30年目の約束 台 湾  2016


     


再びトビアの曹さんと取引を始めたあるとき、一番高価な機械を販売するため特別価格を出した事があった。 無事その機械を販売出来た訳だが、それから暫くして突然、同社から銀行送金が入った。 何だろうと曹さんに確認してみると「この取引に関して十分な利益を確保出来たので、特別割引分は返金する」とのこと。 
「取引は信頼と相互利益で」とは、東京のメーカー時代の我がボスやこのパートナーとの信念だった。

淡路に帰ってから取引が4年ほど続いた頃、売り上げも上がってきて取引先も順調に伸びていた。 ところが、その後発生したユーザーからのクレーム対応や販売促進に関して当方(社長の)の約束違反が何度か続いた。
それぞれの案件で、当方社長の対応ではユーザーは納得しないこと、代理店に大きな迷惑をかけるばかりか同社の信用すら失いかけないこと(約束不履行ですでに損失まで与えていた)、このままでは取引停止になりかねないことを社長に毎回進言したが僕の意見は聞き入れられない。
「わし(社長)がじかに出向いて話せば解決する」と言うのだが・・・・この段階でそんな考えは甘いことを誰よりも僕が知っていた。

長い付き合いから、これらの対応は僕でなく社長の命令であることを見抜いていた曹さんがあるときこう言ってきた。
「残念だが貴社をこれ以上信用する事はできないが、Masaが続けるというなら君と取引するつもりでこのビジネスを続行したい。」
彼との信頼を崩さずにビジネスを続けるには、僕自身で起業する他はないと判断した僕は迷い無く取引停止を彼に進言した。
メンテ用のサービス部品のみのビジネスとして、その後の一切の製品販売は行わないことで合意した。 その後、彼の会社には各国の競合から販売依頼が入ったが、彼は全て拒否し、僕がこの会社を退職した現在もこのポリシーを変更していない。 僕への義理立てといえばそうなのかも知れないが、それが曹さんと言う人だ。
以来、彼とはクリスマスカードの交換や、何か災害があったときの連絡程度で月日が過ぎていった。

過ぎ去っていく月日の中で、嘗ての東京時代のボスは亡くなってしまったが、曹さんはその後もお盆にはわざわざ台湾から墓参りに日本に来ていたことを僕は知っている。 一度は僕もご一緒して参ったこともある。
また、ボスが亡くなった後、奥さんと僕、それに船積み担当の女性を台湾に招待してくれたが、このときは僕が忙しくボスの奥さんと船積みを担当していたOさんが台湾に行った。

2016年、トビアの会長になっていた曹さんから突然電話が入った。
「もう仕事は退職したんだろう。 そうなら奥さんと台湾に来ないか? 昔の約束を実行するときが来たよ、お二人を台湾に招待したい。」
同じ電話はかつてのボスの奥さんにも行っていたようで、この奥さんからも連絡が入った。

こんな申し出を断る理由はどこにも無い、いや大歓迎だ。
かくして、1週間の台湾訪問が決まった。


  
日月譚 ダム湖の遊歩道 湖畔にある文武廟

台北の空港で東京からのボスの奥さん、そして曹さん御夫婦と再開してから台北市内を観光し、その後は台湾中部の山岳地帯を彼の車でじつにゆったりとめぐる。
標高3,000m以上の高山地帯のドライブ、そして温泉・・・ビジネスのときは連日工業地帯ばかりで仕事と飲み会の日々だったことが夢のようだ。


  

中部高山地帯を巡った後、僕らの急な希望で九分(分は人偏が付くが変換できないので分を入力しています)に立ち寄って貰った。 ここは一度だけ、仕事で通過する時に立ち寄って昼食をとった覚えがある。
台風が接近していたこともあり、到着したときは強雨だったが、これもいい思い出。
宮崎駿さんがよく立ち寄ったという茶屋でお茶してから、台北市内のレストランで夕食。
九分は「千と千尋の神隠し」で有名になり、この映画以来観光客が急増している。

  

サプライズ

僕の父は先の大戦の折、フィリピンで負傷し右足を根元から失っているが、その後、台北の療養施設に入院していたことを彼に話したことがあった。

台北に戻り、帰国の前日のことだった。
どうしても連れて行きたい場所があるというので皆で彼の車に乗車すると、どれくらい走ったろうか、温泉街のようなところで車は止まった。 どうやら台湾軍関連の病院施設のようで、中に入ると、どう見ても今は使われていない古い建物が建っている。
「台北陸軍衛戍療養院北投分院」
旧日本陸軍の傷病兵療養施設だったようで、現在も国によって保存されているようだ。
「Masaのお父さんが療養していたと思われる場所です。 もう2箇所候補を挙げてあるのでこの後行ってみよう。」
そう、もう何十年も前に何気なく話したことを彼は覚えていて、父がいた施設の場所を調べていてくれたのだ。

   
帰国後父に確認してみると、父がいたのは台北の街中の大きな病院であったようで、残念ながらここではなかった。 2番目に連れて行ってくれた場所は街中であったが当時の面影はないようだった。 多分2番目の場所がそうだったのだろう。
ただ、北投分院へは行ったことがあるらしく、建物の写真を見るなり「ここは分院で温泉があった、懐かしいなあ。」と言う。

曹さんと実際に仕事をしたのは東京時代の6年足らず、そして淡路に帰ってからの4年足らずであった。 まさか東京時代の約束が本当に実行されるとは思っていなかった。
こんな事もあるんだなあ・・・・ただ、これもひとえに我が愛すべき、亡きボスのKさんの人徳なんだろうと思う。
曹さん家族にせよ、嘗ての取引先(台湾最大手の樹脂や油脂、造船などのトップ連中が曹さんの飲み仲間)の重役連中にせよ、未だにKさんを慕い、その奥さんや僕を大切にもてなしてくれることからも、改めてKさんの偉大さを思い知った旅であった。

空港での別れ際「毎年台湾においで。 いつでも、何日でも好きなときに来ればいい、大歓迎するから。」 そう曹さんが僕に言った。
そしてこの旅は2019年の旅へと続くことになる。

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