ユングフラウ・ヨッホ
クライネシャディックにて


 習慣と言うのは恐ろしいもので、時差が9時間もあるヨーロッパに来ても毎朝5時には目が開く。 僕は毎朝牛乳配達のバイトをしてるので、日曜以外の朝は5時に起きるのが習慣になっている。 流石にパリでは5時に目が開く事はなかったけれど、スイスに来てからは日本での生活パターンに戻ったようだ。 せっかく目が覚めた事だし、散歩でもしてくるかとベッドから体を起こし、何気なく窓の方を見た途端、心臓が止まるかと思うような衝撃と感動が僕を襲う。
 窓一面にアルプスが写っている。
まるで向こうに大きな写真のパネルでもあるかのような見事な、いや、写真ではこれだけの表現など出来よう筈もない。 空は紺色に澄み渡り、昨日は雲がかかっていた山肌がくっきりと見える。 白く見える部分は昨日のような雲ではなく、雪に間違いない。 そして、雪の無い部分の山肌は青みがかったような色に偏色して見える。 「写真で見るアルプスの山肌も青味がかってたけど、ホンマや、ホンマにあんな風に見えるんや。」 生まれて初めて間近に見たスイスアルプスの片鱗・・・・もう言葉も出ない。 とっさに窓に駆け寄り、窓を開くと冷気が室内に入り込んできた。 「ここでこんなに凄い景色やのに、ユングフラウに登ったら一体どんな景色が拝めるんや。」 期待が囂々と沸き上がってくる。
 散歩に出る前にレセプションに行き、朝食後直ぐにチェックアウトしたいと伝えてから人気のない村を歩いて回った。 毎日牛乳配達で早朝の町を走り回っているが、早朝の空気ってのはいいもんだ。 まして、こんな高地の空気は夏場と言えども凛と引き締まっている。 ホテルに帰ってから早めの朝食。 クロワッサンにバターとジャム、それに紅茶といったシンプルな朝食だけれど、これがとってもいい。
 チェックアウトを済ませ、今日チェックインする予定のホテルに出掛けた。
時間が早いのでチェックインは出来ないが、荷物だけ預かって貰うことにした。 カメラと財布、貴重品だけ持ってすぐに駅へUターン。 時間を見るとまだ8時前。 いよいよユングフラウに向かって出発だ。

 インターラーケンから山岳鉄道(BOB)に乗ると、ツヴァイリュッチーネンで東のグリンデルワルトコースと西のラウターブルンネンコースに分かれると書いた。 それぞれの終着駅まではBOBなのだが、これらの村から更に山中に入る鉄道(両方ともクライネシャディックって、アイガーのトンネルに入る直前にある村が終着。)はWAB(ウエンゲン・アルプ鉄道)と言って、BOBとは性格の異なる鉄道になる。 実際、線路幅もBOBよりWABの方が狭く、更に急な斜面を登れるようにWABではラックレールによる駆動区間が殆どになるのだ。 つまり、BOBはどちらかと言えば生活圏内を走る山岳鉄道であるのに対して、WABは観光鉄道であり、ここからが本格的な登山鉄道になる訳だ。 グリンデルワルトもラウターブルンネンも、世界有数の観光地ではあるけれど、それはこれらの村を訪れる観光客からの視点でしかない。 これらの村に住む人達にとっては大切な、通勤や通学など毎日の生活に欠かせない村の鉄道なんだね。
 当然と言えば当然なんだけど、生活圏を走る鉄道の料金と、世界有数の観光地を走る観光鉄道ではその料金に大きな違いがある。 インターラーケン〜グリンデルワルト間がFr7だったのに比べ、グリンデルワルト〜ユングフラウ・ヨッホはFr52。 観光鉄道である事を考えても、これは結構高い。 と言って、ここまで来てユングフラウ・ヨッホへ行かない手はない。 ユーレイル・パスや学割について聞いてみたが、料金は変わらないようなので、やむなくチケットを買って登山列車に乗り込んだ。
 朝が早いと言うこともあってか、車内は半分も席が埋まっていないので余裕で窓際の席に座る。
これまで乗った通常の列車やBOBに比べても車内は狭いが、その狭さがいかにも登山列車っぽくて、これから始まる登山列車の小旅行への期待がいやが上にも膨れあがってくるね。

 約45分の快適なウエンゲン・アルプ鉄道乗車の後、列車はクライネシャディックに到着した。
ここから先は又、違う鉄道区間、JB(ユングフラウ鉄道)になるが、チケットはこの先も有効。 列車の乗り換えが必要になるが、ここは単なる乗り換え地点ではない。 なんせ、ここからでも景色が凄い。

ここで乗り換える 後ろの山はアイガー ちょっと危険な場所で・・・
 
 取り敢えずはユングフラウ・ヨッホへ行こうと、すぐにJBの列車に乗り込んだ。
列車がクライネシャディックを出ると程なくして、アイガーの山中に入る。 それまで明るかった車窓が暗くなり、今、あのアイガーの中をどんどん上昇していく。 この列車はアイガーからメンヒの地中を抜け、ちょうどメンヒとユングフラウの中点にあるユングフラウ・ヨッホを目指して走る訳だが、実はアイガーの中で一駅、往路だけ停車する駅がある。 アイガーヴァントと言う駅で、この駅には有名な窓がある。
 あのアイガーの岸壁にぽっかり開けられた小さな窓があるのだ。
列車が停止すると、僕はその窓目指して歩き始めた。 ヒンヤリした暗めの通路を歩いてくと四角い、小さなその窓はあった。 外から白い、目映い光が射し込む窓に近づくと冷たい冷気を顔に感じる。 何と、窓にはガラスが填め込んでない・・・・・・・少しだけ顔を出せそうなので、下を除いてみると、これはもう直角の岸壁の土手っ腹に空いた窓だって事が分かる。 (今はガラスが填め込まれているらしいが。)
列車の停車時間は短いので直ぐに列車に戻る。
 
 人間が一番恐怖を感じる高さは15mだと言われる。
これより高くなると、頭の物差しが狂ってしまうのか、逆に恐怖間が麻痺してしまい高さを思った程には感じなくなるそうだ。 ユングフラウ・ヨッホの展望台(3573m)に立ったとき、そんな言葉を思い出した。
 目前に広がるメンヒ、アイガー、ユングフラウの三山の他、ブライトホルン、シュレックホルン・・・・遠くにはマッターホルンも見える筈だが。 それより何より、展望台正面に広がる大きな氷河、このアレッチ氷河は幅1.9Kmもある筈なのに、見た感じは以外に小さく感じる。 さあ、写真をとカメラを構えて初めてその雄大さを実感する。 なっ、なんと、氷河がカメラのフレームに入りきらない。 なんせ、50mmの標準レンズしか持っていないので、展望台の一番後ろまで下がっても、そんな程度ではマグマに水。 眼下や遠くでスキーしている人を見て、またまたそのスケールを実感する始末。
 それにしても、ユングフラウ・ヨッホは流石に寒い。
だいたい三千m以上の高山にジーバンにTシャツ、軽いジャケットを羽織ってサンダル履きで登ってきたんだから寒くない方がおかしい。 この格好のままでアイスパレスと呼ばれる、氷河をくり抜いて作ったトンネルへ行ったり、あっちの展望台へ行ったり・・・・でも、途中、通過する崖っぷちに付けられた露天の通路や階段には氷がびっしりついていて、しかも、遙か下の方から冷たい風が吹き上げてくるわ、高さに驚くは。(これも、今は安全に快適になっているようだけど。) お陰で、氷に滑って転倒してしまった。 近くにいた人が、僕を抱き起こしてくれた。 寒さに負けてユングフラウ・ヨッホ駅に戻り、この世界最高点の駅から絵葉書を出そうと、両親や友人の分を買い早速、この記念すべき日の事を簡単に書いて、小さな郵便局から投函した。


スキーやってるのが分かる? アレッチ氷河 この谷の底にグリンデルワルトが

 帰りはクライネシャディックへ立ち寄った。
驚いたねえ、何処にこんなに人がいたんだろうと思うほど多くの人がいる。 やっぱり、さっきは朝早かったからなのだろう。 列車を降りて幾つか建っているホテルなどの建物の方に歩いて行くと、どこからかアルペンホルンの音がしてきた。 早足で音のする方に行ってみると、爺さんと、いやおじさんと小さな子供がアルペンホルンを吹いている。 暫く、ホルンの音に聞き入っていると、その内、谷間の方からカウベルの「カランコロン」って、実にゆったりした音が響いている事に気が付いた。 近くの斜面に放牧されている牛の首に付けられた大きなカウベルの音だ。 どのカウベルも微妙に音が違って、その音でどの牛か分かるのだってな事を、『兼高かおる世界の旅』で言ってた事を思い出した。 目前のアルプス(アイガー)の景色と、このカウベルやアルペンホルンの音を聞いているとスイスに来てるんだって事を実感するね。 
 二人がアルペンホルンを吹いているその奥の方に行くと、木造の小さな小屋があって、その中からなにやらいい匂いがしてくる。 近づくと、その小屋のなかで民族衣装を付けた人達が肉を焼いているようだ。 ええなあ・・・・腹減ったけど、ここで昼食したんじゃあお金が持たない。 我慢我慢。
 ※ 東京に住んでいた頃の話になるが、この時アルペンホルンを吹いていた2人とTVで再会する事に なる。 何気なく見ていたTVのコマーシャル・・・・「おやっ」。 爺さんと、いい年に成長した若者が二人でアルペンホルンを吹いている。 チョコレートのCFだったと思うが、年月こそ過ぎたとは言え、クライネシャディックで見た二人に間違いない。 場所も、多分、あの場所の筈だ。

 グリンデルワルトに戻った僕は昨日のように、村の周辺を散歩してその日を過ごした。
予算があれば、この村からロープウエイで幾らでも行く所があるし、あのクライネシャディックからミューレン(登山鉄道から見えた)やラウターブルンネンに出掛ける事も出来たが、今回は仕方がない。 もっとも、このグリンデルワルト近辺の散策は楽しいもので、飽きが来ない。 村内の小道やハイキング道には観光客も少なく、地元の人やハイキング客は昨日のようにみんな声をかけてくれる。 時々、山の方から「ゴー」と言う音がしてくる。 初めは何かと思っていたが、、やがてその音が雪崩である事が判った。 何と、シュレックホルンの山肌に載っかっていた雪が、まるで滝のように崩れるのを間近に見えたからだ。
 夕方、あの教会近くを歩いていると、ぼくのようにキスリングザックを担いだお兄さんに話しかけられた。
髭を生やしたこのお兄さん、大学生なんだろうか? ユースホステルの場所を聞かれたので、連れてったげると言う仕草をすると、彼は両手を合掌して軽く頭を下げた。 彼の話では、彼はドイツ人で、夏休みを利用して旅をしているらしい。 ユースに着くと、何と出迎えてくれたのは3人の日本人だった。
 僕もユースの会員証はこの旅に出る前に作ってはいたが、どうも利用する気にはなれなかった。
何故かって、それは自分の泊まる所くらい、自分の目で見て決めたいと言うのが最大の理由だろうか。 だから、たまたまユースの前を通りかかって、そこが気に入れば利用することもあると思うが、初めからユースを探して旅するというのには抵抗があるし、本当にお金に困れば野宿すればいいだけの事だ。
勿論、ユースに行けば色んな情報交換も出来るだろうけれど、僕はそれ程情報交換に飢えていた訳でも無い。 

さあ、明日はマッターホルンに会いにツェルマットに行こうか。