ソビエト極東汽船

 あるものが進歩発達すれば、それまであったものが衰退し、時として消え去って行くのは世の常である。 つい最近まで、島国であるこの国から海外へ渡航すると言えば船に頼るしか手段が無かった筈なのに、近年の飛行機の発達によってこの常識が覆され、例えばヨーロッパへ行くと言えば成田や関空からジェットで一っ飛びの時代。 移動時間が早くなって、しかも料金が安くなっているのだからこれは当然と言えば当然の結果だろう。
 昔は世界に綺羅星の如く優雅で華麗な客船が多く存在した。
ロッテルダムやレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、オリアナ、キャンベラ、クイーンエリザベス・・・・数え上げればキリがない。 勿論、今だって現役で活躍している船もあるし、同じように優雅で洗練された客船は今も多く存在するし、一時の衰退期を脱して、静かな客船ブームが続いているのだから、状況は僕が外国航路に憧れていた頃と変わらないのかも知れない。
 しかし、これらの殆どが世界周遊クルーズとか、エーゲ海やカリブ海、フィヨルドなんかの観光クルーズものであり、近距離の定期航路がそのような活況にある訳ではないように思う。 何も船の敵(って言う言い方は良くないかも知れないが。)は飛行機だけでは無い。 例えば、青函トンネル開通に伴う青函連絡船の廃止もそうだし、僕が住む淡路島だって、明石海峡大橋の開通に伴って幾つもの航路が廃止されてしまった。

 昔、横浜とソ連(現ロシア)のナホトカを結ぶ航路があった。
ソビエト極東汽船はこの航路にバイカル、ハバロフスク、ジェルジンスキーの3船を就航させていた。 これらの船は姉妹船なので、どれも同じような格好をしていて、総頓数4千数百トンの小さな船だったが国際航路には違いなかった。
 ロシアの船らしく、船室自体には幾つもの等級があるものの、それ以外の施設はモノクラスと言って一切の差別は無く、確か食事も同じ場所で同じものが出ていたと思う。 船はどれも古くて、別府航路に就航していた「こばると丸」なんかの方が立派に思える。
 船旅と言えば優雅で豪華なものを想像するが、僕が乗船したジェルジンスキー号は決してそんなに豪華で立派な船では無かった。 それどころか、カーペットはすり切れ、サロンや食堂の椅子は十年ものの僕の愛車のシートより遙かに経たっていた代物だった。

 そんなだったのに、何故この短い船旅をあれ程楽しく過ごせたのだろうか?
僕が唯一読んだ小説『青年は荒野を目指す』の主人公が乗った船と姉妹船だったから? 
いや違うなあ。 確かに船はボロイし、サービスだって至れり尽くせり・・・・とは正反対のような気がしたが、あの船には夢が一杯詰まっていた。 いや、あの船に乗る人達にはと言った方がいいかも知れない。 飛行機で一気に外国へ飛び立つ現在の人達に夢が無いと言うのではないし、豪華客船で優雅なクルージングを楽しむ人達に夢が無いと言うのでもない。
 ただ、あの航路には色んな人達が色んな夢を心に抱いて乗っていた。
そして何より、それぞれの夢をたっぷりと時間を掛けて語り合う空間があったように思う。
船の中でうんと語り合い、シベリア鉄道で又語り合い歌い、そんな時間と共に僕達はこれから始まるそれぞれの冒険への期待と夢を膨らませていった。

「今度はバイカル号に一緒に乗ってナホトカへ行って、シベリア鉄道でモスクワへ入ろう。」
家内といつも話していた、そんな夢が一つ遭えなく消え去ってしまった。

                                  
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旅 行 と 旅

 旅に行くと書いて旅行だから、どっちだって同じ意味じゃないか。
英語ではJourney、Trip、Travel等と色んな表現があって、それぞれその意味合いもちょっとだけ違ったものがあるようだけど、日本語で旅行と言うと旅に行くと書くので実際はやはり大した違いは無いのかも知れない。 ただ、実際の言葉の由来や意味は知らないが、「旅行に行ってくる」と言うのと「旅に出る」と言うのでは何となくニュアンスが異なるように感じる。

 旅行と言うとどちらかと言えば、始めからある程度又は相当部分(時には殆ど)仕組まれたものをイメージし、旅と言うとその反対、心の向くまま、気の向くままのようなイメージがある。
仕事の出張や修学旅行、観光旅行、慰安旅行なんかは旅行で、旅の典型が「フーテンの寅さん」ってとこだろうか・・・・・ちょっと乱暴過ぎる例えだけど。 先に「旅行に行ってくる」と「旅に出る」と書いたのは、そんな僕の勝手な思いがあったからだ。
 別の言い方をすると、ある程度人任せにあっちこっち出かける事を旅行、相当の線まで自分がやらねばならない場合を旅、これもちょっと乱暴だったかな。 これでは単に、団体旅行と個人旅行の違いを書いてるのと変わらないね。 でも、こんな割り切り方でもしないと、実のところ、旅行と旅ってのは差ほどの違いが見受けられないように思う。

 嘗て、誰かが旅行と旅の違いについて、旅行は単なる物理的移動を意味するのに対して、旅は心の移動を伴うと言っていたのを覚えている。 心の移動・・・・・別に遠くなんかへ行かなくても、自分の住む町中を散策している時だってそんな事はあるかも知れないし、団体旅行に出かけていてそんな経験をする事だってある筈だ。 そう言う意味では、やれ旅行だ旅だと無理矢理定義付けをしようとしても、どうしても何処かでその定義がリンクし合う時があるもんだ。
 詰まるところ、旅行だ旅だって事は、旅(旅行)から帰って来て自分が無意識に最初に思うこと、「いい旅だった」とか「ひどい旅だったな」と思うのか、「いい旅行だった」なり「まあまあの旅行だった」と思うのか、その時最初に出てくる単語が旅行なのか旅なのか、それが僕にとっての結論と謂うことになる・・・・・と言える。 何れにせよ、旅行でも旅でも別にどうでもいいことなんだけど。

                                
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水 と 安 全

 喫茶店やレストランに入るとまず大概の店ではコップ一杯の水かお茶が出てくる。
夏場なんかで、ちょっと気の利いた店ならその水にちょっとだけレモンの汁を垂らしてある場合すらある。 氷が入ってるのは言うまでもないこと。 僕ら日本人にはごく見慣れた光景だが、これが世界の常識だと考えたらとんでも無いことだ。
 ピカデリーにある小さなフレンチ・レストランで仕事していた夏のある日のこと、丁度昼時の忙しさも過ぎ去り、僕は客席でウエイトレス嬢達と雑談しながらちょっと遅めの昼食を採っていた。 そこへ何人かの観光客とおぼしき東洋人が入って来た。 すぐさまウエイトレスの一人、ダイアナが彼らのテーブルへ注文を採りに席を立った。 僕はそのままもう一人のウエイトレス、クリスと雑談を続けていると、その東洋人(会話で日本人だとすぐに判ったが)の一人が、「おーい、水・・・・ウオーターちょうだい。」とダイアナに叫んでいる。 
 ダイアナは言われた通り、コップ1杯のミネラルウオーターをその叫んだ人の所へ持ってくと、その男が言う「いやいや、全員によ全員に、オールだオール。」・・・・・・・?? 彼女、さっぱり訳が解らないといった顔つきで僕の方を振り返る。 僕は彼女を呼んで「水道水でいいから全員に水出して、それからコップに氷入れて、それとチャージしたらだめ。」と伝えた。 
 そのままミネラルウオーターを出せば、確実にその代金が上乗せされ、支払いの時にトラブルになる可能性を考えての事だ。 それに、ロンドンの水は生で飲んだからって腹壊すようなものでもない。 カルキ臭が無い分、日本の水より遙かに美味いと僕は思う。(もっとも、長く使ったヤカンの内側に付く石灰質の層を見ると、常飲する気にはならないが。)

 海外を旅してよく見かける光景。
免税店などで買い物の際、荷物が多くなったからなのか、一端店を出て通路などに置かれているベンチに自分の買った荷物を置いて、再び店の中に消えて行く。 こんな事されると、僕なんか気が弱い方なので、その荷物が気が気でなくなってしまう。 その荷物が取られるのは置いた本人の不注意だから仕方無いものの、万一、爆弾でも入っていたら・・・・僕はロンドン塔でテロに遭いかけているから、いらん心配がつのる。
 すでに出国手続きは済ませているから、取る人はいないだろうなんて甘い甘い。
僕はこれまで一度も盗難に遭ってはいないが、国によっては空港職員とグルとは言わない迄も、取られた人への同情より、取った側に同情する雰囲気のあるケースがある国もある事を忘れてはいけない。 
 ホテルの部屋で、自分の部屋の扉がノックされると無条件に開けてしまう人。
これも多いようだ。 もしホテルのスタッフだと言うなら、そして、何もホテル側に依頼した覚えが無いのなら、扉は開けず電話でフロントに確認すべきだ。 言葉が解らないなら、日本語の解るスタッフを出して貰うか、いなければ、そして一緒に泊まっているグループがいるなら、そっちの部屋へ電話して、見に来て貰う手もある。(但し、複数で。)

 イザヤ・ベンダサンというペンネーム(実は山本七平氏だった?)の人物が書いた本の中に、「日本人は水と安全はタダだと思っている・・・・」というのがある。
 年間降雨量が英国の3倍以上、過去において決定的な民族支配を経験した事の無かった民族・・・・・・にとって、このような感覚が薄くなっているのは否めない事実だと思うし、その事は決して恥ずかしい事では無い。 いや、むしろそれだけ恵まれていると言うべきだし、日本がそれだけ平和であると言う証しでもあると思う。
 しかし、こうやって日本が、日本人が海外に続々と出ていく時代になって、その感覚のまんまで海外を闊歩することは時として、危険と背中合わせである事も認識すべきではないだろうか。

 これは余談だけれど、先に恵まれている、平和な証拠・・・・と書いたが、反面、この国の社会は我々が思っている以上に管理社会であって、ひょっとしたら日本人は管理される事に安心感を抱いている、いや管理されて初めて個々の力を発揮出来る民族なんじゃないかと思う時がある。 そして、今度は、この管理の足かせが外された場合、一体どうなるのだろうと考えてしまう。
 英国人も日本人に劣らず管理を好む人達だと思う。
ある本で読んだ記憶があるが、第二次大戦の折り、日本軍の捕虜になり収容所に入れられた英国軍人達は、収容所に送られるなり自分達の手で治安維持の組織を作り上げ、捕虜兵間のトラブルを処理するため、彼ら自身で裁判制度まで導入、裁判官や弁護士、検事まで役割を決めその組織を整然と運用したと言う。 
 ただ、彼らの行動の規範にあるのは個人であって、そのまた奥にあるのは宗教かも知れない。 これに対し、僕らの行動の規範にあるのは一体何なんだろうか?


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省エネと自動化

 僕がロンドンに着いて間もなくしてから第一次オイルショックが起こり、日本での給油制限やトイレットペーパー騒動が新聞やラジオで盛んに報道されていたのを覚えている。 この頃、僕はまだ車の免許は持っていなかったし、車に何の興味も無かったので、英国の自動車燃料事情は全く解らなかったが、少なくとも当時、やれオイルショックだってことを感じさせるような騒動は何ら感じず、日本での騒動を対岸の火事(と言うには遠すぎますか。)位に受け取っていた。

 所で僕が今乗っている車のカーテーシランプやキー穴照明は自動消灯式になっている。
これは、スイッチが入ってから一定の時間後に自動的にそのスイッチが切れる装置だけれど、実はこれと同じような機能のスイッチが英国(他の欧州諸国でも見たようにも思うが。)の家庭やフラット、ビル、小さなホテルなどで当時使われていた。
 僕が泊まった安ホテルやその後住んだフラット、友人のフラットなんかでも、階段などの登り口の壁に大きさは卵程もある、円筒形のプラスチック製の押し込み式スイッチが付いている。 色は大抵白かクリーム色で、このスイッチを手のひらでぶっきらぼうに押し込むと天井の灯りがともる。 この円筒形のスイッチの中にはスプリングか空気(空気圧縮式)か判らないが何か入っているんだろう、押し込んだ直後から徐々にこの円筒形のスイッチは、まるで舞台のせりが上がってくるように元の位置に向かって戻り出す。 そしてスイッチが元の位置に戻った時、灯っていた明かりが突然、本当に突然何の予告もなくスッと消えてしまう。
 それだもんで、3階建ての建物の場合、まずグランドフロアでこのスイッチを押し込み、明かりが消えない内に1階へ上り、再び、壁についている同じようなスイッチを押し込み、2階で同じ事をくり返す。 なにも無ければこれでいいのだが、階段や踊り場の途中で誰かと話し始めたり、まごまごしていると、話の最中に電気が容赦もなくパチンと切れてしまう。 誰か想いの人とでも話し込んでる最中に消えてくれるなら天の恵みだけど、普通はそんないい状況なんてことはまず無いから、そうなると後は手探りで階段を移動する。
 初めてのヨーロッパ旅行でパリのメトロに乗った時も彼らの合理思想に驚いたもんだ。
メトロの扉、閉まるのは自動で閉まるが、駅に着いても自動では開かなかった。 そう、自分で開けない限り、日本のように勝手に開いてはくれないのだ。(今は知らないよ。) 考えてみれば、誰も乗ってない車両や、出入りしない扉まで開く必要はないのだから合理的と言えば合理的。 因みに、ロンドンの地下鉄は開閉とも自動だった。

 僕がロンドンにいた頃、僕の生活圏の中で自動ドアと言えばハノーバー通りにあるJALオフィスくらいなもんだった。 初めてこのオフィスへ行ったとき、どこのビルでもそうであるように、僕はガラスの扉を押そうと両手を伸ばすと、手が触れもしないのに扉が勝手に向こうに両開きしたではないか。 ちょっとよろけながらオフィスに入ると、カウンターにいた女性が片手を口にあてて笑っている。 日本ではこの手の自動ドアあんまり見たこと無かったので、引き戸の文化の日本との違いを感じ、ああ外国にいるんだと実感したもんだ。
 逆に日本に帰ってから、タクシーに乗るときなんか無意識に扉に手をやって、自動で開いてくる扉に手が当たったり、降りる時扉を手で閉めようとして「お客さん、自動で閉まりますよ。」なんて運転手さんに注意されたり・・・・・・。

 扉を開けて通過する時、後ろから人がきたりしていると、その人のために扉を開けて待っていてあげるのが一寸したマナーになっている。 時には相当年を召した老人が10m以上も後から歩いている僕の為に扉を開けたまま待っていてくれる事もある。 引き戸文化で育った僕ら日本人はこの習慣が無く、欧州へ来たての日本人の後を歩いていると、自分が開けた扉はちゃんと閉めるか、そんな事も気にせず扉の向こうに消えていく。 
 実は僕も最初はそうだった、この事に気づくまでは。
何せ親から「開けた扉は閉めろ。」と教育されて来たんだから、他の日本人だってそうやってるからって、別に不親切って訳じゃない。 

 セルフリッジスというデパートで知り合ったある老人との会話で、こんな内容を覚えている。
「自動ドア、そんな物無くったって毎日の生活に不自由しないね。 セルフリッジスでクリスマス・プレゼントを買いすぎて両手が塞がり、ドアが開けられなきゃ近くにいる誰かがサッと開けてくれるし、もし自分で開けようとして荷物を落としたら誰かが拾ってくれる。 その人がもしご婦人なら「有り難うマム」とお礼を言う・・・・・それが社会ってものじゃないかね。」
 
 現代の社会は科学技術の発達のお陰で、何でも自動化されつつあり、その分、人と人との関わりの場面が減少しつつある。 そればかりが原因とは思わないが、だから最近、やたら「ふれあい」なんて、僕には訳の解らない言葉をよく聞く。 「ふれあい」この言葉自体はいい言葉だと思うけれど、最近の使われ方を見ていると何かしら悲壮感すら感じてしまうのは僕だけだろうか?
 合理主義、自動化イコール無秩序な便利主義ではないと思う。
また、僕ら日本人の考える合理主義と西洋人の考える合理主義とでは色んな点で相違点があるように思う。 どちらが正しいとかそんな問題ではなく。
      
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灯りの話し

 英国に限らず欧米圏の家庭での照明の多くは白熱灯による間接照明であるのに対し、現代の日本家屋照明の主体は蛍光灯であるように思う。 勿論、白熱灯も多く使われてはいるだろうけれど、殆どの場合部屋の天井中央に主照明を取り付け、部屋全体を均一に明るくする直接照明が好まれている。 蛍光灯の方が電気代も節約でき、昼間光に近いというのがその理由なんだろうけれど、僕自身はこの蛍光灯の明かりはあまり好きではない。(最近は白熱灯色の蛍光灯もあり、僕の家でも一部これを併用しているが。)

 僕の家は平屋だったので、僕が高三の時両親がこの家の裏に二階建ての家を増築し、その中の一室が僕の部屋となった。 初めて持つ自分の個室・・・・「自分の部屋だから好きなように自分でデザインしなさい」と言われた僕は、照明は全て白熱灯にして、間接照明にウオールライトとスポットライトを一部併用した。 全部の照明を灯しても一般的な感覚からするとちょっと暗めだったかも知れない。 何故そんなデザインにしたのか? 今考えてみるとそれは、お爺ちゃんやお婆ちゃんの住む、田舎の紙と木で出来た古い家への郷愁ではなかったかと思う。
 小さい頃、親戚とその家に泊まりに行った時、墓参りに行ったときなど、夕方になってその家に帰ると、障子の向こうから柔らかく暖かそうな電灯の明かりが障子を通して外に漏れてきて、たらふく山を駆け回って空腹の僕はその明かりに吸い寄せられるように古い家の木戸を開けた事を覚えている。 この古い家の中は決して明るいとは言えない照明だったが、その明るさ加減が程良い包まれ感を醸し出して心地よかった。
 山中にあったこの家では風呂は薪、炊事はシバを使う。
黒光りした竈が二つあって、その焚き口に木製のベンチ椅子があり、その後ろには山で採ってきたシバが一杯山積みされている。 パチパチとシバの弾ける音と共に、炎の揺らめきによって、ご飯を炊いているお婆ちゃんの顔の表情がまるで百面相のように変化する。 その姿に日本の童話や欧米の童話、時には魔法使いの姿をだぶらせたものだ。

 僕がクリーブロードのフラットに住むようになり、やや暗めの廊下や階段を上り下りする度、ふき抜けを見下ろしたりする度、そして自分達の部屋でくつろいでいる時などに感じたあの安心感は蛍光灯の直接照明などで室内を均一に照らし出す方法では決して得られないもののように僕は思う。
 蛍光灯のトップライトによる直接照明は人や物の表情を実に無愛想なものにしてしまうように思う。 ススキや団子を飾って迎える中秋の名月は情緒があっていいもんだけれど、あれは月だけでなく地上の周りの風景も含めてあの情緒が出るのであって、月そのものを例えば望遠鏡で見てみると必ずしも表情豊かとは言い難い。 むしろ、やや満ち欠けしている時の方が遙かに表情豊かな筈だ。 ヒュードロドロで現れるお岩さんの幽霊だって、本当に怖いのはやはり均一照明の下では無いし、ホウキに跨って空を飛び回る魔女の鼻が一際高く感じたり、その表情が不気味に感じるのは陰影を落とす角度から光が当たった時だ。

 この地球上にいる限り、僕らがどうあがいたって昼と夜は必ず交互にやって来る。
夜になれば陽が沈み暗くなるのは当たり前の話で、その夜にまで昼間の光を求める必要性がどこにあるのかと思う。 いやむしろ、夜は昼間にない光の演出を作り出すために神が与えてくれたものだとすら思えてくる。

 トップライトによる蛍光灯の灯り、それは取りも直さず近代日本の色んな姿のように思う時がある。 蛍光灯の均質な明かり、それは均一画一、団体行動を好む我々日本人が無意識に選んだ、近代の日本に最も適した照明方法だったのだろうか?

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街 並 み

 欧州の都市のシックな街並みに比べて、日本のそれは何かしら雑然とした感じが拭えない。
勿論、日本にも萩や鎌倉、京都と言った古い街に行けばしっとり落ち着いた風情は残っているし、その他の地方都市や、時には大都会にだっていいなあと思うような街並みを見付け出せないことはない。 しかしながら、国レベルで見た場合、やっぱりその違いは歴然としている。

 嘗て、日本を訪問した多くの外国人達はその自然や街並みの美しさ、人の優しさや大らかさに感銘を受けたと書き残している。 喜劇王と言われたあのチャーリー・チャップリンもその一人であり、戦後の日本を訪れたチャップリンは日本の街並みや大衆文化を愛したと言われる。 街並みの話とは違うが、彼は特に小屋がけの大衆演劇に惹かれ、彼のその後の作品に多大な影響を受けたといった事を何かの本で読んだことがある。 しかし、そのチャップリンも最後に日本を訪問した時には「私の愛した日本はもはや消えてしまった。」と語っている。
彼が愛してやまなかった日本の姿とは一体どんなものだったのだろうか?
 彼が言及したものは日本の自然や街並みだったり、伝統、文化といった有形無形のものが含まれている。 しかし、これらの基になるものというのは、やはり人の心ではないだろうか。 従って、彼が言った「私の愛した日本はもはや消えてしまった。」という言葉は、やれ日本の街並みが近代化されて古くエキゾチックな雰囲気が無くなったとか、大衆演芸の衰退だとかそのようなものではなく、これらの物を創りだし維持発展させて行く心とか精神とか言ったものではなかったかと思う。 すっかり、街並みの話しから外れてしまったなあ。

 欧州では18〜19世紀にかけて英国を中心に産業革命が起こり、それまでの家内工業中心の手作業生産から一気に企業レベルの大量生産への変革を遂げる。 この事は機械や動力の発達による生産体制の発達に留まらず、封建制度の崩壊、その台頭としての資本主義制度の確立を促した事は承知の事実です・・・・・・よね、自信ないなあこの手の話。 この革命により社会制度も大きな変革を遂げるけれど、革命そのものの本質は西洋文化を土台にした機械産業の技術革命でした。
 それに引換え、日本の場合はその歴史の中でこのような産業革命を経験せず、明治時代に経験したもの、それは産業革命ではなくして文化革命といった方が良いと思う。 この時代、我々の先達は過去の自分達の文化を時に否定する事によって西洋を取り入れた。 その時以来百有余年、我々日本人は西洋文化と日本文化の狭間にあって、まるで荒波の中を漂う一隻の小舟のように翻弄されて来たように思う。 そして、欧州に比べて日本の街並みが雑然とした混沌の中にあるように見える(僕にだけかも知れないが。)のはその事と大いに関係があるように思える。
 
 勿論、この事だけが日本の街並みが雑然としていて落ち着きが無い理由だなんて思わない。
例えば西洋の建物の殆どが石造りであるため、木製の日本建築より一般的には耐久性があり、古い建物が多く残っている。(古ければいいってもんでもないでしょうが。)
 例えば、英国なんかの場合一般民家の新築件数が日本に比べて圧倒的に少なく、そのため、建築設計士の数が非常に少ないと聞いた。 殆どの場合が日本で言うリホームであるため、そのためのデザイナーは多いが建築家は少ないってことになるようだ。  家の価格査定も新築より古くなる程価値が出てくると言うから、骨董品をとても大切にする、誠に英国らしい話ではないか。
 もっとも、日本の家屋の寿命が短いというのは気候や地震といった要素や建築材料のこともあるだろうけれど、それ以上に、ライフ・スタイルの変化という点が大きいようには思う。

 シックなたたずまいだとか落ち着きといった感覚は、デザインの連続性によって生み出されるなんて事をロンドンで知り合ったある建築家の卵が言っていた。 この言葉から見れば、純和風建築の家の横に鉄筋の近代的な建物があり、その横はアメリカ風の家、その先には南フランス風の家なんて光景が普通に見られるこの国の風景って、どことなく取って付けたようで落ち着かないのは当然のことかも知れない。 神前で七五三を祝い、寺で先祖の供養、教会で結婚式を挙げ、最後は寺でまた葬式といった事が何の違和感もなく行える僕らにとって、このような街並みに住む事は別におかしな事ではないのかも知れない。


 昔、オランダからベルギー、ルクセンブルグを旅した
とき、ベルギーのブルージュという街に泊まった事があった。 この街は9〜15世紀まで、丁度アムステルダムのように運河を利用して海運貿易で栄えた街で、レース編みで有名。 街の雰囲気は日本で言う萩のような感じのする、僕が大好きな街の一つでもある。 
 列車でこの街に着くと、駅は街外れにポツンとあって、駅の前は一面花畑(だったと思う)。 このような経験はスペインでも経験したし、スイスのベルンは旧市街に駅があるが地下に線路を引き込んで、市街の景観を害さない配慮がされている。 
 日本でも最近はこのような配慮がなされて都市計画が行われていると思うが、30年近くも前、当たり前のようにこのような光景を見せられて僕はちょっと驚いたものだ。

 古都、京都の盆地の中を五重塔をバックに快走する新幹線の姿は、古い文化と先端技術の対比を見せてくれて興味深いが、はたしてこれでいいのかなあ・・・・・とつい考え込んでしまう。 京都タワーも、そして突然姿を表した駅ビル(何て名前か知らないけれど。)も、特に駅ビルは便利なのだろうけれど、そうそう、あのパリの象徴であるエッフェル塔ですら未だに、景観を損ねると言って取り壊せと言う意見がフランスにあると言う。
 京都の街並みを見下ろしながら走る新幹線、あの姿を見ていると戦後、いや明治以後、この国が走り続けてきた姿そのもののように思えてくる。 文明が文化を牽引し始めた先にあるものは一体どんな世界なんだろう。

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日本の英語教育は本当にダメなのか

 なんて事を書いて別に文部省の肩を持つつもりも無ければ、今の英語教育で十分だとか、正しいとか考えてる訳でも無ければ、反対に間違っていると書こうと思ってる訳でもない。 第一、書いてる本人の英語が実にいい加減なもので、文法力なんてまるで中学1年の1学期を過ぎた頃の学生以下なんだから、そんな大それたテーマを扱える筈もない。
 でも、ちょっとだけ僕が感じている事を書いてみたいと思う。
非常に主観的な見方で書くので、結構無責任な内容になると思いますが(他の稿も同じか)暇と時間があったら読んでみてください。

 今では幼児教育とやらで、幼稚園からでも英語教育をはじめてるケースもあるようだけど、一般的には中学から英語を始めて、高校、そして大学で勉強する人はさらに何年か英語の勉強をするから、単純に考えて8〜10年位は英語の授業を受ける事になるんだろうか。
 「十年近くも英語の勉強をしていながら何故日本人は英語が話せない?」よく聞く決まり文句。 雑誌や語学の本、TVにラジオ、いろんな所から偉い先生方がそんな内容の有り難いお話をされる。 なるほどなるほど・・・・・僕がロンドンに行った頃も、1年ほど仕事していた英国企業でも(何人もの外大出がいたが)感じる事は同じ。 上手い奴は上手いが、失礼ながらそうでない人はこれでよく外大出られたなあと思うような人もいた。

 断っておきますが、僕は英語力ありません。 何せロンドンで学校通っていたと言ったって、それはビザ延長と友達と馬鹿話しするのが目的で、自慢にならないが中学時代に買って貰った辞書(一応、UKにも持って行ってた。)が今でも新品同様な位ですから。

 先に書いたお偉い先生方の言われる言葉もここまで諄くなると、これはもう警告や意見と言うより洗脳に近いのではないだろうか。 さらに言えば、そんな教育制度で既に育った人達にして見れば「じゃあ、俺達が勉強した英語は何だったんだ」ってことになる・・・・責任者出て来い(失礼、漫才ではありませんね。)とも言いたくなる。 そう、真面目にやった人であればある程そう言いたくなると思う。
 話が変わるが、高校時代の欧州旅行や卒業後、ロンドンに住み始めてつくずく感じた事、それは自分の単語力の無さと文法力の無さだった。 まあ、文法の方は言うほど意識した事は無かったが、単語力の無さと、定型文を知らない事で時には一つ一つの単語は解っても言葉全体の意味が解らないという事が多かった。

How do you do.

この言葉の意味を理解出来ない日本人はそう多くはないでしょう。
実際にはこんな言葉はあまり使われないが、しかし、高校を出た当時の僕にはこの言葉の意味が解らなかった。 いや、どう訳していいのかさっぱり解らない・・・にも拘わらず、電車の乗り換えや安宿の交渉は立派に英語?でこなしていたんだから、言葉って不思議なものだ。 
 少なくともこの時期からヒアリングに困ったとか言う経験はしていない。
「まさか」と思われるかも知れないが本当の話だ。 別に僕に語学の才能がある訳じゃない。実に簡単な話だ。 
相手の話が早くて聞き取り難ければ Speak slowly please. の一言でいいし、言葉の意味が解らなきゃ、 I don't understand. Speak simply please. で相手の話し方はがらりと変わる。

 会話と言うと相手があって始めて始まるものだ。
別に弁論大会やる訳じゃないし、自分の英語力をひけらかさなければならない訳でもない。
一番大切なことは、上手い英語を話す事ではなくて、自分の考えや言いたい事を相手に伝えることの筈だ。 そう考えると、少なくとも単語力や定型を幾つも知ってさえいれば、会話を続けるのになんら障害は無い筈ではないだろうか?(時間が無い時は別)それでも全くだめと言うなら、それは英語教育の問題というより、教育全体もしくは自分自身の問題であって、それを再考しない限り問題は解決しないように思う。
 まして、外国人と話す機会が無いから・・・・・なんて理由にならない。
何故なら、僕は何度も目にした事がある。 田舎なんかに行って素朴なご老人達が何のてらいもなく外国人と接している姿を。 言葉が出来る出来ないなんて関係ない。 僕が見た彼らは心で接していたように思う。 この姿勢である限り、そこにたとえ机上知識であっても単語力があれば、恐らく彼らは堂々と英語で対応出来ると思う。
 それでもやっぱりダメと言うなら筆談すればいい。
筆談でもいいではないですか。 僕はアジアへ旅する時、相手が中国語が出来て英語がダメって時は紙と鉛筆出してよく筆談したもんだ。 時には絵や地図を描いたりして、今度はそっちの方で話が盛り上がったり。 まして英語の基礎学力がある人なら、これを何度も繰り返している内に話せるようになりますって。

 僕ら日本人はやはり真面目な人種なんだろうか?
えらく発音や文法を重視する・・・・から余計それが気になって話せない。 って事すら教育のせいにしたがる。 でもね、こんな教育体制が出来上がるって事は単に文部省のせいでは無く、やはり僕らの国民性に根ざしている面も大きいように思う。 勿論、改革すべき面は大いに改革が必要でしょうけれど、それだけで問題は解決しないように思う。
 更に言うと、果たして発音なんか何処まで正確にやる必要があるのか僕は疑問です。
勿論、ある基準は必要だけど、言語学者にでもなりたいなら、また、本当に英語が好きでこんなように喋れるようになりたいなんてことなら別だけど、そうでないなら、そこまで真面目に考える必要は無いと思う。 
 それじゃあ相手に誤解を与えたり、真意が伝わらない・・・・・馬鹿な、じゃあ、日本人は皆標準語を話してますか?って事になる。 実際、英国ですら下町の生粋の英国人でも普通にこんな言葉を使っている。  He go to ・・・・・・   これを聞いたある某外大出の日本人が、君の英語は間違ってると言ったもんだから、そのパブにいたコックニーを話す連中が大笑いした。
 それに誤解大いに結構だ。
外交だの企業間の取引ならいざ知らず、民間レベルの誤解はそれがたとえ起きたとしても、それはそれで解決に努力すればいい。 なにも一方通行じゃない。 お互いの努力と忍耐でこれを解決すればいいだけだ。 こうやって信頼も生まれてくると言うもの。 だた、命にかかわるような内容のものはこんな悠長なことは言ってられないけど、言葉のイントネーションや雰囲気、相手の表情でそれと解るのが普通で、その国の国情と照らして肌で感じる敏感さは要求されると思う。 何でも日本と同じ感覚でいたらそれこそ命取りになり兼ねない。 その事は僕も何度か痛感してます。

 話が題名からおおよそ違った方へずれてしまったが、 まあ、誤解を恐れず一言で言ってしまうと、いくら詰め込み教育であろうが何であろうが、教育される側に将来の展望なり何かの夢や目的があれば、それはそれで立派に機能すると思う。 少々いい加減な教育でも、やる気のある人間はどうとでも工夫して物にしていくのではないかと思う。 今の教育にはその一番大切なものが抜け落ちているような気がしてならない・・・・と言うか今の社会と言った方がいいのかなあ。
 だから、くり返すようだけれど、やれ英語の教育がどうのとかいうより、教育制度全体、さらには社会全体の問題としてとらえる必要があると思う。 それから、もっと基本的なこと、それは個人個人の英語に対する考え方をもっと気楽に、肩の力を抜いて考えたらいいのではと思う。

                                 
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ヨーロッパの自然と日本の自然

 ヨーロッパを旅した人達の殆どが言う言葉に、「ヨーロッパは自然が一杯残されていて・・・・・・」という決まり文句のようなものがある。 確かに、ロンドンでもパリでも街中には大きな公園が多くあり、あの有名なハイドーク(多くの人がケンジントン・ガーデンとハイドパークを一つの公園だと思っているようだけど。)だって、キュー・ガーデンやリッチモンドに比べれば決して大きな公園とは言えないくらいだ。 確かに緑は多い
 郊外や田舎にいっても綺麗に造形?された自然が車窓から延々と続くさまは正に壮観。
実際、写真を撮ろうとした場合、被写体に苦労する事はない。 だいたい何処を撮ってもさまになるんだから、大げさな言い方をすればヨーロッパ全体がまるで公園のようだ。

 僕が結婚して、その新婚旅行にヨーロッパを1ヶ月程旅した時、丁度フランスのシャルトルに着いた日でユーレイルパスが切れた。 この町にあるシャルトル大聖堂へはどうしても行きたかったので、結局僕らはこの町で一泊してから、パリまで歩く事にした。 何せお金の無い旅。 キスリングに寝袋しょって、3日かけてパリまで歩いた。 
 延々と続く(ホントは永遠と続くと書きたい位だったが)田舎道をトボトボ歩いてる内に、何故かこんなことを思うようになった。 「ここは公園や、どこもかしこも人間の造った公園や。」

 イギリスに住んでて、ヨーロッパを旅して思うこと、それはどこも彼処も綺麗過ぎる。
いや、別の言い方をすると人間の手が入り過ぎてる。
 彼ら欧米人にとっての自然って何なんだろう?
そう考えた時、彼らにとっての自然とは克服するもの、管理するものでは無かったかと思う。 言い方を変えてみると、自分たちの都合がいいようにさんざいじくって、そこから出来た自分たちにとって美しいと思うものにした作品じゃないかと。 それなら綺麗なのは当たり前だ。

 中世までのヨーロッパは緑に覆われた、深い森が支配していたといったことを何かの本で読んだことがある。 「ヘンデルとグレーテル」にせよ「赤ずきんちゃん」にせよ、あのロビンフッドが暴れ回るのも森の中だ。 それが今の姿になったのは結局、人間による森林伐採であり、今の姿はそれ以後人の手によって造られてきたものという事らしい。
 彼らの自然保護という意識はその辺から芽生えているのかも知れない。
従って、自然にはうち勝てないと考えるのではなく、自然は克服出来るものであり、そうである以上、人間がちゃんと管理しない限り、それを破壊もしてしまう。 ただ、ここで僕が思うのは、この人間が・・・・という部分。 ひょっとして、彼らにとってはこの部分が人間がというのではなくて、「自分たち(つまり西洋人)が」という事ではないかと。 
 彼らの言う自然とは、人の手によってきちんと管理された環境を言う・・・・極論かな? じゃ、人の手によって管理されてない環境はというと、それは「野生」と言うのだろうか?

 一方、僕らの場合はと言うと、比較的穏やかな気候で、地質面でも安定期にあるヨーロッパとは違い、台風もあれば地震もある。 自然は克服するのでなく順応するものという意識が強いのではないだろうか? 僕らが自然と言う言葉を聞かされた時にピーンとくるもの。それは、「人の手が入ってない、あるがままのもの。」ではないだろうか?
でも、これは西洋人にとって自然ではなく野生なのだと思う。 僕らにはこの野生と自然の区別が無い、いや薄いように思えてならない。

 自然保護、動物愛護・・・・言葉はいいが、もし自然や動物とちゃんと共存していれば、こんな言葉は出て来る筈のないものなのだ。 そんな運動が必要になるのは、結局、その反対の事を行ってきたからであり、何も初めから崇高な理念があって始まったものでは無い筈だ。 〜保護と言う言葉の裏には、それを保護する側が圧倒的優位で主の位置にある事を意味するものがある。 
 これでは自然保護じゃなくて自然管理といった方がいい。 
もし保護と言う言葉を使うなら、野生保護とか野性の保護って方が僕にはピンと来るのだが。
 
追稿
 東京がまるでコンクリートジャングルのように言われる。
しかし、僕が住んでいた調布には一杯の緑があったし、コンクリートでない、土盛りの土手もあった。 そこには蛇や蛙、何処だったかザリガニだって見た覚えがある。 夜になれば虫の声だって聞けたもんだ。 反面、緑が一杯の筈のロンドンでは動物園以外で蛇を見る事も無かったし、東京のようにふんだんに色んな虫たち(害虫も含め)に出会う事もなかったように思う。 それとも、僕が忘れてるだけなのだろうか?
 確かに、公園へ行けばリスや綺麗な鳥たちはいた(檻の中じゃなく)。
でも、動物や虫ってのは人の好む種ばかりじゃないだろうに。
この事が今でも不思議で仕方がないのだ。


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差別と区別

 僕がモヤシ工場で中国人や黒人と仕事をしていた頃、黒人の中にオビと言う大柄の男がいた。 背丈だけではなく、体格も隆々の彼とはコンテナのモヤシを水槽に移す時などよく競争をしたもんだ。 最初はいいが、コンテナは深いので底の方のモヤシを引き抜くには腰を折り曲げてやらねばならず、結構重労働だ。 一見力強そうな彼の上半身の力こそ凄いものの、下半身はそうでもないらしく、殆どの場合僕がこの競争の勝利者になった。
「masa、お前の何処にそんな力があるんだい?」と彼がよく僕に言ったもんだ。
 そんな彼がある日僕にこんな事を言った事がある。
「アメリカ人は俺達黒人を差別するがね、英国人は俺達を区別するんだよ。」 この時僕は、彼の言ったこの言葉の意味が何なのか理解出来ないでいた。 差別と区別?
 
  それから日が流れ、オビのこの言葉の事も忘れたある日、僕はバンクにある欧日協会の日本語図書室である本に出会う。 会田雄次著の『アーロン収容所』がそれで、副題には(西欧ヒューマニズムの限界)と書かれていた。
  この本は、戦後から昭和22年5月までビルマの英軍捕虜収容所で過ごした氏の体験を中心に書かれているのだが、その中に、ある英軍女性兵達(看護婦やPX関係)の事が書いてある部分がある。 要旨だけを書くと、彼らは彼女達にまるで家畜か単なる物体のような扱いを受けたというもので、例えば女性兵や看護婦が用便中、風呂上がりの全裸の時、 そのような時でも捕虜とアジア系の人間はノック無しで彼女達の部屋に入れたと言うのだ。
全裸姿を彼らに見られたとしても、彼女達は何ら恥ずかしがる訳でもなく、彼らを顎で使ったと言うし、彼らの存在を完全に無視出来たと書いている。
  そう言えばエジプトの時代劇なんかで、女王が男の奴隷の前で平気で裸体を晒すような場面を見た覚えがある。 つまり、奴隷を人間として考えていないのである。 そこにいる異性を単なる家畜の一種と考えるなら、例えば女性でも自分の愛犬(雄)の前で裸になるのを躊躇するだろうか?
 オビが言った言葉がこの会田雄次氏の体験談と同じ内容のものとは勿論思わない。
しかし、彼が言った区別という言葉の裏には、この本に書かれたような背景が不気味に潜んでいるように思えてならない。

  僕はオーディオも趣味でやるので、その事にちょっと当てはめて考えてみる。
ステレオセットにはプリ・アンプやパワーアンプ、レコードプレイヤー、CDプレイヤー、スピーカーなど色んな装置が組み合わさっている。 アンプとスピーカーと言った場合、これらはまったく違った役割(増幅と言う点では同じだが)を持った装置であり、これらの能力、仕事の違いを僕達は区別して理解している。
 そこで、今度はAと言うアンプとBと言うアンプを比較した場合、両方とも同じアンプであることに違いはなく、その用途も当然同じなわけだ。 そして、Aのアンプは非常に高級な回路や部品が使われているのに対し、Bは取り敢えず音が出ますといった作りだったとした場合、僕たちはこの2つのアンプを差別化して考える訳だ。 これらが同じ会社、同じシリーズのものならさしずめAはBの上級機と言う事になる。

  昔、白人達が泳いでいるプールに黒人が入った途端、蜘蛛の子を散らすように白人がそのプールから出てきたと謂った話があった。 結局の所、差別と謂う行為は被差別対象を同じカテゴリー、つまり同じ人間と考えた上で差別化を図ってる訳だ。 
  所がそれが区別と言う場合、自分たちとはまったく異質な物、いやもっと直接的に言えば、相手を人間と見なしていない事が考えられる。 相手を人間として見ていない、人格を認めてないんだから、自分の裸を見られても別に恥ずかしくも何とも無い。 いや、時にはまるでペットを可愛がるように大切にもするかも知れない。 オビはそんな何かを体験したか感じたか、それを僕に伝えたかったのかも知れない。

  この問題は勿論、イギリスやアメリカだけの事ではない筈だ。
この日本にだってあるし、世界のどの国へ行っても多かれ少なかれ存在するし、別に民族間でだけの問題でもなく、会社や学校、家庭でも存在する問題ではないだろうか?
  そしてこの国を眺めて見た場合、昔の虐めだの仲間はずれだの、村八部だのってのは何だかんだと言ってもその根本は差別、つまり、少なくとも相手を人間(同じ人格を持った)として対峙していたように思う。 所が、最近を見てみるとむしろ区別化に起因する虐めや更にエスカレートすれば殺人のような凶悪犯罪が増加して来ているように思う。

  会田雄次氏は西欧ヒューマニズムの起点、このような出来事の行動起点を牧畜社会の形成に被せて捉え、西欧の家畜管理に対する考え方があのアーロン収容所での捕虜管理に反映されていると考える。 この日本でもこのような西洋思想の流入によって、僕らの思考形態も知らず知らずの内に彼らの考え方が潜在意識の中に形作られているんだろうか? 更にPCやTVゲームの浸透が僕らの心の中のどっかに、人が人を区別するという感覚を植え付けているのかも知れない。

  誤解の無いように断っておくが、西洋人がすべてこのような考えであると考えるべきでは無いと思う。 戦争と言う特殊な環境の中にあって体験された事である事を忘れてはならない。 何れにせよ、相手の人格を認めないと言うことはとりも直さず、自分自身の人格をも否定する事にはならないだろうか? 


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