東京時代(JM1TBC) 免許取得から開局 1980年1月、大阪で講習会を受け無事に無線従事者免許(電話級)を取得した僕は早速、東京調布市のアパートで無線を始める為の準備を開始した・・・と言っても、まだ免許を取ったばかりで、ハム仲間がいるわけでは無いのでまずはCQ出版社のCQ Ham Radioを購入して情報集めからだ。 無線設備を揃えるったって、そんなに予算がある訳ではないので無線機は中古。 そしてアンテナは・・・・取り敢えず簡単なダイポールかGPからとも考えたが、無線を始める動機はDX通信だからやっぱりビームアンテナにしたい。 当然、申請するバンドはHFしかない。 幸い、アパート住まいとはいえ1階でしかも庭がある。 ビームアンテナとなるとこれを上げるためのタワーが必要になるが、まさかアパートの屋根に載せさせてくれとは流石に頼めない。 そこで、大家さんに、庭にタワーを建てて、その上に無線用の大きなアンテナを上げさせてもらえないかと尋ねて見た。 「どれくらいの大きさの物ですか?」と大家さん。 「あのテレビアンテナのような物で4m×10m位の大きさのを15m位の高さに上げたいんですが」と僕。 「送電線に使ってるようなものかと思ったら、なあんだ、それ位の物ですか。 いいですよ。」 許可は得たものの、あの三角形や四角形の大きなタワーでは気が引けるし予算もない。 例のCQ誌を探しているとローヤルタワーって会社がハジゴタワーという、ハシゴを鉄で造ったタワーを出していることが分かった。 これなら場所も取らず何とかなりそうだ。 12mのハシゴタワーに中古のローテーター、同軸ケーブル他をこの会社で購入。 アンテナはナガラのTA−334(7/21/28MHz)を秋葉原のトヨムラで購入した。 3段あるタワーの2段までは僕と家内の二人で建て、アンテナは自分一人で組み立て、タワーの残り一段とローテーターやアンテナの取り付けをローヤルにお願いした。
ローヤルタワーには何度もお邪魔して、社長さんと何度もお話もしていたこともあって、タワー建塔作業ほか、同軸ケーブルの処理方法や半田付けのノウハウ(これまでやったことも無かったので)ほか、色んなことを教えて貰った。 今度は無線機だが、横浜の中古販売店でトリオ(現ケンウッド)のトランシーバーTS−520Vを¥52,000で購入。 当時、マイカーなんか持ってないので、横浜から電車で運んできた。 ちょっと持つには大した重さとは思わなかったが、いざ、これを片手で持って駅まで歩き出すと流石に重さがだんだんと右手に応えてきてこれには参った。 設備が揃った所で開局申請、それから、SWR計、電波障害対策のためLPフィルターを追加購入し、更に同軸ケーブルのシールド線からアースをとる。 局免許がくるまでの間、何冊の無線入門書を読んだろうか。 本を読むとともに、自分が出ようとするバンドのワッチもしながら、交信の流れやマナーについていろいろ自分なりに勉強してみる。 有線電話とは違い、自分の声が全国、いや世界中に飛んでく訳だから、下手な運用でもしようものならそれこそ恥さらしになってしまう。 開局から初DX 記念すべき初めての交信は1980年8月30日23:34、21MHzで相手は横浜の局だった。 まあ、これで確かに電波は出ていることが確認出来たが、はたして10Wなんて出力で本当に海外まで電波が飛んでくれるのか? と言うのがやっぱり一番気にかかる。 これまでワッチで得た情報では、確かに10WのJA局の電波がしっかりDX局にピックアップはされているようだ。 ただ、電話級や電信級でも100Wを出している局が多いと言う話は至る所で聞いているので、僕が聞いた交信の主が本当に10Wなのかどうか・・・・やっぱり心配。 同年9月2日 21MHzで海上移動局(MM)のCQをキャッチ。 日本人オペレーターの信号が53程度で入感していたので、早速コール。 ボルネオ沖を航行中の日本船で、僕がもらったリポートは44から52と、まあ、ギリギリの交信ではあったが無事交信成立。 同年9月3日 1st QSOから15局目にしてとうとうDXをゲット。 相手は5Z4YV。 すごいパイルだったのでまず無理だろうと思いながらもそのパイルに参加した。 何度呼んだろうか、「ブラボーチャーリー アゲイン」とコールバック。 57とリポートを送ったのにたいして、僕がもらったリポートは55。 一度ゲットしてしまうと、後は続くもので、その日のうちに、K6OPE、K6HY、VE7CBT,VK5JH、DU1AOSと交信成立。 東京時代のDX記録 無線を始めてから調布で運用したのは6年足らずで、その後、川崎市の百合ヶ丘に移転した。 こちらは集合マンションであったため残念ながら無線が出来る環境には無く、淡路島にUターンするまで無線は休止状態となった。 先の調布での運用期間にゲットしたカントリー数は200カントリーは越えたと思う。 無線を始めた時はDXCCを夢見て暇さえあれば無線機と格闘していた僕も、アワードへの興味はすぐに薄れ、結局申請したアワードは初期に達成したWACだけに留まった。
右写真は調布時代のシャックの様子。 電鍵が写っているが、これはローカル局から貰ったもので、まったくの飾り物。 東京時代はずっと電話級で、2級を取ったのは淡路島に帰ってからになるのでこれが使えるようになるのはまだ先の話。 10Wで本当にDXが出来るのか? と言う不安は実際に運用を初めてどっかへ吹き飛んでしまった。 勿論、当時のコンディションは非常に良く、モービルホイップに10Wでアフリカをゲットした(28MHz SSB)強者ローカルもいた程だが、やはり周囲のハイパワー局に比べると非力なことに変わりはない。 結局の所、 1.徹底的にワッチして 2.誰よりも先に見つけ、 3.逃がしてもデーター取りをして未交信局の動向を予測して2.に繋げ、 4.特にノイズ付近やノイズの中を注意深くワッチする これらを徹底的にやって、ハイパワー局とのハンディーを克服することにこの時期は徹していた。 21MHzで始めたDXも、途中からは28MHzが主になり、やがてこのバンドで仲間がだんだんと増えて行く。 無線仲間達 28MHzに出るようになりだんだんと無線仲間が増え、初めの頃は28.540で、やがて28.475に移して毎夜のようにラグチューが続いた。 三多摩から所沢にかけての仲間達とは無線だけでなく、普段も普通に交流するようになる。 この時代の仲間達も今は全国や海外に散らばってしまったものの、今も交流はあり近くに行く機会があればアイボールする。 因みに、現在使用している自作の2エレCQアンテナはJH1BXH(加藤氏)にご指導頂いた物で、アンテナ組み立ての時はわざわざ自前で東京から淡路島まで2泊して手伝いに来てくれた。 また、当HPの別室にある「タケちゃんとノブちゃんの欧州便り」で展示してある写真は同じ仲間の作品を僕が加工したものだ。 TS−930Vを購入 通っていたギター専門学校を卒業後、それまでやっていたアルトギターと言う合奏用ギターを後輩に譲り、そのお金でケンウッドの最新モデルTS-930Vを購入した。 終段管が石の本機は球管式のTS−520Vに比べ使い勝手は圧倒的に良くなっているし、何よりゼネラルカバレッジであることもあって、無線以外にBBCや、夜になれば関西の深夜放送をよく聴いた。 また、ロシア沿海州放送(245KHz)を聞きたくて、なんと100m近い電線をアンテナとしてアパート敷地の隣にある植心園(こんな漢字だったかな?)と言う植木屋さん?の木の上を這うように張らせてもらう。 この頃はまだ調布に住んでいて、すぐ近くには神代植物公園があるとても環境の良い場所だった。(なにせアパートの門から富士山が見えた) この辺りの人はみんな大らかだったのだろう。 緑に囲まれた広大な敷地の中にある、藁葺き屋根のこの会社のオーナーのお宅にお邪魔してアンテナの為の電線を設置させて欲しいと頼むと二つ返事で「いいですよ」とのお言葉。 しかも、木の上に上がるなら危険だから脚立を貸してあげようとのこと。 お陰様でただACコードを引き裂いただけの簡単なアンテナで沿海州放送を見事受信できるようになった。 TS−930Vを手に入れてから暫くしてのことだった。 勤めていた会社の社長(この方もハム)がケンウッドの社長から新型のリグを貰ったんだけど、俺は使わないから使ってみるかいとお声がかかった。 なんと、出たばっかりのTS-940Sだった。 僕の免許では使えない機種だったが、いずれは上級資格を取るつもりだったし、こんな機種、自費で買うなんてことはまずあり得ない。(TS−930Vの時は売った合奏用ギター代があったので買えたが) ラジオ受信用として取り敢えずは使うこととして有りがたく頂くことにした。 なんと、お持ち帰りの為だけに社長車と運転手さんをつけてくれた・・・・恐ろしやハム仲間。 100Wに魅力は感じないでも無かったが、免許が無いのと当時10Wの出力に不満が無かったこともあり、940は淡路に帰ってから二級免許を取るまでラジオ放送受信用としての使用に留まった。 ※結果的に10W運用期間が長かったこともあり、かえっていろいろな点で身に付いたことが多かったと思う。 他のバンド
振り返ってみれば、ハム仲間だけではなく色んな人たちのご厚意で、この地での無線ライフは非常に楽しいものになった。 洲本へUターンから現在へ 続く
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