出 発

1978年3月13日 午前7次40分 快晴

「ホテルはちゃんと予約してあるの?」
「赤ちゃん連れなのだから、野宿なんて考えないでね。」

 心配そうな顔つきでフェーバライト夫妻が僕等を見送ってくれた。
僕等の長女を、まるで孫のように可愛がってくれるフェーバライト夫妻のことだから、僕が背負っているキスリングザックに結わえられた、ペアの寝袋が気になったのだろう。 今回の旅では宿こそ予約していないものの、寝袋を使うつもりなどない。 ただ、どんな事があるか予想できないし、寝袋があるだけで何かと重宝する場合もあるので、ザックに結わえてあるだけだ。
 フラットの門前で手を振る夫妻を後に、僕等はクリーブロードをフィンチリーロード駅に向かって歩き出した。今回の旅は1週間程度を予定しているので、キスリングザックを背負っているのは僕だけで、家内は小さなナップザックを背負い、長女が乗ったバギーを押している。 
 今回の旅は前回のオランダの旅同様、列車とフェリーを使う。
きょうは、ヴィクトリア駅から列車でドーバーへ出て、ベルギーのオステンドまでフェリーで渡り、再び列車に乗ってブルージュまで行く予定。

 地下鉄を使えば確実に早くヴィクトリア駅に行けるが、僕はレッドバスパスを持っているし、地下鉄だと乗り換えが煩わしい。 その点、レッドバスならフィンチリーロードからヴィクトリア駅の近くまで2番か2B番のバスで直通だ。 ただ、このレッドバス、殆どの幹線では5〜10分おきにやって来るはずが、来ないときは半時間も、いや運が悪ければ1時間近く来ないなどと言う、信じられない運行状態ときている。 そして、やっと来たとなると、なんと3台も4台も連なって来る、それも同じ行く先のがね。 列車の時間までまだまだ十分に余裕がありながら、こんなに早くフラットを出たのにはそんな訳がある。
 そんな事も考慮して早く出かけた時に限って、頼みもしないのに直ぐにやって来るものだ。
僕等がバス停に着くのを待っていたかのように、2番のバスが僕等の前に止まった。
家内がバギーから長女を抱き上げると、僕は素早くそのバギーをたたんで手に持つ。 いつもならアッパーデッキに上がる僕だけれど、長女を連れているときはそうも行かないので、低い天井のローワーデッキに席を取る。

 ヴィクトリア駅に着くと、早速インターレイルのチケットオフィスへ。
以前は、スチューデント・トレインだのスチューデント・フライトだのと言って、学生証を見せて半額のチケットを買っていたが、制度が変わり、現在は27歳以下なら半額のチケットが買えるようになっている。 ブルージュまでの片道券を2枚購入。 一人£19.80。
 時刻表を見ると、

9:44ロンドン発(ヴィクトリア駅)
11:10ドーバー着、11:40ドーバーマリーン発(フェリー)
16:15オステンド着 
16:40オステンド発
17:00ブルージュ着

ホテルの予約はしていないので、この旅程で行けば、夕方になってから宿探しをしなければならない。
赤ん坊を連れての旅である事を考えると、一抹の不安がないでもないが、オフシーズンでもあるし、ここは何とかなるだろう。 いや、ある程度予算に余裕があれば、赤ん坊を連れているから、ホテルの予約をしていないから、などということは何の不安要素にもならない。 僕の不安と言うのは、この赤ん坊を連れて安ホテルを探し回らねばならないと言うことだ。 もし、ブルージュが悪天候だったら、雨の中、安ホテルを探し回ることも考えておかねばならない。
まあ、取り越し苦労をしても仕方ない。
 


ロンドン〜ブルージュ

ベルギー車両内で

シーズン外れのためか、列車はがら空きだった。 お陰で、コンパートメントには僕ら3人だけで、僕が窓際、家内がドア側に座り、娘はバギーに乗せたまま家内の方を向けて座らせた。  僕と家内は向かいのシートに足を投げ出してリラックスモード。 
 ほぼ定刻に列車はゆっくりと、駅から離れだした。
少しは見慣れた田園風景の中を列車は快調に走り、やがてドーバーのホームに滑り込んだ。 この様子だと、フェリーでもゆったりと過ごせそうだ。

 今回乗るのはベルギーの船。
どうやら、これまで乗ったフランスや英国のフェリーよりは新しいらしい。 実際、船室に入ってみると、椅子がベンチ式でなくて個別な上にソファーのようで、肘掛けまで付いている。 これは快適やね、とその時は思ったのだが・・・
 席を決めると、家内は娘に昼食を摂らせると言うので、その間僕は毎度恒例の船内探検に。 船が離岸する時はやっぱりね、デッキから岸壁を眺めてなければ、船に乗った気がしないから。 
 席に戻って休んでいると、なんだか腰から下の方が結構冷えてきた。 前の方から冷風が吹いてくる。 ベンチシートではないので、椅子と椅子の隙間を冷たい風が通っているようだ。 娘のバギーのカバーを掛けて風が当たらないようにして、僕らの方は我慢我慢。 寝袋を腰から下にかけるって方法もあるが、眠る訳でもないからこれで我慢することにした。

 オステンドはフランスのカレーから直線で70Km程東によったリゾート地で、ここは勿論、フランスではなくベルギー。 入国審査は、あの英国とは違い随分簡単に済んでしまう。 これは、こっちの大陸に来るとき、また、大陸を旅するときにいつも感じることだね。 まあ、一部の国で厳しいところもあるようだけど、おおむね英国に比べれば随分簡単だった。
さて、このオステンドに上陸すれば今日の目的地、ブルージュは目と鼻の先。


真夜中の訪問者

 いやー、こりゃ高いなあ。
バルセロナのように古くて狭い街並みの中、安ホテルを探しながら歩き回るがとにかくどこも高い。 1泊食事付きで700BF(当時の換算レートで約\4,900/2人)程度を考えていたが、そんな安宿見つからない。 街中のホテルは外面が古そうで高級そうでなくても、中に入ると結構高級だったりする。

 1時間も歩き回った末、結局1泊920BFのホテルで手を打つことにする。
ちょっとビジネスホテル風のフロントでチェックインを済ませると、フロントの中にいたちょっと小太りのおっさんが部屋まで案内してくれる。 エレベーターに乗り、それから結構歩かされた先、そこはどうやら建物の端の方なんだろうか? なんだか別館のような感じの場所が僕らの部屋のようだ。 それにしても、このホテル、宿泊客がいるんだろうか? 途中、一度も人の姿を見なかったのだけれどなあ。
 部屋は結構広くて清潔なようだ。
ねぐらが見つかったところで、まずは食事。 なにせ、安ホテルを探すためにまだ夕食にありついていない。 どっかのレストランで食事をと思ったが、結局、パンやジュースを買って来てホテルの部屋で食べる事にした。 買い出しのついでに、街中で開いているショッピングセンター?に立ち寄り、ブルージュ特産のレースを見たり、それから、娘の遊び相手にビニールで出来たウサギのオモチャを買ったりと(日本製だった)、腹が減ってる筈だけど、ねぐらが決まってしまえばもうこっちのもの。 急に気が楽になって、なんだかこのままホテルへ帰るのが勿体ないような・・・・と、僕らは楽しくても娘は空腹の筈。 さっそと戻って食事にしよう。
 ホテルのレストランで湯をもらって部屋に帰る。
娘は母乳で育てて来たんだけど、もうある程度堅い物でも食べられるし、旅先という事もあってほ乳瓶を持ってきていた。 これに粉ミルクとぬるま湯を入れて飲ませる。 湯をもらったのはそのためだ。

 今日の行動自体で疲れるようなことは何も無かった筈だけど、やっぱり乳児連れでホテル探しをしたためか、なんだか気疲れしたようだ。 シャワーを浴びて早く寝ることにした。
 ベッドに入るとそのまま熟睡、した筈が、なにやらガチャガチャという物音で目が覚めた。 時計を見ると夜中の2時半頃じゃないか。 横で寝ていた家内もこの音に起こされたようだ。
「こんな時間になに?」
「なにって、誰かがドア開けようとしとるんやろ。」
 そういえば、このホテルの中で一度も客らしい人影を見ていない。
フロントで各部屋の鍵保管箱を見た時、幾つかの部屋の鍵が無かったので、まあ、何組かは泊まり客がいるだろうけれどね、まさか、ホテルぐるみの悪徳宿ちゃうやろなあ。
 
 この部屋のドアノブは両方からキーを差し込むタイプだった。
キーには重いおもりのようなホルダーが付いている。 部屋の中からキーを鍵穴に差しておけば、外からキーを差そうとしても差せない、と言う話を聞いたことがあって、この日もそのようにしてベッドに入ったのだが、どうやら、これが役に立っているようだ。
キーに付いたこの重いおもりは、万一、外からキーを差し込まれても、部屋側のキーが押し出されないようにするためのもの。 つまり、てこの応用で、部屋側のキーは鍵穴の中で突っ張ってくれてるお陰でそう簡単には抜けないってことか。
 静かにベッドから出た僕は忍び足でドアの方、つまりそのガチャガチャ音の方に歩き出した。 確かに誰かが外から僕らの部屋の鍵を開けようとしている。 家内は電話の受話器に手をかけ、いつでもフロントを呼び出せる体制をとっている。 準備万端。
 少し大きめの声でドアに向かって僕が叫ぶ。
「誰やこんな夜中に・・・・Who's that?」 っと、ドアの向こう側を起点に、足音が遠ざかっていく、それも早足で。 このドアの向こうの奴、相当焦ったのだろう、途中で足が絡んだのか、足音のテンポが一度乱れ、それからまた早足で立ち去っていく。

 こんな夜中にフロントに電話したところで返事はなかっただろうな。
「泥棒だろうか? だったら、鍵を開けようとした位だからホテルの従業員?」
いや、その程度ならいいけど、ロンドンで聞かされたある噂話が僕の頭をよぎる。
 それは、ある日本人の新婚旅行での話。
花のパリにやってきて、デパートで買い物をしていたとか。 新婦が服の試着だったか、それともトイレだったかへ入ったので、旦那は外で待っていた。 ところが、待てど暮らせどその新婦が出てこない。 係員に言って探してもらったが結局見つからず、その後、旦那は何度となくパリへ新婦捜しに出かけるが見つからない。
 それから何年か後?だったかな、その旦那は香港のとある見せ物小屋で妻と悲劇的な出会いをする事になる。 勿論、そんな事があれば大変な問題で、大々的なニュースになったろうから、作り話なんだろうけれど、こんな事があると妙に信憑性を帯びて僕の頭をよぎってしまう。
 
 念のためソファを扉にくっつけて置き、結局僕は朝まで眠ることなく起きていた。
一人の時なら別に気にもとめない事でも、今は守らねばならない妻と子供がいる事を考えると、その責任の重さをずっしりと感じた一夜となった。

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