長女誕生 うれしい知らせ 朝8時半、いつものように仕事に出かけようとする僕に「今日あたり病院に入る事になると思うから、帰って来て私がいなかったら、フェーバライト夫人に聞いてみて。」とHMが言う。 異国の地で、何時生まれるか判らない家内を置いて仕事に出かけるのは心配だったが、彼女が僕以上に精神的に強いことを知っていた事、そして何より彼女の周りにいる友人やこのフラットの人達、当時の英国の医療体制に絶対の信頼をおいていた僕はいつものようにフラットを後にした。 仕事が終わってフラットに帰り、玄関のドアを開けようとすると中からフェーバライト夫人がドアを開けてくれた。 「2時間ほど前に奥さんが救急車を呼んで病院に行ったよ。 早く行ってあげなさい。」と僕に告げた。 フラットから1分程歩いたところにC11のバス停があり、いつも通勤に使っているバスを反対方向に乗ると直行で、彼女が向かった筈のロイヤル・フリーホスピタルへ行ける。」 この病院はケンウッドの森の横に立つ最新の巨大な総合病院で、中に入ると病院と言うより美術館という感じで、院内はとても明るく、至る所に絵画や彫刻が置かれている。 しかも何故か、病院独特の消毒液?の臭いが微塵もしない。 産婦人科の受付でHMの名前を言うと、彼女は既にオペレーションルームに入っているが、出産は夕方になると説明を受け、その部屋に案内してくれた。 広いオペ室(英語でOperation Theaterとも言うと何時だったか、セントラルのパトリシア先生に教えてもらった事があるが。)にはHMが一人でおり、彼女が寝ているベッドの向こうには、緊急手術用にか手術台や色んな設備がある。 僕達の子供が産まれるまでの間、この広い空間が僕ら専用に宛われていると言うのか? 僕がベッド横の椅子に座ると看護婦が、何かあったらこのインターホンを押して下さいと言って立ち去った。 HMは時々来るつわりの時以外は平静で、その日の出来事を色々話してくれた。 その内、ドアがノックされて、さっきの看護婦が熱いコーヒーを持って来てくれた。 時々、看護婦や先生が部屋に様子を見に来てくれる。 彼女は、まだ時間は充分あるので、僕に学校へ行くように言う。 さっき、夕方の予定だとの話しもあったことから、僕は一旦病院を出て学校へ向かった。 3時から6時の学校を5時に引き上げ、その足で再度ロイヤルフリーに向かった。 彼女の様子は病院を出る時と大きな違いは無かった。 また、いろいろと話をしてどの位経ったろうか、彼女が苦しみ出し、僕にインターホンを押すよう頼んだ。 側にあるインターホンを押すと、すぐ先生が行くと返事があり、その言葉通り10秒としない内に先生や看護婦がやって来た。 それまで、出産というとつわりがあって、タクシーで病院に駆けつけ、大騒ぎの内に赤ちゃんが産まれる・・・・そんなイメージがあったが、ここで体験している出産は実に淡々としたものだ。 こちらでは、この当時から出産に父親は立ち合う事が出来た、というより、僕の記憶では立ち合いが義務だったようにも思う。 出産時、麻酔を打っていたのかどうかは知らないが、実際に赤ちゃんの頭が出てきていると言うのに、僕達は冷静に話しをしていた。 あのつわりの様子とはえらい違いで、彼女と普通に話しながら無事出産を終える。 ちょっと、いやだいぶんとあっさりした出産のシーン。 赤ちゃんが泣き出すのを確認すると、看護婦が僕を待合室へ案内してくれた。 待合室でもコーヒーのサービスがあり、それからどの位待ったろうか、看護婦が赤ちゃんを抱いてやって来た。 「おめでとう、貴方のお嬢さんよ。」と言って、僕に抱くよう、小さな猿のような赤ちゃんを僕に注意深く手渡した。 片手でも軽く持てるその赤ちゃんには既に黒い髪が生え、まるでキューピーさんのようだ。 真っ黒な二つの瞳が僕の方をじっと見ている。 この後、HMと少し話した後、僕はフラットに徒歩で帰った。 何故かゆっくりとロンドンの街並みを見ながら歩きたかったからだ。 フラットに帰るとフェーバライト夫妻が出迎えてくれた。 女の子が産まれたことを伝えると、二人とも大喜びしてくれ、夕食はまだだろうと僕のために夕食を用意してくれた。 日本とは違いこちらでは、例えば夕食に何かをつくったついでに、隣へお裾分けなんてあまり習慣はない。 旅行なんかに出かけても、隣近所や友人への土産もささいなものが普通で、絵葉書やちょっとしたものが普通で、日本式に単なるお土産感覚で数千円もするようなものを持っていこうものなら「何が目的?」と勘ぐられる場合もある。 そして、意味のないプレゼントも相手を困惑させるのが関の山で、ましてそれが異性にであれば要注意。 とは言え、お裾分けの習慣は僕らはどんどんこちらに持ち込んだ。 日本からオカキなんかの日本的なものが送られて来ると、外国人の知り合いに早速配った。 勿論、この時、日本のこのような習慣に付いて説明してからそうするのだけれど、このフェーバライト夫妻ともそんな関係を続けていた。 始めは・・・・えっ、何で? って感じではあったが、何度かそのやりとりがあるうち、フェーバライトさんもこのお裾分けの習慣を僕達と共有してくれるようになっていた。 やれ、パイを作った、プディングを作ったと言っては僕達に届けてくれる。 そんな事もあってこの日、多分僕は食事もまだだろうと、わざわざ夕食の用意をしていてくれたのだ。 HMと赤ちゃんが退院するまで、僕は毎日病院へ通った。 何せ、帰りのC11番のバスに乗っていればそのまま病院の前だから早い。 彼女のベッドはちょうど窓側で、大きくて明るい窓の下にはケンウッドの森が広がっている。 ベッドにはラジオや時計、インターホンなどが備えられていて、ちょっとしたホテル並の設備だ。 少なくとも、僕らがいつも使うような安宿に較べれば遙かに快適・・・・いや、大部屋であることを除けば高級ホテル並か。 窓から望める景色は少なくともそれ以上だ。 彼女にはユダヤ人の友人が多かった。 ストラウスさんを始め、彼女の仕事先の奥さん方、日本語をずっと勉強しているスターン夫人、それに彼女の学校友達やオペア仲間、こっちに赴任しているビジネスマンの奥さんとも何人も知り合いがいたので、毎日結構多くのお見舞いがあるので、全く退屈はしていない様子。 退院の日、仕事が終わってから病院に行き、いつものようにC11でフラットに帰る。 子供が出来るとなると色んなものが必要になるが、僕らの場合、彼女の友人やユダヤ人のおばさん達が色々調達してくれ、結局殆ど何も買わずに用具が揃ってしまっていた。 |
アンドレス・セゴビア キングスクロスの豆腐屋で知り合った日本人にAさんと云う人がいた。 先にも触れたが、当時26歳だった彼はクラシック・ギターの名手で、僕は彼から多くの影響を受け、挙げ句の果てにはギター合奏を学ぶため東京の専門学校に入学することになるが、それはまだ先の事。 ある日、いつものように仕事の休憩時間に彼と色んな話しをしていると、何でもアンドレス・セゴビアと云うギターの巨匠が近く、ロンドンのフェスティバルホールでコンサートをやるんだそうな。 彼はそれを聴きに行くのだという。 僕も、遠い記憶のなかでセゴビアという名だけは聞いたことがあるような気がするが、はたして、そのセゴビアなる人物が何者で、何をする人なのかまでは全く知らなかった。 「へーえ・・・・・・」 ギターの神様か。 その頃には彼の影響で、ジュリアンブリームやジョン・ウイリアムスなんかの名前は知っていたし、テレビでジュリアンブリームの演奏は聴いた事があった。 それに、ナルシソ・イエペスなんかはあの、映画「禁じられた遊び」のテーマでも有名だったので日本にいた頃も知っていた。 これは一度聴かなきゃ、見なきゃいかんべえ・・・と、僕は演奏会当日、前売り券も持たずコンサートホールへ出かけた。 どこのコンサートも、人気のあるコンサートならダフ屋が出るのが洋の東西を問わず決まり?となっている。 とは云え実のところ、淡路で育った僕はダフ屋の存在など露知らなかったが、アールスコートで行われたローリング・ストーンズのコンサートへ行った時、初めてこのダフ屋の存在を知った。 この時は幸い£5の大枚を叩いてちゃんと、ニューボンド通りにあるチャペルと云うレコード屋でチケットを買っていたから良かったものの、何と、このチケットがダフ屋の手を通れば£20になってるじゃないか・・・・開演が近づくと£10まで下がってたようだけど。 今回はチケット持ってないんだから仕方がない、ダフ屋でも何でも見つけてと思ってホールの前をうろちょろしていると、一人の若い男が話しかけて来た。 さあ来たダフ屋、値切ってやるで、関西人を嘗めんなよと・・・・・所が、何故かアールスコートで見たダフ屋とは雰囲気がちと違う。 「やっぱ、クラシック系のダフ屋はひと味違うのか?」と感心していると、「フィアンセと来る予定だったが、彼女の都合が悪くなって僕一人になってしまったので、もしこのコンサートを聴きたくてチケットを探しているなら彼女のをあげよう。」と言っている。 「本間かいな。」人を疑るのは良くないが「こいつホモちゃうやろなあ。」 と、疑ってはみたものの、その化も無いらしい。 人の好意は素直に受けるものだ。 1893年生まれのセゴビアはこの時すでに83歳の筈。 1908年、彼は僅か15歳で南スペインのアンダルシア地方にある古都グラナダからデビューし、スペイン、南米を経てヨーロッパでも認められ、やがて世界的にも現代ギターの巨匠としての地位を築いて来た。 後に僕が入学した学校もその基本をセゴビアが独学で造り上げたセゴビア奏法を基本としている。 ホールに入ると、広いステージの真ん中にポツンと一脚の黒い椅子、そしてその椅子の前には小さな足台が置いてある。 客席は既に満席。 やがて開演の時間。 黒い燕尾服を着た一人の爺さんがギターを持って出てきた。 少したどたどしそうにも見える歩き方だが、毅然として自信に満ちあふれた彼の表情、彼が椅子に座り、ギターのチューニングを終え一呼吸終えた瞬間、一体これはどうした事だろう、まるでホール中が一瞬真空状態になったかと思うばかりの緊張感が走り、空気がピーンと張りつめる。 そして巨匠の演奏が始まる。 僕はまだそんなにクラシックの事は知らなかったので、知らない、聴いたことのない曲が続いているにも拘わらず、僕の耳と目はその巨匠の演奏に釘付けにされてしまった。 あんな小さなギター一本から、まるで魔術のように信じられない程の輝きに満ちた、そして心地よい音が溢れ出て来るではないか。 これは本当にギターなのか? 本当にあの爺さん一人で演奏しているのか? 小さい頃、爺ちゃんの家でよく見た秋の夜空に輝く星達や、高校の天文台にあった25cm西村製の反射望遠鏡で見るプレアデス星団の輝き、僕はこれらに勝るものはこの世に絶対無いと思っていたが、以前、アルバートホールで聴いた「新世界から」と今夜の演奏だけは別格だ。 人間の創りだしたものが自然の美しさに並んだ瞬間、いや、人間の創りだしたものなんかじゃない、きっと人間の魂そのものなんだ。 僕にはセゴビアがその時、ギターという楽器を通して、彼の磨ききられた魂を僕に見せ、聴かせているんだとしか思えなかった。 自慢じゃないが、僕はこれまでおおよそクラシックなんて眠いだけの、とにかく、一級の子守歌より遙かに効果のある子守歌だと思っていた、あの「新世界より」を除いて。 それがどうだ、眠いなんてとんでも無い、これはきっと彼の魔法か、そうでなければ彼の魂が僕に語りかけているとしか思えないのだ。 後日、僕はこの日のコンサートについてAさんと語り合った。 彼は言う、「テクニックはね、もう往年の欠片も無かった。 演奏そのものは、冷静に見ればもうよれよれとしか言いようがない。 だのになんで君がそんなにセゴビアの演奏を感動を持って聴くことが出来たか、それは彼の持っている音楽と、彼の音楽に対する情熱だったかも知れないし、君の言う魂だったかも知れない。 技術は年と共に退化するけど、その人がもっている音楽性は退化するどころか円熟味を増して行くもんだよ。」 後年、僕が音楽学校で教えられた事、その本質はやはり同じことであったように思う。 晴れて音楽学校の基本科(1年生になる前の予備課程)に入学した僕は、初めてのレッスンの時、何か弾いて見なさいと言われてカタロニア民謡を弾いた・・・・2小節弾いた時点で教授は僕の演奏を制止し、「君はここへ何を学びに来たのか?」 と尋ねた。 「ギターです。」 と答えると、おもむろにその教授は僕にこう告げた「この学校は音楽を学ぶ所です。 もし君が本気で音楽を学びたいなら、今までやった事を一旦総て捨てて、一からやり直す覚悟が必要です。 君にその覚悟がありますか?」 その日から、僕はドレミから、そう初歩の初歩からやり直す事になる。 但し、一音一音、総てに魂を込めて取り組む事を要求されたのだ。 Home Index アダルトスクール Aさんが日本に帰った後、僕はギターを習ってみたくなっていた。 クラシックなんて考えもしなかったが、フォークギターはやってみたいと思っていたこともあって、たまたま通りがかった楽器店に置いてあった、ちょっと小さめのフォークギターを£23で衝動買いしてしまう。 僕はドラムを我流で少しだけやるが、ギターはからっきし駄目だ。 精々ドレミの位置を知っている位のもの。 HMはマンドリンクラブにいたので、少しはギターを弾くがフォークは駄目ときている。 これではどうしようも無い。 たまたまそんな時、家内が通っていたアダルト・スクールの新規募集時期に遭遇した。 アダルト・スクールを日本式に言えば、勤労者の為の教育講座のようなもので、この辺りはカムデン・インスティチュートによって管轄されていて、スイスコテージにあるプライマリー・スクール(日本式には小学校)を利用して、夜間、色んな教室が非常に安い(タダと言ってもいいような値段だった。)値段で開かれている。 講座の種類は多種多様で語学教室(英語の他ドイツ語、フランス語、スペイン語や中国、それに日本語もあった。)、絵画、彫刻、写真・・・ショーウインドウのレイアウトや照明技術まであった。 HMは以前から英語の講座に通っていて、デッサンの教室も応募するというので、僕はこの機会にフォークギターの教室を受けることにした。 各講座、教室とも定員があるので手早く手続を済ませ、無事このフォークギター教室を受けられる事になった。 レッスンは週1回で、夜間、この小学校の教室を利用して行われる。 初めてのレッスンの日、僕はフォークギターを持ってこの小学校の指定された教室へ向かった。 音楽室ででもやるのかと思っていたら、そこは普通の教室で、レッスン前にまず机を寄せて椅子を円形に並べることから始める。 教室の人数は10人程で東洋人は僕一人だけだった。 この事は別に驚くに当たらないが、意外だったのは、他の人達が持ってきているギターが普通のプライム・ギター(誰もが想像するクラシックギター)だった事だ・・・・・な、なんとフォークギターは僕だけ。 「えっ、ここはフォークギターの教室やろ。 クラシックギター教室ちゃうやろ?」 これはまずいなあ、と流石に一寸ばかり心臓がどきどきしてくるではないか。 その内、先生と思しき背が高くて、ロングヘアの格好いい女性がギターケースをさげて教室にやって来た。 挨拶をして、先生が円の中心に座り、ギターケースを開くと・・・・やはり、先生がケースから取り出したのはプライムギターだった。 「冗談やろ。」 その後配られたテキストを見ると、コード進行の事などどこにも無い。 その代わり、クラシックギターのテキストで見たような曲が並んでいる。 結局、レッスンもまったくクラシックギターのレッスンのような感じで進められる。 そうか、フォークギターやるにもその基本はクラシックと同じなんだ、とそう理解するしか方法が無さそうだ。 そう言えば、レイモンドって、昔、聖歌隊にいたって言うイギリス人の知り合いが言ってたっけ、フォークもクラシックも基礎は同じだって。 それから2ヶ月間、プライムギターの柔らかい音に混じって、僕の硬い鉄弦のギターの音がこの教室に響き渡る。 何故2カ月と書いたかと言うと、2カ月が過ぎた頃、先生が突然、アフリカに行くことになり、急遽、この教室が閉じられることになったからだ。 セントラルのパトリシア先生もアフリカへ行ってしまったが、一体アフリカに何があると言うんだい。 教室は中断されたものの、僕のギターに対する思いは募る一方で、新聞の募集欄からギター教室を見付け出して、今度はハムステッドにある個人のギター教室へ通いだした。 1レッスン£2と、アダルトスクールの授業料に比べて、これはもの凄い大金を支払わねばならなかったが、その割に、やっている内容は、左手の押さえる位置確認程度の内容で、これまた1カ月もしない内に辞めた。 Home Index |
スパニッシュギター・センター オックスフォードサーカスからリージェント通りを南に歩いて行くと、ピカデリーサーカスに行き当たる。 初めてこれらの名前を聞いたとき、僕はてっきりピカデリーとオックスフォードにサーカス、つまり見せ物のサーカス小屋でもあるのだとばかり思っていた。 高校時代、たまたま見ていたテレビ番組でピカデリーサーカスの紹介がされていて、この時初めて、ここで言うサーカスとは見せ物小屋のあのサーカスでは無く、円形広場を意味することを知った。 ただし、これらの場所がサーカスと呼ばれた時代とは違い、今はオックスフォードサーカスったって、只の大きな十字路だし、ピカデリーだって円形にはなっていない。 ピカデリーなんか、僕がいた頃の面影はどこえやら消えたようだ。 あの頃、エロスの像(別にいかがわしい物じゃなくて、天使が矢を放つ姿をした像のこと。)はロータリー(これも円形ではなかったが。)にポツンと小島のように孤立した小さなスペースに建っていた。 このエロス像を右に見ながら道沿いに進むとコベントリー通りに入り、その先はコベントガーデンへ通じている。 この辺りは右も左も歓楽街で色んなものがぎっしり凝縮された、とても楽しい空間だ。 夕方、シャフツベリー・アベニューからちょっと路地を入ると、荷車に野菜を一杯載っけて売ってるマーケットがあって、よく白菜や色んなものを買いに立ち寄ったもんだ。 コベントリー通りを少し進むと、喫茶店代わりによく入ったスイスセンター。 ここは地下がレストランになってて、天井が一面ボトルで覆われている。 そのすぐ先、右手にはレスター・スクエアという小さな公園がある。 ここの公衆便所はよくお世話になった。 この界隈、僅か600メートル四方位の中に多くの映画館や劇場が林立している。 地下鉄レスター・スクエア駅の斜向いの道をちょっと入った所に、小さなうらびれた電気屋があって、カセットテープが一本30ペンス位で売ってたので、ここでよくテープを買ったもんだ。 この電気屋のすぐ横に薄暗い階段があって、階段の上にスパニッシュギター・センターという看板があるのをある日、僕は偶然見つけた。 階段を登りきるとT字に廊下がなっていて、その壁にはギターの価格表が張り出されている。 廊下を左に行くとギターのショールームで、その隣がオフィス。 反対に、廊下を右に行くとレッスン室だろうか、部屋が2つ程並んでいる。 随分と殺風景な感じのするギター教室だったが、一応・・・・・スクールとなっていたので、ためしにオフィスへ入って行くと、髭もじゃのおっさんが出てきて応対してくれた。 「ギターを習いたいのですが。」 「まったく初めて? それとも経験は?」 「まったく初めてと同じです。」 「ギター持ってるの。」 「持ってません。」 こんなやりとりの後、授業料の話になり、1時間£2.50だと言う。 まあ、こんなもんか、ここはアダルト・スクールじゃないんだからな。 早速先生を紹介してくれる。 サイモンと言う、やはり少し髭を生やした30位のユダヤ人だ。 まずはギターをと言うことになったが、一杯並んでいるギターの中からサイモン先生は2本、僕の為に選んでくれた。 一本はホセ・ラミレスと言うギターでネックがかなり太い。 もう一本はアントニオ・マリーンというので、ラミレスとは正反対にネックがとても薄っぺらい。 どちらも手工品で価格は£700(約30万円)。 「おいおい、冗談だろ。 ギターに£700だってか・・・・・・」 「もし君がギターを生涯の共にしたいなら、このクラスの物を買う事を薦めるよ。 このクラスのを買っておけば君の期待を裏切ることはまず無いね。」 と先生はいいながら、それぞれのギターで曲を弾いてくれる。 ラミレスはちょっと甘い、しかし結構抜けのいい音で、マリーンはラミレス程抜けは良くないが、上品な感じ。 先生は、ラミレスがお薦めだが、日本人にはこのネックがちょっと太過ぎると思うので、マリーンにしてはと言う。 いくら僕が衝動買いをよくやるからと言って、ここでこんな高いギターを衝動買いする程いかれてはいない。 帰って家内と相談するよと言ってこの日は退散。 フラットに帰って家内にこの事を話すと、「大金だけど、本気でやりたいのなら楽器は良いのを買っとかないと、絶対後で後悔するよ。」とおっしゃる。 ヨーロッパを旅する為に貯めていたお金を全部つぎ込まなければ、このギターを買ったりなんぞ出来ない。 「旅は何時でも出来るよ。」 彼女のその一言が僕を決心させた。 翌日、仕事の後僕は再びこのギターセンターへ足を運び、再度、今度は自分でギターの音を出して、結局、アントニオ・マリーンの購入を決意した。 これ以後、週1回、サイモン先生からギターの手ほどきを受けることになった。 簡単な単音の練習から始めて、僕は毎日3時間程度の練習を続けた。 長女が生まれると、一室では手狭になったので、たまたま空いた僕達の向かいの部屋を週£6で借りることにした。 この部屋は裏庭に面していて、小さな窓からはフォードウィッチ通りのフラットのように大きな木が見え、下にはフラットの裏庭が細長く望める。 ちょっと先の建物のグランドフロアがパブになっていて、夜更けになると毎夜のように客達が大声で歌を歌う声が風に乗って聞こえて来る。 ギターのレッスンも進み、『ショーロ』や『アメリアの伝言』なんて小品を弾けるようになった頃のある日、何気なく家内の持っていたギター教本を見ていると、「ギター合奏」なんて文字が僕の目を引いた。 他にも聞き慣れない言葉が至る所にあるではないか。 「ギターオーケストラ」「アルトギター」「バスギター」にチェンバロギター? 何じゃこれは・・・・・ 家内に聞いても詳しくは知らなかったが、僕と出逢う前、ロンドンのパーセルルームと言う小ホールで日本のギターアンサンブルの公演があって、其れを聴きに行った事があるという。 演奏はとてもよかって、アンコールを何回もやっていたというのだが・・・・・ その教本の中に「ギター専門学校」という文字がある。 この時はそのまま、これ以上のことは何も考えなかったが、以後何度となくこの教本を見る度に、僕のこの学校に対する、そしてギター合奏に対する好奇心は徐々に膨らみ始め、年が明けるととうとうこの学校への入学を心に決めるようになる。 実際、帰国はまだ暫く先の事になるが。 Home Index |