして機は姿勢制御しながらどんどん高度を下げて行く。 
 工場地帯の様々な明かりや道路の外灯が窓の外を通り過ぎて行く。 道路にはあまり車が走っていないなあ。 そりゃあそうだ、もう11時をとっくに過ぎて日が変わる手前だ。 「ガタン」 無事に機は深夜の羽田空港に着陸した。

 機の扉が開き、狭い機内の通路に列を作って順番に搭乗口に向かって行く。
搭乗口にトランシーバーを持ったスタッフがいる。 僕は思わず声を掛けた「ただいま」。
「お帰りない。」 そのスタッフがにこっと笑って出迎えてくれる。
家に帰った訳でも無いのに、何故かそう誰かに言いたかったんだよね。