仕事探し

 昨日予約を入れておいたヒルブロウホテルまで徒歩で移動し、チェックインで約束の1週間分の宿泊料を支払った。 ホテルはインド人の家族経営らしく、小さいが清潔で、何はさておき部屋が広く大きな窓が付いているのがいい。 しかも、ケンジントンガーデンや地下鉄セントラルラインのクイーンズウエイ駅まで歩いて数分の距離だ。
 取り敢えずの宿は確保したが、僕の持ち金は既に底をつきかけている。
もう少し勉強でもして僕に大学へ行く気があるなら、そして両親からの仕送りにたよる気があったなら、大学へ進学してから休学して、お金の心配もせずにイギリスへ遊学することも出来たろうけれど、少なくとも自分の勝手で飛び出した僕にとって、片足で家計を支えている父に学費負担、ましてや生活費や旅費の負担を頼む事が出来なかった。 もっとも、なんの気兼ねなく勝手に自分のやりたいことを、自分の力でやってみたかったと言うのが最大理由。 そうである以上、何が何でもここで仕事を見付けて、何年か生活出来る生活基盤を作らねばならない。

ピカデリーのエロス像
 仕事を探すと言っても、まずこの街に慣れなければならない。
と言うことで、お金も無いのに最初の3日程は徒歩で市内を散々散策し、帰りは地下鉄かバスで帰るような日を送った。 その合間にめぼしいレストランに当たりを付けておく。(別にドロボーに入ろうと言うのじゃない。)
 丁度3日目、ロンドンの目抜き通りの一つであるオックスフォード通りからマーブルアーチを抜けて、ベーズウオーター通りに入り、ここからハイドパーク内をケンジントンガーデンに向かって歩いていると、正面から日本人とおぼしき2人の男性が歩いて来る。 「今日は」と何気ない挨拶のあと、何がきっかけだったか話が始まった。 話の中で、彼らが僕と同じホテルに泊まっていること、一人はカナダで国際経済学とやらを学んでの帰り、此処で休暇を過ごしていること、もう一人はニューヨーク在住だった画家で、日本に帰国する途中、ここでやはり休暇を楽しんでいると言うことなどがわかった。 
 以後、僕は毎日のようにレストランを一軒一軒当たり、バイトさせてくれる場所を探して回ったがそう簡単に見つかる筈もなく、このままだとセントポールのユースに移るしかないかと、ある程度覚悟を決め出したある日、ピカデリー近くの中近東系ステーキハウスで皿洗いのバイトが見つかった。 ピカデリーは数少ないロンドンの歓楽街の中心にあり、丁度ロータリーのようになったピカデリーサーカスにあるエロス像は旅行者やヒッピーのたまり場になっていて、僕も時折ここでポカーンとしていることがあった。
 仕事は単純な皿洗いで、給料は週休制で僕の場合£14.00/weekだ。
更に、客の置いていったチップは皆で分けるので、それが週に£3〜5になるという。
朝食はホテル代に入っているし、他の食事は夕方4時から夜の10時迄の勤務時間中にレストランで用意してくれる。 これで、レストランが休みの日曜以外は飢えずに済みそうだ。 しかし、このバイト代では交通費や他の費用が出てこない。 6ヶ月のビザは貰ったものの、確実に次の滞在許可延長を得るには学校に通って、フルタイム(週15時間)授業を受けている証明が必要なのだ。
 ホテルに帰って、マネージャー(ホテルの親父)に相談したところ、「このホテルは学生なら学生料金が適用出来るが、お前はその為の学費を稼ぐって言うんだな」と言ったような前置きの後、「それなら早くフラットを探した方がいい。 それまでは1日£1.80にしてあげる」と言う・・・勿論想像だけど。 やっと仕事を見付けたと思ったら今度はフラット探しだ。 気ままな放浪旅行の方がどれ程気楽なことか。 その日の夜、例の2人の日本人に仕事が決まった事を話すと、お祝いに夕食をご馳走してくれると言う。

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出逢い

 処で、このロンドンには僕より先にこの街に来て暮らしている女性がいる。
話は僕が高校二年の頃に遡るが、ヨーロッパについての情報収集や交換をしていた中で、雑誌『旅』の読者欄を通して北海道の小樽に住むある女性(大学生)と文通するようになった。 そして、僕がロンドンに行く事を知らせると、彼女のクラブの先輩もオペア制度を利用してロンドンに行くので、ぜひ会うようにと教えられた。 その女性はその時は九州の国東でユースホステルのヘルパーをしており、国東にいるその女性から絵葉書を貰ったが、その後彼女はすぐにロシア経由でロンドンに発った。
 仕事を始めて1週間が過ぎ、初めての給料を貰った事でギリギリとは言え、何とか生活できる目処が付いた。 この女性からの葉書や手紙に何とはなしに惹かれるものを感じていた僕は、最初の休みを利用して彼女の家を尋ねることにした。 地下鉄のクインズウエイ駅からセントラルラインでオックスフォードサーカスまで行き、ここでベーカールーラインに乗り換えて北に向かう。 僕はホテルから勤めるレストランに行くのに、ここまでは同じルートを使っているが、今日は南のピカデリー方向ではなく北へと向かう。 すでにお馴染みとなった、ベーカールーラインの、まるで日本のポストを横に倒したような、ワインレッドの可愛らしい車体が凄い音を立てながらホームに滑り込んできた。

 ロンドンの地下鉄はとても歴史が長く、日本で初の陸蒸気が走る頃にはすでに開通していた。
何せ、始めは馬車が走っていたと言うのだから驚きだ。 それから、日本のように上から穴を掘って、後で埋めるのでなく、こちらは本当にトンネルを掘って造るので、穴が結構狭く、特にベーカールーラインは車体までとてもこじんまりしている。 この狭い穴は車体ギリギリに掘られていて、電車が走ると空気を押して行って、駅の通路へこの空気押し込み、強制換気している・・・といった事を聞いた事がある。 ちょうど、空気鉄砲の原理か。 そう言えば、電車が来るとビューと強い風が列車の来る方向から吹いてくる。 因みに、このチューブのようなトンネルの中を電車が走る訳だが、地下鉄の事を英国語でチューブとも言う。 電車はメトロの様に1等や2等の差別は無いが、喫煙車と禁煙車に分かれていて、喫煙車に乗ると床にタバコの吸い殻が結構落ちていて汚い(特にこのラインは)。 おまけに、このラインの車体の床は木なので、所々焼けこげている場合すらあるから凄い。

 僕はいつものように喫煙車に乗って、がら空きのシートに腰掛けた。
別にタバコを吸うからと言うのではない。 何故かこちらの方が人間臭くて好きなだけなのだ。
コナンドイルの小説、シャーロックホームズで有名なベーカーストリート駅を越えその先のスイスコテージ駅が近そうなので、この駅で下車。 ホームに出て地上へのエスカレーターに乗ると、何と木製で、ギシギシいいながら頼り無さそうに動いている。 金属で出来た静かでスムースなモノに比べ、何とも頼りない動きではあるが、何故か親しみのある優しさを感じてしまう。 「ロンドンってこんな優しさがあるよな。」なんて勝手に考える。
 駅を出るとそこは、この1週間見慣れたロンドンの街並みとはひと味違う。
「結構田舎に来たなあ。」  早速、一寸前に買ったばかりのストリートファインダーと言う、ロンドンの地図帳を取り出して、この辺りのページを開く。 日本とは違って殆どの通りに名前が付いているので、何丁目何番地だの訳の解らない表記が無いため、非常に解りやすい。 この地図帳、というより本にはロンドンの全ての通りが出ているので、これを頼りに歩く分にはまず道に迷う事はあり得ない。 僕は地図片手に歩き回るのを好まないので、普通は方向確認程度にしか使わないが、今回はそんなこともやってられない。 自分の位置を確認してから、進むべきルートを確認してさあ出発。
 さっき見た地図を頭に浮かべながら、ゆっくりと一つ一つの通りを確認しながら目的の方へ進んでいく。 ゆったりとスペースを確保された歩道、緑に覆われた木々の間から煉瓦造りの家々を見ながら、少し坂を登るとちょうど十字路の所に3階建の立派な家が現れた。 数えてきた番地からそこが彼女がお世話になっている家の筈だ。
後ろの家はストラウス家

 その家の玄関まで来た僕は、その家が彼女がいるストラウス家である事を確かめた後、何の躊躇もなくベルを押した。 まるで外からの来客を拒否するかのような、大きくて分厚い扉が開き、中からガウンを着て右手にパイプを持った中年過ぎのおじさんが出てきた。
「May I see Miss ・・・・・・・・?」 覚えたてのフレーズをこのおじさんに言うと、そのおじさんは奥にいる夫人とおぼしき人になにか伝え、僕に裏口に回るように言っているようだ。 
 言われた通り、裏の勝手口のような所にまわって待っていると、扉が開き一人の小柄な女性が出てきた。 Gパンをはき、ブルーのカッターを着た彼女は僕を見るなり、両手を自分の口に当て驚いた仕草をする。 無理もない、僕がロンドンに着いてからまだ一度も彼女には連絡をとっていなかったのだから。           
「ちょっと待って。」と言って彼女は再び家の中に消え、直ぐに又出てきた。         
 散歩をしようと言うことで歩き始めた。
彼女の住む家はスイスコテージではなく、その先のフィンチリーロードと言う駅の方が近いらしく、僕達は少し歩くとこの通りに出た。 僕達は丁度地下鉄が通っているその上あたりを、色々話しながらぶらぶらと歩いて行く。 何度か長い手紙のやりとりをしていた事もあって、初めて会った気がしない。 ロシア経由のこと、パリのこと、そしてロンドンのことや、僕達を引き合わせてくれた彼女の後輩のこと・・・・・セントジョーンズウッドを越えリージェント公園を越え、ベーカー街からオックスフォード通り、ピカデリーサーカスを経てセントジェームズ公園に出た。 途中、ウインピーと言うファストフード店で簡単な昼食はしたものの、殆ど歩きながら話しずくめで一日が過ぎて行った。
 時計の針が6時を指す頃、僕達は地下鉄でそれぞれの家に帰ることにして、トラファルガー・スクエアの駅に向かって歩き出した。 「今度ロンドン塔に行かない?」彼女が尋ねてくる。 「次の日曜な」僕が答える。 初めて会ったばかりであるのに、何故か彼女に惹かれた僕は軽く彼女の言葉に頷くと共に、何故か「彼女と結婚するかも知れない」と言った予感のようなものを感じた。
 彼女と別れてホテルに帰った僕の頭には、今までに味わったことの無い不思議な感情が渦巻いていた。 彼女はもうとても古くからの友人のような、そしてお姉さんであり妹のような、そう、まるで空気のように、僕が気付かない内に僕の心の何処かに潜んでいたような、そんな懐かしさを感じる。

 因みに、この次の週に出掛けたロンドン塔、僕達はトラファルガー・スクエア駅で待ち合わせ、そこからロンドン塔まで徒歩で行くことにした。 もともと知らない街を歩くのが好きな上、お金も無かった、再び機関銃の連射のように色んな話をしながら僕達はロンドン塔に到着した。 
 ロンドン塔と言っても別に東京タワーのようなタワーがある訳じゃない。 
薄学の僕がここで観光書やロンドン案内書を引っ張り出して、その歴史や謂われを書いても無意味なので、一言で書くと中世の城で英国王室にとっても非常に重要な場所。 カラフルな制服を着たヨーメンと呼ばれる守衛や中で公開されているお宝のイメージとは裏腹に、この城にまつわる幽閉話や殺害話が、スイスのレマン湖畔にあるシオン城で見たバイロンが幽閉されていた部屋のイメージを思い起こさせる。

ロンドン塔をタワー・ブリッジから見る タワー・ブリッジ

 それはさておき、どうにか辿り着いたロンドン塔。
中に入る前に一休みしようと、テームズ河の方を向いて設置されているベンチに座り、まずは休憩。 左斜め向こうにはタワーブリッジが見え、正面やや右よりには巡洋艦ベルファストが係留されている。 ロンドン塔よりベルファストの方が良かったかな・・・・などといらん考えをしていたその時、僕らの後ろの方でボンという鈍いこもった音が聞こえて来た。 いくら僕が、ベルファストのノルマンディー上陸作戦に参加している様子に想いを馳せている時とは言え、僕の想像力で聞こえて来た音にしては現実味を帯び過ぎている。
 中学生の頃、僕や僕の友達はプラモ以外にモデルガンにも凝っていた。
当時4000円程の金属ガンを買っては、火薬を詰めて打つことがよくあった。 時には、通常の2倍、3倍も火薬を入れてガンを壊す事もあったが、この手の音にはある程度慣れている。
 少しすると救急車やパトカーのサイレンの音、そして空にはけたたましい音を僕らに浴びせかけながら飛び回る複数のヘリコプター。 ロンドン塔の、まさに僕らが入る筈だった入り口からは薄黄色い煙が噴き出して来る。 「時限爆弾か。」 「銃撃戦の可能性は?」とっさに当たりの様子を伺うと、狙撃や突撃班の姿は見えず、レスキューが塔内へ飛び込んで行くのが見える。 「赤軍か?」「英国だったらIRAかな?」そんな話をしながら、暫くはその顛末をベンチから眺めていた。 もし、ベンチで休まずに中に入っていたら、おそらく今頃は担架で運び出され、救急車で即、病院行きか、四角い箱に入って日本に送り返されていた事だろう。 結局僕達はロンドン塔には入れないまま、地下鉄で帰路についた。

 この事件はIRAの仕掛けた時限爆弾である事を翌日、レストランのシェフに教えられた。
たった一発の(音は複数聞こえたので単発で無かったと思うが。)爆弾でこれだけの騒ぎになる。
もし、目前のベルファストの主砲が火を噴き、その弾が僕らの頭上に雨霰と降り注いで来たとしたらどうだろう。 軍艦も戦闘機もタンクも好きだが、やっぱりこれらはプラモで作っているのが一番いい。 
 
 
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ステーキハウスと日本料理店

 ステーキハウスでの僕の仕事は皿洗い。
レストランに行くとまず紺色の上着を着て、同じ色の小さなエプロンを付ける。
シェフも同じような格好をしているが、頭には黄門様がかぶっているような、あんな帽子をかぶっている。 着替えが終わると後は皿が戻ってくるまで何も仕事は無い。 忙しく飛び回っているのはシェフ達の方で、僕ともう一人いる皿洗いはのんびりしたもんだ。 ぼくの相棒はターキッシュ(この当時ターキッシュと言うのが何人の事か解らなかった・・・・ターキッシュとして理解していた。)の優男だった。 
 皿と言えばディッシュと覚えていた僕は、プレインプレートやらソーサーやら、ディッシュやらと教えられ、我が学生時代の不勉強ぶりにちょっとは反省してみたものの、やっぱり実践での経験とは凄いもので1回の説明で覚えてしまう。 これが学校の教室で教えられたものなら間違いなく、次の日にはもう忘れている筈のものだ。
 シェフはレストランが開くまでに幾つかのメニューを作ってしまい、これをステンレス製のホットプレートのような物の上にどんどん並べていく。 客が来て注文を受けると、テーブルに持っていく前に一度レンジに入れて軽く暖める。 客に出す前に皿を素手で持てるようじゃダメだ、と言うのがシェフの口癖。  訳の解らん中近東風の鼻歌を歌いながら身軽に厨房内を飛び回る。
 夕食は交代で採るが、順番が来ると仕事着を脱いで客席へ行く。
すると仲間のウエイターがやって来て注文を聞いてくれる。 出てくる食事はたいがい、客よりボリュームがあって、日替わりの従業員向けメニューが1品余分に着いてくる。 コーヒー飲んでさあ仕事・・・と立ち上がると、時間が早かったり、洗うべき皿が貯まっていないと、ウエイターがまだいいよって、合図を送ってくれる。 これではあまりにも申し訳ないと、合間に掃除でもしようとすると「それは君の仕事じゃない」・・・・って逆に注意される始末。 ある日シェフ曰く(そう云っているとの想像だが)「俺はシェフでシェフとしての給料をもらっているし、ウエイターはウエイターの給料を貰っている。 お前は皿洗いが仕事で、その仕事に対してボスは給料を払う。 だから、それ以外の事をする必要はない。 お前が他の仕事に手を出すと云うことは、その仕事をしている人間の仕事を奪う事になるんだぜ。」 成る程納得。

 仕事は順調に楽しくこなしていたが、やはり持ち金が少ないのでは何も出来ない。
先ずは学費を何とかしなければならない。 それにはフルタイムで働ける仕事先を探すことだ。 そんなことを考えていたある日、例の二人の日本人が「僕らが時々行く日本料理店で、フルタイムの皿洗いを探している」と教えてくれた。 ピカデリーサーカス近くにあるHと云う料理店だそうだ。 僕は仕事を探す時、日本関連のレストランは当たっていなかった。 折角ロンドン迄来てそれでは意味がないと考えていたからだが、現状では何でもいいからフルタイムで働いて取り敢えずお金を貯めるのが先だ。
 結局、ステーキハウスは1ヶ月でやめ、この日本料理店で今度は働く事にした。
午前10時〜3時と午後5時〜10時のフルタイム制で、週1日の休みと、日曜の午後は休み。 これで週£21.00にチップが£6位プラスされる。 時給で考えるとあまりいい条件では無かったが、収入が増える事が魅力。
 いざ働きだしてみると、前のステーキハウスとは大違いで、掃除、皿洗い、簡単なメニューの盛りつけ、仕込みと何でもやらせて貰える。 別世界かと思うくらい忙しいが、仕事の面白さは俄然こっちだ。 僕は言われない事まで自分で仕事を見付けて先々やる事の重要さと面白さをここで教えてもらった。 それに、包丁も使わせてくれたので、ここにいた半年で実に多くの事を学び、その事が後に働く事になったイギリス人経営のレストランで大きく評価され、何故か昼間の厨房を任せられるようになる。(仕込みはシェフが全部やってくれるが・・・・・) その話はまた後で書こう。
 
 
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フラット探し

フルタイムで仕事を始めて見ると、流石にお金を貯める余裕が出来てきた。
何しろ、朝食はホテル代に込みだし、レストランで食事は出るから、普通に暮らしている分にはお金を使う必要性が無い。 そこで、フラット探しをレストランの休み時間を利用してすることにした。
 ヒルブロウホテルの親父に教えて貰ったStudent Accommodationに行ってみる。
オックスフォード・サーカスの裏手にあるこの組織は、学生のための援助機関らしいが、別に学生で無くても若ければフラットの紹介もしてくれると言うので出かけてみることにした。 僕が働いているピカデリーからだと、リージェント通りを北に進めばすぐに着く。 
 建物の中に入ると一室に通され、そこには年の頃なら55〜6のおばさんが窓を背に机に向かって座っている。 人なつっこそうな笑顔の中に、どこかキリッとした隙の無さを感じるようなおばさんだ。 「おかけなさい」僕は言われた通り、机を隔てて彼女に向かい合った椅子に腰掛けた。 「どの辺が希望なの?」と云っているようだ。 
僕は机に置かれたロンドンの地図上で、スイスコテージからハムステッド近辺を指さした。
 彼女は、一杯並んでいるファイルの中から一冊を取りだし、それを開くと中には手書きで一杯名前やら住所やらが書かれている。 その中で一つの住所を指さし、その指をそのままさっき僕が指さした地図の上えと滑らせる。 彼女の指は僕が希望した辺りよりもう少し北、駅で3駅先のキルボーンで止まった。 フォードウィッチ通り。 部屋代は週£7で電気、水道代も込みだと云うから・・・安いのかどうか、一人暮らしを知らない、借家暮らしを知らない僕にとって、日本との比較も出来ない。
 「日本と一々比較なんざしてみても始まらん。 ここは英国で、この国で今は働いてこの国の貨幣で給料貰ってる以上、日本円への換算や日本との物価比較は無意味や。」「要は、今の僕の給料から考えて、この部屋が安いか高いかだけの問題。」 

 余談ながら僕はこの瞬間から、ことプライベートな事柄に関してはこの英国に限らず、何処の国へ行っても、一々日本円への換算で比較する事を完全にやめてしまった。 それと共に、日本の物価と比較することもやめてしまった。 商売人とすればこれは失格物だろうけれど、如何に日本円で安かろうと、その国の物価から考えて高い物はやっぱり僕にとっては高い買い物なのだ。 僕はまだまだ人間が出来てないせいか、特に開発途上国へ行った場合、この気持ちを忘れてしまうと、とんでもない勘違いを起こすやも知れないと思うからだ。

 取り敢えず、このフラットに出かけてみることにして、アポイント、いやその当時はアポイントメントなんて言葉は知らなかったので、「I want go there.」と云った。 彼女は早速電話を掛けてくれ、僕について結構色々と良いことを大げさに並べたてる。 「おお、そうだ、此くらい大げさにやらんとこっちじゃ対等に話せんな。」 結局、翌日の昼に伺う事で了解をとり、僕は午後の仕事へ戻った。
 キルボーンはスイスコテージから3つ目の駅。
地下鉄はフィンチリーロードを過ぎると地上に出る。 次のウエストハムステッドを過ぎ、キルボーン駅は地下どころか、高架式の駅になる。 この駅を出ると、駅の下をキルボーン・ハイロードが丁度地下鉄路線と交差するように下を走っている。 この道を渡った直ぐ横手にある道を少し入ると三辻になる。 この道を真っ直ぐ行くとウエストハムステッドで、その先はフィンチリーロードへと繋がる。 この三辻を左に曲がった道がめざすフォードウィッチ通りだ。
 フォードウィッチ通りは幅約6m程の通りで、その両側にはたっぷりした石畳の歩道が続き、この歩道には高さ12m位の木が両側に植えられている。 辺りの家はどれも4階建てのようで、どの家も前庭を持っていて、正面の1階と二階はどこも出窓になっている。 目指す番地に辿り着いた僕は、前庭から玄関へ進み、玄関の呼び鈴を押した。
 ちょっとして、僕の右横に見えていた出窓のレースのカーテンが少し開き、中から小さな女の子が僕を覗いている。 中の方で人が来る気配がし、ガチャンという音と共に扉が開いた。 中からこの家の奥さんらしき人と、さっきの子供が出てきた。 促されるままに僕は中に入ると、細長い廊下が奥の方に続き、右手にはさっき少女がいた部屋の扉が開いている。 扉を入って3m位の所から真っ直ぐに階段があり、部屋へはこの階段から登るのだろう。 廊下の奥がダイニングになっていて、そこに通された。
 奥さんはスペイン人のようで、立派な体格・・・・まるで肝っ玉母さんのようで、よく笑う。
僕はまず奥さんから条件の再確認を受け、ちょっと話した後、部屋に案内しようと席を立った。 空いている部屋は2階だと云う。 
 ここで注意しなければならないが、英国では建物の階の数え方が日本と違うので、間違うと階段を一往復余分に歩かされることになる。 つまり、僕らにとっての1階は英国ではグランドフロアといい、僕らの云う2階を英国では1階と云う。 だから、階が一つずつずれていくのだ。 因みに、半地下はベースメント。
 だから、空いている2階の部屋というのは、日本式でいうと3階に当たる。 途中の踊り場にはそれぞれバスルームが付いている。 僕の部屋は道路側に面し、残念ながら出窓ではないが二つの大きな上げ下げ窓があり、その向こうに、窓一杯に道路の並木が見えている。 部屋の広さは日本式に云えば最低10畳はありそうだ。 簡単なキッチンに、タンスや化粧台、ベッドに小さな机、椅子2つ。 キッチンには調理道具、食器やナイフ、フォークまで用意されている。 白い簡単な暖炉が印象的だ。 今の僕にとってこの部屋が電気、水道込みで週£7は安い。 しかも、バスルームを見ても、コイン式のタイマーのようなものは見当たらない。 聞いてみると、これもフリーだと云う・・・・これで儲かんの?
 僕はその場で決断して、この部屋を借りる事にした。
ディポジットとしてこの奥さんに2週間分を渡し、ついでに1週間分も支払った。
これで契約は終了で、つまり口約束だけの簡単なもので、それで部屋が借りられる。 もっとも、世間にもまれてない僕はその事に何の不思議も感じなかった。 そして、紹介してくれた例のStudent Accommodationには紹介料として1週間分を支払い、すべての契約は終了。
 
 引っ越しの日、と云っても僕の荷物はキスリングザックに寝袋位で、実に軽い引っ越し。
お世話になったホテルのオヤジに挨拶すると、いつでも遊びに来なと云ってくれる。 例の二人の日本人も見送ってくれた。 短い間だったけれど、この辺りこそ、僕にとって生まれて初めて自活を始めた記念すべき場所なのだ。 いつだって来れる筈なのに、何故か後ろ髪を引かれる思いがする。 僕は元来放浪性だと思っていたが、以外とそうで無いのかも知れない。 そうでないから、放浪に憧れるのだろうか?
 新居となるフラットに着き、呼び鈴を押すとあのボリュームたっぷりの奥さんが、前と同じようにニコニコしながら扉を開けてくれた。 私達は縫製とこのフラットで生計をたてている・・・・というような話をしながら僕の部屋に案内してくれる。 部屋の扉を開けるとこの間見た部屋が目の前に再び現れた。 部屋のテーブルの上に花瓶が置いてあり、花が生けてある。 思いも寄らない肝っ玉母さんの心遣いに僕は心から感謝した。 
 この日は、例のストラウス家でオペアをやっている女性、TMが来る予定だった。
この日以降、僕の休みである水曜と日曜の午後、彼女がやって来て、帰りは徒歩で地下鉄の線路ぞいに彼女の家まで送り、帰りも又僕は徒歩で自分のフラットへ帰る習慣がついてしまった。 この習慣はその後、地下鉄の定期を使い出してからも何故か変わらなかった。 

 
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案 山 子

 さだまさし の歌の中に『案山子』というのがある。
『風に立つライオン』と共に僕の大好きな歌なのだけれど、この歌を聴く度、この時期貰った両親や友からの便りのことが思い出されてならない。
 自分にとって本当に大切であるもの、大切である筈のものって、以外とその大切さが解らない、気付かないもの。 逆に、自分が大切だと思っていたものが、以外と、本当はどうでもいいものだったりすることもある。 自分にとって空気のように感じていたもの。 両親や弟、日曜で朝寝して目が開くと僕の椅子に友達が知らぬ間に座ってて本を読んでたり、音楽を聴いてたりする僕にとっては当たり前だった光景。
 僕が両親からの初めての手紙を受け取ったのは、ヒルブロウホテルに滞在し始めて暫くしてからだった。 僕にとって見慣れた父の字・・・・・ローマ字で書かれた僕の名前と滞在先。 それは小学生の頃、学校の宿題で自分の名前と住所をローマ字で書いて行かねばならなかった時のこと。 いつもの様に学校から帰るなり鞄を放り出して遊びほうけ、宿題の事なんざ頭からどっかへ飛んで行ってた。 良くしたもので、母がその宿題に気付き、夜遅くなってから僕を呼びつける。 叱られるかと思ったら、父は「どうせ書けんのやろ。」と言いながら広告の裏にゆっくり、僕の名前と住所を書いた。 見よう見まねで書いた自分の名前と住所。 僕が初めて貰った両親からの手紙、その封筒に書かれていた字はあの日、僕がなぞった父の字だった。 気持ちを伝えるのに時として言葉は要らない。 そんなことを両親の手紙で知ったように思う。
数日後、弟から小さな小包が届いた。 中は僕がいつも聞いていた曲をテープに編集したものだった。 我が悪友達からも色々届いた。 「俺も金無いからこれで辛抱して」と千円札が封筒に入っていたり、時には、もっと多く入っていたり。 便せんに挟んでタバコが1本・・・・もう時効だね。 僕のいない僕の部屋に、相も変わらず集まってワイワイやっていると言う知らせ。

 それまで僕は案山子と言う言葉をあまり好きではなかったのだけれど、彼の歌を聴いてから僕はすっかり気に入ってしまった。 この歌を聴くとあのクインズウエイ時代のことが思い出される。

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シェークスピア

 住む所と仕事が決まったところで、今度は学校。
何しろ6ヶ月のビザを貰っているので差しあたって滞在に問題は無いものの、更にこの国に滞在するには余程お金があり、私はこの国で間違っても労働したりしませんという証明でも出来ない限り、観光で再度のビザ延長は困難。 そこで、それ以外の方法で滞在延長するとなると労働許可を取得するか学生になることが考えられる。 まず労働許可、これは現段階ではまず不可能だ。 そうなると学生になること。
 学生と言っても週15時間、つまり1日3時間以上の授業に出るフルタイムでなければビザ延長の対象にならない。 しかも、先々の生活費があることも証明せねばならない。 つまり早い話が、今ある程度のお金が出来て、学校に行けるようになったからと言って、直ぐに貯まった金を学校に支払ったのでは、次のビザ延長時の生活費の証明が出来なくなってしまう。 当時、見せ金に友人からその時だけお金を借りて、ビザ延長が済んだら返す方法や、一旦、親などに送金してもらい、延長が済んだら返金するようなことをしていたケースも聞いてはいたが、僕はあくまで自活に拘ったため、学校に入るのはビザ切れギリギリまで持ち越そうと考えた。
 結局僕が英語学校に入ったのはその翌年になってからだった。
第一、フルタイムで働いていたので、学校に行く暇など無かったのだ。

 最初に入ったのはメイフェアー近く、つまりピカデリー近くのシェークスピア英語学校で、授業料が3ヶ月で£32。 受付で授業料を支払うとまず簡単な語学力テストを受ける。 テストの後、受付のお姉さんが「あんたほんとに日本人?」と聞いてくる。 理由はだいたい想像出来る。 つまり、殆どの日本人はペーパーテストで上級クラスに編入されるのが一般的と聞いた。 所が、僕のテスト結果は初級レベル。 結果、初歩の初歩クラス行き。
 受付の姉さんに案内され、ぼくは授業途中から参加。
14人程の生徒が先生を囲んで授業を受けている・・・・・・とにかく騒々しい。
皆、英語は初歩の初歩の筈だが、お国言葉に英語まじりでバカスカ話すは話す。 相手が解ろうが解るまいが一切関係ない。 先生から名前はと聞かれ 「I'm masa.」・・・・・・途端に生徒達から矢継ぎ早の質問が僕に降りかかる。 この日の授業で覚えた言葉、先生がしょっちゅう口にする 「Quiet students」 と 「Carry on.」。 多分、「静かに」と「続けて」って言う意味なんだろうけれど、僕には帰ってから辞書で調べる程の向学心がないのでその意で正しかったかどうか、でも、今もその意味で使ってるからそれで良かったのだろう。 もっとも、授業中自国語の辞書は使用禁止で、使えるのは英英辞書のみだから、持ってきても意味がない。 解らない単語があると、先生が色んな言い方で説明してくれる。
 学校の授業で文法ほど眠気を催す時間はまずないと言っていい。
大体、僕が高校時代、一度だけ問題まで英語の試験があった。
テスト用紙が配られ、先生が僕らに質問する 「何か質問は?」。 「ハイ」と珍しく元気よく手を挙げた僕は先生に質問する。 「問題の意味解らんけど、どない言う意味?」 先生の的確な答えが即座に返って来る。 「問題の意味聞いて何すんねん」・・・・・・ごもっとも。 この時のテストはラッキーな8点でした。 今も強烈に覚えてるあのやりとり。
 それによく似た展開が再び僕を襲う。
文法はいいが、なにやら先生が説明している、その説明の単語が全く解らない。
クラスに日本人は僕一人。 隣の席にいたイタリア姉ちゃんに「ワカンネー」ってジェスチャーすると、向こうも「さっぱりだわよアンタ」って表情をする。 やれパーストパーティシブルだのサブジェクトだのバーブだの・・・・・バーブ佐竹なら知ってるがな。 パッシブにアクティブ、それなら聞いたことがあるぞ。 パッシブソナーにアクティブソナー。 そう言えば、アメリカのSF潜水艦ドラマの『原潜シービュー号』ではよくアクティブソナーの音が効果音で入ってたものだ・・・・・。

 文法の時間は大人しいみんなも、ディスカッションになるといつも騒然となる。
負けてはいられません。 文法、意味、んなこと関係ありませんがな。 相手が解ろうと解ろまいと関係なく、時にはこっちも日本語混じりで話す・・・・いやわめく。 その度先生が両手を広げて 「Quiet, everyone quiet please.」。
 何と言っても一番白熱するのは「お国自慢」のディスカッション。
ある日誰かが、フランス人はスープを飲む時わざわざ向こうの方へスプーンを持ってくって、わざわざすくったスープを遠くに運ぶ・・・・があるかと口火を切った。 馬鹿なことを言うんじゃない、あれはああして熱いスープを冷やしてるんじゃないか・・・・・・このあと延々約40分、白熱の議論が続いた。

 3ヶ月いたこの学校で僕は何を学んだのだろうか?
筆記力や文法力は入学時とほぼ変わらないと言うのに、辞める頃には中級のクラスに上がっていた。 単語を幾つ覚えたとか、文法力が付いたってことは実感として全く無かったような。 何しろ、未だに文法はチンプンカンプンなのだから。 そう、一つだけあるだろうか、それは言葉は単なる道具じゃないってことに気付いた。 幾ら使いこなせても、時として全く使えない人の方が遙かに的確に、伝えたいことを伝えられる場合もある。 使えるに越した事はないが、それが全てでは無いって事。 僕だけが勝手に思っていることかも知れないが。

 
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