ツェーリンゲン噴水(ベルン)

 半地下のようになっているベルン駅を出ると街は静まりかえっていた。
霧雨が降る中、まるで死の街のよう静まりかえった街中に歩き出した。 もう深夜だと言うのに、建物がライトアップされていて不思議な空間の中を歩いている感じがする。 ちょっと歩くと右手に見覚えのある建物が見える。 見覚えがあると言っても、以前ここに来たことがある訳ではないが、ガイドブックやTVで見たことのある建物、(連邦議事堂)だ。 この街の大方の地理は分かっているとは謂え、この時は僕の頭に地図の事は何も無かった。 何かに取り憑かれたようにそのまま、真っ直ぐ歩いてくとこれまた見たことのある建物、スイスに来たら絶対に見たいと思っていたベルンの時計塔だ。 とぼとぼとこの時計塔を抜け、更に少し歩いた所に僕が何をおいても先に会いたいと思っていた物があった。
ツェーリンゲン噴水と時計塔

 右手に旗を持った甲冑姿の熊像。
まるで石畳の道路の上に浮かんでいるかのように見えるその姿が段々と大きくなり、像の斜め後ろまで来たとき、なぜか鳥肌が立つような緊張感に僕は襲われる。 何でもないただの噴水の上に建っている像だってのに・・・・・像の前に出るのが躊躇される緊張感、これって何なんや。

 僕が小さい頃、夜というのは魔物がうごめき回る恐怖の空間だった。 洲本には先山という、火山ではないが富士山に似た山があり、その山頂に千光寺というお寺がある。 僕が幼稚園に上がるかどうかの頃、このお寺に行った事があり、その時見た仁王像が天を突く大きな化け物に見えた。 祖母から、この仁王様は毎夜悪い子を探して町に降りてくると聞かされた僕は、このことを本当に信じていた時期がある。
 そんなある時、大きな台風が来て仁王像が風で飛ばされたのだろうか、仁王様が麓で見つかったという話を近所の人が話していたのを聞き、やっぱり仁王様は夜に動きまわるのだと言うことを確信、それと同時に、時には夜遅く帰る父が、きっと仁王様より強いからこんな時間に帰れるのだということも確信したのだった。

 そんな想いが僕の頭に浮かんでくる。
多分、昼間にでもこの像に出合っていたらこんな気持ちに駆られる事は無かっただろう。
所が、暗い街中で建物のライトアップのほのかな灯りが像を浮かび上がらせたこのような状況の中、この像が妙に艶めかしく生気を帯び(顔は甲冑で分からないにも拘わらず)、今にも動き出しそうな雰囲気を感じられる。 
 ちょっとした躊躇いの後、ゆっくり熊の前に歩き出す。
一歩二歩・・・・・振り返らず少し進んでからゆっくり振り返る。 鎧の下に隠された熊の表情は見えないものの、マスクに空けられたスリットの奥にある黒い陰(顔の部分)は僕に色んな表情を想像させてくれる。 まるで蛇に睨まれた蛙のように暫くそのまま、マスクに隠された彼の視線と睨めっこした後、ふと我に返った。 まずいまずい、霧雨とは言っても長いこと濡れれば風邪をひかないとも限らない。
 道路脇にあるアーケイドに入って、今晩ごろ寝する場所を決めなければいけない。
別にどこでも良いと言えばいいんだけど、早朝から人の行き来で起こされるのもたまらないから、少しは落ち着いた場所がいいに決まってる。  僕が歩いているのは旧市街の丁度真ん中を走っているマルクト通りと言う。 更にこの道を歩いていると川のせせらぎの音がしてきた。 そうそう、この先はアーレ川で、橋の向こうは新市街になっている。

 川に向かってとぼとぼ歩いていると、後ろから急に人の声がした。
振り返ると、イタリア人っぽいお兄さんが僕に話しかけてくる。 でも、何を言ってるのかさっぱり解らない。 ポカーンとしてると彼は、両手を合わせて左の耳元に持っていき頭を少し左に傾かせるジェスチャーをする。 そうか、寝るとこ無いのか?って聞いてるんやな。 僕はその時、何の疑いもなくこのお兄さんの家に泊めてもらう事にして、彼の後をついて行った。
 彼の家は、アーレ川を渡ってから暫く歩いた所にある、2階建てのテラスハウスのような所だった。
言われるまま家に入ると、白壁に黒の家具で統一されたシンプルな部屋に通された。 カウンターがあって、壁にはこのお兄さんのモノクロ写真がパネルにして掛けてある。 それにしても、カウンターの中はお酒が一杯飾ってある。 ザックを降ろすと、カウンターの椅子に座れと言う。 彼はカウンターに入って、何やら瓶を取り出してグラスに注いでくれる。 どうぞって仕草をしてくれるが、ジンだ・・・・・酒はアカン。 彼はもう一つグラスを出して、今度はジュースを入れて出してくれた。 僕に入れてくれたジンは彼が飲みながら、いろいろ話しかけて来る。 彼はウエイターをやってて、やっぱりイタリア人だってこと。 どうやらまだ独り身らしく、家の中に生活臭が感じられない。
 その内、風呂に入りなって言うので、お言葉に甘えて案内された風呂の着替室で服を脱ぎ始めると、何故か彼がやって来て彼まで服を脱ぎだした。 おいおい・・・・待てよっと、ここでやっと理解した。 僕は服を脱ぐのをやめて、脱いだ服をもう一度着始めた。 彼がなんだか話しかけて来たが「悪いな、僕そんな趣味はないねん。 帰るは。(帰るって、帰る家はこの街にはないんやけどね。)」。 僕の表情や言葉で理解したのか、彼も服をもう一度着てからさっきの部屋に戻り、僕はザックを背負って入り口の方に歩き出す。 彼は玄関を開けてくれ、一緒に外に出てから、こう行くんだと言ってるのか、戻る道を教えてくれる。 「悪いな。」と言って右手を軽く彼に向かって振ると、彼も手を上げてはいさいなら。 とんだ体験でした。 でも、結構楽しかったねえ、ああいう洗練された部屋って外国映画でしか見たことおまへんがな。

 来た道を辿って歩いてると、川のせせらぎが聞こえてきた。
橋まで辿り着くと、右手に小さな小屋がある。 何だろうと近寄ってみると、バス停らしい。 中は木のベンチが造り付けられているし、雨もかからない。 もうここでええか。 橋を渡れば旧市街でアーケード(回廊風の)があるからごろ寝する場所には困らないが、川のせせらぎ(と言っても結構うるさいが)が心地よいのでここでごろ寝を決め込む。 シュラフをザックから外して、ベンチの上に敷き、それに潜り込む。

アーレ川 旧市街と新市街(川向こう) ごろ寝したバス停

うとうとし始めた頃、雨が本降りになってきたが、幸い、小屋の中までは入ってこない。
川のせせらぎ(何度も書くけど、せせらぎと言うよりザーって音で、その正体は上の左端写真を見ると判ってもらえるかな。)と雨の音を子守歌に、そのまま意識は遠のいてゆく。 時々、ふっとあの熊(ツェーリンゲン噴水)が雨の中でこっちを見ている姿が頭を過ぎる。

 「寒いっ」
顔を差すような冷気を顔に感じて目覚めた。
外はまだ薄暗く、ちっちゃな電灯はまだ点いている。 「今日も曇りか。」
寝袋にくるまったままベンチの上で体を起こし、そのまま座る体勢にして暫くボーっとしてから、寝袋のファスナーを下ろす。 ザックを開けて、日本から持ってきた梅干しを一粒口に入れ小屋を出ると、両手を伸ばして大きなあくびをする。 寒いが、気持ちのいい朝だ。 相も変わらず、川からザーザーと絶え間なくおおきな音がする。
 どっからやって来たのか、ちょっと小太りで髭を生やしたおっさんが近づいてきて、なにやら僕に話しかけてくる。 日本人かいってのは判ったが、こっちは日本語で応対するがお互いちんぷんかんぷん。 なんだか、このおっさん、僕に説明してくれているようだが、言ってることが解らない。 すると、おっさん、ポケットから鍵の束のようなものを出してどっかへ歩いてく。 僕は小屋に戻ってザックに寝袋を括り付けていたが、どっかからおっさんが呼んでいるようだ。 「何処で呼んでるんだ?」と思いながら、小屋を出て道を渡ると、手摺りの下は・・・・・・なにやら動物園の獣舎のような空間がある。
 何やこれ?
と、おっさんが下の方で鉄の扉を開いている。
何やろ? と思ってると、このおっさんまた消えてしまった。 暫くして、おっさんが道に現れて僕に近寄ってくる。 下の方、さっき開けた扉を指さしてなんか言ってるが、そるとその扉からのそのそと現れたのは熊だ。 そうか、そうだった、何で気付かなかったんや。

 ベルンと言う街の名前の由来。
この街を築いたのはツェーリンゲン家(あの噴水の名前の由来になっている。)のベルヒトルト公で、この人が狩りをして、その狩りで最初に捕まえた動物の名前をこの街の名前にしようと言うことになったらしい。 かくて狩りは始まり、最初に捕まえたのが熊だったので、熊を街のシンボルとして、名前もその辺りから来ているという話。 その後、ベルンは発展しベルン州の州都ばかりでなくスイス連邦の首都になった。 スイスといえばジュネーブが首都だと思ってる人が多いが、実際に連邦議会があるのはこのベルンなのだ。
 こう考えると、なかなかいい場所で一夜を過ごしたもんだ。
それにしても、僕が寝ている場所の下あたりで何頭かの熊が寝ていたとは・・・・・ちょっと冷や汗ものだね。