交響曲第9番「新世界より」   

 僕が生まれて初めてオーケストラというものの演奏を生で聴いたのは、ケンジントンにあるロイヤル・アルバートホールでの事だった。 アルバートホールはヴィクトリア期にアルバート公によって建てられた円形ホールで、ローマのコロッセウムにドーム型の屋根を載っけたような建物。(コロッセウムにも嘗てはテントを張ったような天井はあったという。)
 
 ある日、TMから 「アルバートホールでロンドンフィルのコンサートあるんだけど、一緒に聴きに行かない?」 というお誘いを受けた。 彼女は大学時代、マンドリンクラブでマンドリンをやっていたので、クラシックが好きだということは知っていた。 僕の方はと言うと、クラシックとはつまり子守歌より遙かに効果のある子守歌だと解釈していた。 ただ、曲名を聴いてみると『新世界から』だと言う。
 新世界? 飲み屋の筈はないが、そう言えば僕の級友で剣道部(僕は柔道をやっていたが、道場が隣同士。)のお寺の息子がクラシック大好き人間で、僕らがビートルズを文化祭でやると勝手に決めた時、その練習を彼の寺の本堂でやった事がある。 その時、彼の部屋で聴かされたのがカラヤンとか言う指揮者が振るドボルザークの新世界だった筈だ。 いつもなら眠くなる筈の僕が、珍しく最後まで聴いた唯一のクラシック。 「お前、こりゃ絶対聴いとくべきやぞ。」と言う彼の坊主頭の顔が浮かび、これはやはり彼への土産話に聴いとくかとなった。 何でも指揮はレナード・バーンスタインとか言うおっさんらしい。 僕にとってカラヤンだかホルスタインだか、いや、バーンスタインだか知らないが、そんな指揮者の事などどうでも良かったし、ロンドンフィルが何ほどのものかも知らない。 ただ、あのお寺の息子の部屋で聴いた曲は聴いてみたいと思ったのだ。

 生まれて初めて聴くクラシックコンサートと、アルバートホールへの興味から、ちょっとワクワクいや、心臓をちょっとドキドキさせながら僕達はアルバートホールのチケット売り場で桟敷席のチケットを購入した。 買った席はギャラリー(プロムナード)つまり早い話が立ち見席で、天井桟敷のこと。 僅か40p(当時のレートで160円位)。

 ローマのコロッセウム(円形競技場)を想像してほしい。
あの競技場にお椀型の天井を被せたような形をしているのがアルバートホールで、その壁とお椀型屋根(天井も同じ形)の境目にまるでベランダのように360度に渡ってぐるっと張り出している部分が天井桟敷。 席は無く、真ん中にぽっかり空いた大きな円形穴の部分には鉄製で胸位の高さの柵が付いている。 目前には天井からつり下げられた、まるでキノコを逆さにしたような吸音板が幾つも見られる。 薄暗い桟敷の真ん中に開いた丸い大きな穴の下から明るい光が、まるで火山噴火でもしているような感じで天井に向かって噴き上げている。 柵から下を覗くと、人の姿がまるで米粒のように小さく見え、そう、ETに出てきたマザーシップから下界を覗いているような不思議な感じがする。
 桟敷はガラガラなので、自分の好きな場所で聴くことが出来る。
振り返るとヒッピー風のカップルが壁に背もたれして座っている。 その少し横では老夫婦が手を握り合って同じように座っている。 ここまで来るには長い階段を歩かねばならない。 そう、エレベーター等無いのだ。 彼らにとってここまで登って来る事はそうたやすい事では無かった筈だ。 
 
 がやがやしていた下の方が静かになり、一瞬の静寂のあと、静かにそしてゆったり演奏が始まった。 僕はこの時の演奏を生涯忘れることは無いだろう。 このまあるい空間の下から沸いてくる音楽を聴いている内に、僕の瞼の裏には色んな情景が浮かんでは消えて行った。  『小さな逃亡者』のさいごの場面、『オーケストラの少女』では、ある失業者音楽家集団の中の一人の音楽家の娘が父や友人を助けるため、そしてその音楽を広めるため情熱的に活動し、巨匠ストコフスキーの心を動かし、やがてこの無名オーケストラとストコフスキーの競演のシーン。 
 題名は忘れたが、戦争映画でドイツ軍の捕虜になった米英兵隊達が収容所でオケ(オーケストラ)を結成する話。 ワーグナーを演奏する条件で練習を許された中、ある新人が混じっている事に気付いたドイツ将校が、彼に何か演奏するよう命令する。 立ち上がった彼が、おもむろに演奏し始めた曲、それはアメリカ合衆国国歌だった
・・・・・・。 

 やがて演奏は第二楽章のラルゴへと入っていく。
弦の静かなバックにイングリッシュ・ホルンが『家路』のあのメロディーを見事に歌い上げていくと、僕の意識はアメリカの大平原へと飛んでいく。
 ケンタッキーかコロラド辺りの平原の小高い丘に一軒の家がある。
その家の玄関を出たすぐ横には古ぼけたロッキングチェアが置かれている。 つい先ほどまでこのチェアにはこの家の爺さんがパイプを燻らしながら座っており、彼の孫達に昔話をしていた。 そう、それは自分がまだ若い頃、インデアンと戦った時の話かも知れないし、ビリーザキッドとワイアットアープの決闘の模様だったかも知れない。 この家のすぐ横には大きな木が一本生えている。 陽はもう暮れかけており、その光がまるでエメラルドの輝きのように、真っ黒なシルエットになった木の葉の間からチラチラ洩れて来る。 ホルンに続いて歌い始めるクラリネット、そしてファゴット・・・・・・この時聴いた音、それはグリンデルワルトで見たあの星達の輝きに勝るとも劣らぬ、静かだが眩いものだった。 
 
 3楽章そして4楽章へ、このまあるい穴から、それこそマグマが噴き出しそうな勢いで噴き上げて来る楽音。 自分が立っている桟敷が揺り動かされそうなその迫力と音の渦の中、僕は生まれて初めて音楽の素晴らしさを体験したように思う。 僕達の後ろではヒッピー風のカップルと老夫婦が、目を閉じてうつむき加減で微動だせず音楽に聴き入っている。 一体彼らの瞼にはどのような光景が映っているのだろう?

 僅か40pでこれほど素晴らしい音楽を提供してくれた演奏家やこのホールの関係者、いや、このような体勢が整っているこの国に僕は最高の拍手と賛辞を心の底から送りたいと思う。 アリーナやボックス席で聴いている人達とこのギャラリーで聴いている人達、同じ人間で音楽を愛する気持ちに違いなど全くない筈なのだ。 この後、僕達は何度かこのホールに来る機会を得る。 時には結構いい席で音楽を聴く機会が得られたが、どうしてもあの桟敷席の事が今でも忘れられない。  そして、いつか再びロンドンに出かける時、僕は必ずもう一度、あの桟敷で「新世界から」を聴いてみたいと思うのだ。 恐らく、こんな場所にわざわざ登ってくる人は本当に音楽が好きな人達の筈だと思うから。
交響曲第9番「新世界から」 第二楽章
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ウエストハムステッドの電気屋さん

 休日などTMが来ると、帰りは必ず僕が彼女の家まで送っていくのが習慣になっていた。
キルボーンから地下鉄ウエストハムステッド駅、フィンチリー通り駅の横を通って彼女の家まで歩いて行く。 とは言っても、それぞれの駅はそう離れているわけではないので、それ程の時間は要しない。 何しろ、ウェストハムステッド駅からフィンチリーロード駅は見えているのだ。
 ウエストハムステッド駅を出て右の方へ向かって歩くと下にベーカールーラインの線路と、その横にBritish Railの線路上を通過し、ウエストエンドレーンになる。 この道路沿いに一軒の電気屋さんがある。 名前を The Recorder Company と言うが、この小さな町の電気屋さんのウインドウにソニーのステレオセットが展示されていた。 値段は£140.00。 とても僕が直ぐに買えるようなしろものでは無かったが、この店の前を通ってはウインドウに飾られてあるセットを僕はじっと見ていた。
 そんなある日、いつものように僕がウインドウを覗き込んでいると、一見フォーレンダムで逢ったカメラ屋の主人風の上品そうな主人が出てきて僕に話しかけてきた。 「このステレオをよくご覧になっているようですが、宜しければ中でごゆっくりご覧なさい。」そう言っているようだ。 言われた通り僕は中に入ると、その主人は1本のカセットテープを持ってきて、そのステレオセットのデッキにテープを挿入し、Playスイッチを押した。 僕が洲本で持っているセットに比べれば比較にならない程度の音だった筈だが、そのときの僕には何十万円のセットより素晴らしい音に聴こえる。
 ステレオは欲しいが、残念ながら今の僕にはそんな余裕が無いこと、そして僕の立場を正直に時間を掛けてゆっくり話した。 主人は一寸考えた後、一つの提案をしてくれた。
「月賦という手があります。 今幾ら払えて、月幾らなら返せますか?」
「今払えるのは£90.00位で、月£5.00ならなんとか。」
「では月£5.00の10ヶ月で分割にしましょう。」
「もし貴方がこの国を離れる時、このセットが必要なら持ち帰った後、お国から残額を送金してくれればいいし、不要なら下取りしましょう。」そういっている様子。 僕の返事も待たず、主人はステレオセットを梱包し始めた。
 そして、この店独自のフォームらしい簡単な支払予定表を出し、必要項目を記入して行く。
僕が記入するのは名前とロンドンの住所、電話番号それだけとサイン。 これが済むと、持って帰って良いと言う。 いや、まだ前払い金も払っていない・・・・・「前を通った時に持ってきてくれれば良い。」と言う。
 
 それ以後、毎月26日になると僕はこの店に£5.00を届け、主人から受領のサインを貰う姿が10回見られたはずだ。 やがて10回目の支払いにこの店を訪ねたところ、この主人は優しい笑顔のまま僕に一枚の封筒と、ちょっと大きめの箱を差し出した。 封筒には£10.00、箱にはヘッドホンが入っている。 何のことか判らず怪訝な顔をしていると、「それは君がもし現金で買ってた場合の値引き分です。」と言う。 そしてヘッドホンは「私とワイフからのプレゼントです。」
 僕がこのステレオを持ち帰った時、もし嘘の名前に住所を書いていたら、この主人は大損をした筈だ。 ローンにすれば金利がいる事くらい僕でも解る。 値引きが無いのは金利だと僕は解釈していたのだ。 「人を信じる事は自分を信じる事、そして場合によっては多大な犠牲を覚悟することなんだよ。」 主人と奥さんの笑顔が僕にそう語りかけていた。
 このステレオは僕が日本へ帰国の際、TMの友人宅に置いて来た。
ヘッドホンは帰国後も東京で使用していたが、洲本へ引き上げの時の荷物整理で間違って捨てたらしく、今はもう無い。 手元にある支払証を見るたび、ご夫妻の事を思い出す。
   
 ローンの支払い予定表件契約書  頂いたヘッドホン

 
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Sさんとパイプ

 ピカデリーの日本料理店Hでバイトをしてる頃、この店にSと言う人がウエイターとして入ってきた。
丁度フラットを探していると言うので、僕のいるフラットの奥さんに尋ねると、僕の下の部屋が暫くすると空くので、よければどうぞという事になり、その人が1週間後に入ってきた。 フランスからやって来た彼の部屋には英語やフランス語の航空力学の本やら、ロシア製写真引伸機などが運び込まれた。 何でも東工大の航空力学出身とかで、フランスで語学の勉強をしていたらしい。
 彼とは話しが合うこともあって、一晩中語り明かす事もあった。
僕が撮ってきたバカチョンカメラのフィルムを一緒に現像し、引き伸ばし技術もいろいろ教えてもらった。 とは謂っても、安物のロシア製機械(別にこれが悪いと言う訳ではないが。)とあって、シャープな画像は彼の腕をもってしてもなかなか得られなかった。 僕も中学時代、多少の現像焼き付けはやったので、基本的な事は出来るが、彼からはやれ覆い焼きだの何だのと色々教えてもらった。
 ある夜、僕が撮ったTMの写真を何だかんだと言いながら二人で焼き、一通りの作業が終了した所で、彼が「パイプやってみるかい?」と尋ねた。 僕はその頃、ロスマンを愛用していたけれど、パイプは初めて。 ロンドンの街中では結構、パイプを吸っている人を見かけるし、その何とも甘ったるい香りには僕も興味があった。
「僕でも出来る?」
「ちょっと練習がいるけど、心がゆったりしていいよ。」
 彼はフランスで使っていたという、一寸変わった格好のパイプにクラーンというパイプタバコを詰め込んだ。 彼の真似をして火を付け、いざ吸い出すが、何故か直ぐに火が消えてしまう・・・とても香りを楽しむ余裕などない。 火を消さないように・・・・その緊張感で、おおこれは精神集中にいいな・・・・・。
「もっと優しくゆったりと吸わなきゃ」
何度か火を付けなおしてみるが、とても彼のようにはゆかない。 僕が悪戦苦闘している横で、彼はゆったり煙りをふかしながらTimesを読んでいる。
「そのパイプで練習しなよ。 巧くなったらもっと良いのあげるから」そう言って彼はクラーンも一緒に僕にくれた。 1週間もすると僕のパイプの腕?も上がり、火はそう簡単に鎮火しなくなった。 そんな頃、彼が僕に木で出来たパイプをプレゼントしてくれた。 今、僕の手元にはこの2本のパイプと、銀座で買った親指程の携帯用パイプ、それにシンガポールへ出張した際購入したアップルと言うスタイルの、総漆塗りのパイプがある。 東京にいる頃は職場でパイプ銜えて仕事していたものだが、それ以後は仕事場では吸っていない。
 彼はこの時、自分のパイプも買ったようで、2人で吸い初めをやろうという事になった。
丁度休みの日で、この日はTMが来る事になっていた。 彼女が遅いので、二人で出窓から体を乗り出して見ていた所、遠くに彼女の姿。 先に見付けた彼が思わず僕に向かって叫んだ。 「来たよ。」・・・・とその時、彼の新調パイプが彼の口から離れ、遙か下の地上へポトリ。 吸い口が割れてしまったパイプを見て彼はこう呟いた。
「形ある物皆滅すってね。 彼女は大切にしなよ。」 この言葉は一生忘れない。

 ところでこのSさんは北海道の出身で、しかもTMのご両親が住んでいた釧路だと言う。
話をしていると、何と、彼の父親の仕事がTMの父親と同じ国鉄ではないか。 更に、住んでいる場所が同じ社宅である事まで分かった。 その年の年末、すでに結婚した僕とTMは1ヶ月だけ一時帰国し、お互いの家を訪問するが、北海道へ行った際、もうロンドンにはいなかったSさんのご両親を訪問し、2人とも大歓迎を受けた。 それ以前にも、母と叔父が北海道のTMのご両親を訪問した際、Sさんのご両親には大変お世話になったらしい。
 肝心のSさん、フランスへちょいと出かけたのはいいが、英国へ戻る際、何故か入国拒否に合い、再びフランスへ。 僕は彼の連絡を受け、彼の荷物一式を彼の指定する住所に送り届けた。 彼の手紙には写真器材とウエブスターの辞書は手元に置いて使うよう書かれていたが、僕はウエブスターのみ頂くことにした。

 その後の便りで、彼は帰国し東京の某外資系新聞社に就職した事を知った。
彼から貰ったパイプの吸い口はもう変色してしまい、その色と、僕が噛んだ噛み跡が年月の深さを教えてくれる。 今頃はおじいちゃんになってるかも知れない彼の、あの頃の姿が懐かしい。

 
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ピカデリーの仕事仲間達

 ロンドン生活初めての年が明け、暫くした頃、日本料理店の社長と口論となり、少なくとも自分の主張が正当だと、その頃の僕には確信があったのと若さ故か僕はこのレストランを辞めることにした。 また、日本レストランにいたのでは何のためにロンドンにいるのか分からない、という疑問も生まれていたので丁度いい機会だった。 
 実はこの頃、一々一軒ずつ回って歩かなくても、ワークパーミッションが無くても、仕事を紹介してくれるある代理店の情報を僕は掴んでいた。 Hレストランを辞めた後、この代理店に出向いた僕は何件かの求人先に面接に出かけた。(もっとも、この頃には面接を受けるというより、こちらが面接する位の認識でいたが。)

 リージェント通りをオックスフォード通りに向かって歩いて行き、途中で左に曲がってすぐの所に、小さなレストランがある。(今は知らないが。)  紹介状を持ってレストランに入ると、中は細長くて、片側に小さなカウンターがある。 丁度、アムスで入ったレストランを一寸小さくしたような感じだ。 背が高くて、えらくグラマーな姉ちゃんが出てきて僕が差し出した紹介状を見るなり 「Next Door 」と言う。 言われた通り、隣へ行くとそこはワインショップ。
 中から出てきたのは上品そうな老夫婦で、僕の紹介状を見ると、ついておいでと言う。
再び元のレストランへ回り、入り口横の階段をベースメントに降りて行く。 扉を開けると、上とは違ってもう一寸広いレストランになっていて、赤いテーブルクロスにローソクが各テーブルに置いてある。 夜はライブでもやるのだろう、ドラムセットにギターまである。 その奥にキッチンはあった。
 ちょっと小太りのシェフが出てきて、どうやら僕を紹介しているようだ。 
テーブルに腰掛けて条件の交渉に入る。 仕事は朝9時〜昼の2時までで日曜が休み。
給料は週£21.00でチップは皆で分ける。 時間外や万一の休日勤務はダブルペイ(倍付け)。
僕はここに決め、オーナー夫妻にその旨伝えると、上にいたウエイトレスを呼び寄せ、僕を紹介してくれた。

 シェフは陽気なイタリア人で仕事中、カンツォーネだかなんだかをでかい声で歌うのが趣味のようだ。 ウエイトレスはイタリアのパレルモ出身のダイアナ、スペインはマドリード出身のマリア、それにイギリス人でちょっと知的なクリスチーヌの3人。 僕が初めて来た時に会ったのはダイアナだった。
 このレストラン、昼間は上しか開いてないので、厨房には僕とシェフの二人しかいない。
朝来ると、シェフが一人で忙しそうにあれやこれやと動き回っているが、僕は皿洗いなので、タバコ吸って横目で見てるだけでいいのだが、箸が転んでも可笑しくて興味津々の時代。 僕はシェフに手伝いを申し入れると、じゃマヨネーズ作りから頼もうかということになった。
 ステンレスのボールに卵の黄身を3個、マスタードの粉、塩とコショウ、ビネガを入れてからよくかき混ぜ、これにサラダ油をゆっくり垂らしながらボールの中をかき混ぜ続ける。 始めはいいが、オイルが入るに従ってだんだんミキサーが重くなって、腕もどんどん怠くなってくる。 シェフが横で「フニクリフニクラ」をでかい声で歌いながら、一緒にかき混ぜる格好をする・・・・・・生まれて初めて作ったマヨネーズにやや感動していると、今度はそのマヨネーズの一部を容器に取り出し、これにやはり手製のケチャップを混ぜ、タバスコを少し振りかける。 小さめのカクテル皿を取りだしたシェフはこれにレタスを千切って敷き、その上に茹でた小エビを盛りつける。 上からさっき作ったソースをかけろと言うのでその通りすると、最後にパセリの粉をまぶしてレモンの切れ端を置き、シュリンプ・カクテルだと言う。 食べていいと言うので早速味見・・・・・これが美味い。
こんな調子で、家庭向けにとクイズロレーン、ボロネーズソースやオニオン・スープ、焼きプリンほか、色んな料理の作り方を教わった。
 とにかく賑やかな職場で、シェフはよく歌う。
ベースメントとグランドフロアにはメニュー搬送用の手動リフトがあるが、時にはこのリフト穴を通してダイアナやマリア、シェフの3人でやれイタリア民謡だのスペイン民謡だのが合唱される。 チップが弾むと、店を閉めた後、何故かギリシャの何とか踊り、(両手を左右に広げ、親指と中指で音を立てながら踊るあれ)がみんなで始まる。 時にはマリアがフラメンコを披露する事もあった。
 働きだして2週間目の給料日、僕に手渡された給料は£24.00になっている。
何かの間違いだと思った僕はオーナーにそのことを言いかけると、シェフがとっときなって仕草をする。 翌週もやはり同じ金額。 シェフにこの事を尋ねると、「お前は皿洗いで入ったのに俺の手伝いしてるんだから、俺の助手のようなもんだ。 気にするな。」 はい、気になどしません。

 楽しい日々も時として残酷な終焉を迎える時があるものだ。
いつものように賑やかに仕事の最中、ちょっとトイレに僕が出て戻ると、マリアが血相を変えて僕にオーナーを呼ぶように言ってくる。 訳も解らないまま、オーナーを呼びに行って戻ると、調理台の所でシェフが倒れているではないか。 オーナーの主人が慌てて心臓マッサージを施している間に、夫人が救急車を呼ぶ。 結局その日はマリアが厨房に入り、昼間の仕事はこなした。
 翌日、オーナー夫妻から悲しい知らせを知らされる事になる。
僕の生涯でただ一人、これほど愉快でおかしなおじさんはいなかった。 
僕の名前はmasaだと何度行っても何故か「ムサカ」と呼び、結局最後まで彼は僕のことをムサカだと思って逝ってしまった。 TMが遊びにやって来た時は、その度に色んな料理を教えてくれた。 しかし、いつまでもその事を悲しんではいられない。 店を閉める訳にはゆかないのだ。
 夜の部は取り敢えず閉める事になったが、話し合いで、急きょ、マリアと僕が昼間の厨房をまかなう事になった。 忙しくなるとマリアは両方を行ったり来たり。 それでも、僕らは以前の陽気さを失う事無く、レストランの昼の部は何とか持ちこたえ、やがて、夜間だけの契約でギリシャ人シェフがレストランにやって来た。
 彼が仕込みをして、重要な料理の味付けは全部してくれるので、僕らはこれを盛りつけるだけでいい。 僕はオムレツや他、幾つかの料理はもう覚えていたので、マリアと共同で皿洗いからそっちまで何でもやる。 僕の給料は週給£32.00に跳ね上がった。 これにチップがプラスされる。

 働きだして10ヶ月、この店が別のオーナーに売り渡されるという事をオーナーから告げられた。
勿論、僕達さえ良ければこの店に残る事は出来るとの話であったが、丁度その頃、僕にはある中国人経営の豆腐とモヤシ工場で働かないかとの話しがあり、迷っていた時期だった。 午前だけの仕事でそちらの給料は£38.00を保証してくれていた。 レストランと手取りでは変わらないものの、仕事内容への興味と、午前中だけの条件が気に入っていたので結局、このレストランは辞める事に決める。
 最後の日、僕達はオーナー夫妻を囲んでディナーを楽しんだ。
赤いテーブルクロスにナプキン、テーブルにはローソクの火が灯され、最後の夕食を静かに採る。 思えばこのレストランに来て、こんな静かな食事はした事が無かった・・・・とにかく賑やかなレストランだった。 やがて夜の部のバンドが静かに演奏を始め、みんな、これからの事を色々語り合い、話しも尽きた頃、マリアとダイアナ、クリスがバンドの所へ行ってちょっとひそひそ話し。 そして始まったのが彼女達が歌う「イエスタディーワンスモア」。 いつもは声高らかに歌う彼女達とは違い、抑制の利いた、しっとりしたその歌を聴いている内、何故僕はこんなに素晴らしい仲間と別れなければならないのか分からなくなった。

 
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