長女誕生

うれしい知らせ

 僕がHMから妊娠を知らされたのは、1976年の暮れ頃だった。
ちょうどストラウス夫妻がイスラエルに旅をしており、僕達は夫妻の家で生活していた時期で、ロバートを散歩に連れて行った後、いつものようにダイニングで食事をとっていた。 HMが静かに妊娠の事を僕に伝え、予定日が翌年の9月であることを告げた。
 この時、僕の頭にはある二つの事が思い浮かんできた。
一つは、小さい頃母に聞かされた言葉・・・・嫁さんを紹介出来ただけでなく、母に孫まで見せてやれる。 そして今一つは、その当時僕にはある仕事先で労働許可をとってやるから、フルタイムで仕事してみないかと言う話が舞い込んでいた。 子供出来るんじゃ、この国での地盤をもっと固めておいた方がいいのでは。 しかし、結局この話は断り、僕はあえて現状維持の道を選んだ・・・・・理由は簡単で、今の午前中だけの仕事が気に入っていたことと、この年で仕事に縛られたくなかったこと。
 
 妊娠が明確になった時からHMは定期的に診療所に検診を受けに行き、必要に応じて病院に行く。
英国では緊急時以外はその地区の診療所へまず出かけ、そこで診察を受け、その診察医が必要と判断した場合は病院にアポイントを取ってくれる。 僕も、この診療所には何回か行った事があった。
 当時は外国人であっても、それが旅行者や学生でも公営病院での医療費は無料だったので、別に何の手続きも無く僕らもこの恩恵に与ることが出来た。 つまり、僕がかかった風邪や歯の治療は言うに及ばず、長女出産に関わる費用は総て英国政府が負担してくれたのだ。 後のサッチャー政権時、流石に旅行者へのこの制度見直しが行われ、課税対象者のみとする法案が可決されたようだが、今はどうなっているのだろう。
 何れにせよ、当時、一定量のピル、妊娠後は週一回のHealth Visitorと呼ばれるカウンセラーの訪問、病院での出産の為のトレーニング、更に出産が近づくと旦那の為の講座まで病院で行われ、義務として出なければならなかった。 勿論、僕も参加した訳だけれど、これらは総て無料で受けられた。 出産時の医療、入院費(衣食も含め)も無料である事は言うまでもないが、退院後も一定期間、ある数量の替えオムツやコンデンスミルクまで無料で支給してくれる。

 当時、斜陽にあった英国は「英国病」等と日本では呼び、英国を過去のものとして捉え「もう英国に学ぶものは無い」などと言った論評は多かったのを僕は知っている。 お偉い学者やお金の心配のないビジネスマンや政治家は気にもしなかったのかも知れないが、僕達が英国で受けた計り知れない恩恵、それは正にその英国病真っ最中の頃なのだ・・・・・だから、このような論評を見るたび「じゃ、日本も同じ制度を引いて、国が成り立つかやって見ればいいんだ。」と思ったものである。 この違いは税金の使い方の問題なのか国力の違いなのかは知らない。 しかし、少なくとも僕は今でも同じ考えを持っている。 勿論、これは本当に狭い視点から見た意見である事は否めないが。

 翌年、僕達は出産前にどこかへ旅しようと計画をたて、翌年の3月、アムステルダムへ旅する。
10日間の予定で僕達はアムスへ旅し、懐かしのフォーレンダムや、前にはゆっくり出来なかったアムステルダムの街を満喫した。 アンネ・フランクの記念館の事も含め、別の旅行記でこの時の事は述べたいと思う。

長女誕生

ロイヤルフリーホスピタル
 1977年9月24日
朝8時半、いつものように仕事に出かけようとする僕に「今日あたり病院に入る事になると思うから、帰って来て私がいなかったら、フェーバライト夫人に聞いてみて。」とHMが言う。 異国の地で、何時生まれるか判らない家内を置いて仕事に出かけるのは心配だったが、彼女が僕以上に精神的に強いことを知っていた事、そして何より彼女の周りにいる友人やこのフラットの人達、当時の英国の医療体制に絶対の信頼をおいていた僕はいつものようにフラットを後にした。
 仕事が終わってフラットに帰り、玄関のドアを開けようとすると中からフェーバライト夫人がドアを開けてくれた。 「2時間ほど前に奥さんが救急車を呼んで病院に行ったよ。 早く行ってあげなさい。」と僕に告げた。 フラットから1分程歩いたところにC11のバス停があり、いつも通勤に使って
いるバスを反対方向に乗ると直行で、彼女が向かった筈のロイヤル・フリーホスピタルへ行ける。」 
 この病院はケンウッドの森の横に立つ最新の巨大な総合病院で、中に入ると病院と言うより美術館という感じで、院内はとても明るく、至る所に絵画や彫刻が置かれている。 しかも何故か、病院独特の消毒液?の臭いが微塵もしない。

 産婦人科の受付でHMの名前を言うと、彼女は既にオペレーションルームに入っているが、出産は夕方になると説明を受け、その部屋に案内してくれた。 広いオペ室(英語でOperation Theaterとも言うと何時だったか、セントラルのパトリシア先生に教えてもらった事があるが。)にはHMが一人でおり、彼女が寝ているベッドの向こうには、緊急手術用にか手術台や色んな設備がある。 僕達の子供が産まれるまでの間、この広い空間が僕ら専用に宛われていると言うのか? 僕がベッド横の椅子に座ると看護婦が、何かあったらこのインターホンを押して下さいと言って立ち去った。
 HMは時々来るつわりの時以外は平静で、その日の出来事を色々話してくれた。
その内、ドアがノックされて、さっきの看護婦が熱いコーヒーを持って来てくれた。 時々、看護婦や先生が部屋に様子を見に来てくれる。 彼女は、まだ時間は充分あるので、僕に学校へ行くように言う。 さっき、夕方の予定だとの話しもあったことから、僕は一旦病院を出て学校へ向かった。
 3時から6時の学校を5時に引き上げ、その足で再度ロイヤルフリーに向かった。
彼女の様子は病院を出る時と大きな違いは無かった。 また、いろいろと話をしてどの位経ったろうか、彼女が苦しみ出し、僕にインターホンを押すよう頼んだ。 側にあるインターホンを押すと、すぐ先生が行くと返事があり、その言葉通り10秒としない内に先生や看護婦がやって来た。
 それまで、出産というとつわりがあって、タクシーで病院に駆けつけ、大騒ぎの内に赤ちゃんが産まれる・・・・そんなイメージがあったが、ここで体験している出産は実に淡々としたものだ。 こちらでは、この当時から出産に父親は立ち合う事が出来た、というより、僕の記憶では立ち合いが義務だったようにも思う。 
 出産時、麻酔を打っていたのかどうかは知らないが、実際に赤ちゃんの頭が出てきていると言うのに、僕達は冷静に話しをしていた。 あのつわりの様子とはえらい違いで、彼女と普通に話しながら無事出産を終える。 ちょっと、いやだいぶんとあっさりした出産のシーン。 赤ちゃんが泣き出すのを確認すると、看護婦が僕を待合室へ案内してくれた。 
 
 待合室でもコーヒーのサービスがあり、それからどの位待ったろうか、看護婦が赤ちゃんを抱いてやって来た。 「おめでとう、貴方のお嬢さんよ。」と言って、僕に抱くよう、小さな猿のような赤ちゃんを僕に注意深く手渡した。 片手でも軽く持てるその赤ちゃんには既に黒い髪が生え、まるでキューピーさんのようだ。 真っ黒な二つの瞳が僕の方をじっと見ている。
 この後、HMと少し話した後、僕はフラットに徒歩で帰った。
何故かゆっくりとロンドンの街並みを見ながら歩きたかったからだ。 

 フラットに帰るとフェーバライト夫妻が出迎えてくれた。
女の子が産まれたことを伝えると、二人とも大喜びしてくれ、夕食はまだだろうと僕のために夕食を用意してくれた。 日本とは違いこちらでは、例えば夕食に何かをつくったついでに、隣へお裾分けなんてあまり習慣はない。 旅行なんかに出かけても、隣近所や友人への土産もささいなものが普通で、絵葉書やちょっとしたものが普通で、日本式に単なるお土産感覚で数千円もするようなものを持っていこうものなら「何が目的?」と勘ぐられる場合もある。 そして、意味のないプレゼントも相手を困惑させるのが関の山で、ましてそれが異性にであれば要注意。
 とは言え、お裾分けの習慣は僕らはどんどんこちらに持ち込んだ。
日本からオカキなんかの日本的なものが送られて来ると、外国人の知り合いに早速配った。 勿論、この時、日本のこのような習慣に付いて説明してからそうするのだけれど、このフェーバライト夫妻ともそんな関係を続けていた。 始めは・・・・えっ、何で? って感じではあったが、何度かそのやりとりがあるうち、フェーバライトさんもこのお裾分けの習慣を僕達と共有してくれるようになっていた。 やれ、パイを作った、プディングを作ったと言っては僕達に届けてくれる。 そんな事もあってこの日、多分僕は食事もまだだろうと、わざわざ夕食の用意をしていてくれたのだ。

 HMと赤ちゃんが退院するまで、僕は毎日病院へ通った。
何せ、帰りのC11番のバスに乗っていればそのまま病院の前だから早い。
彼女のベッドはちょうど窓側で、大きくて明るい窓の下にはケンウッドの森が広がっている。
ベッドにはラジオや時計、インターホンなどが備えられていて、ちょっとしたホテル並の設備だ。 少なくとも、僕らがいつも使うような安宿に較べれば遙かに快適・・・・いや、大部屋であることを除けば高級ホテル並か。 窓から望める景色は少なくともそれ以上だ。
 彼女にはユダヤ人の友人が多かった。
ストラウスさんを始め、彼女の仕事先の奥さん方、日本語をずっと勉強しているスターン夫人、それに彼女の学校友達やオペア仲間、こっちに赴任しているビジネスマンの奥さんとも何人も知り合いがいたので、毎日結構多くのお見舞いがあるので、全く退屈はしていない様子。

退院そして

フラットで

 退院の日、仕事が終わってから病院に行き、いつものようにC11でフラットに帰る。 子供が出来るとなると色んなものが必要になるが、僕らの場合、彼女の友人やユダヤ人のおばさん達が色々調達してくれ、結局殆ど何も買わずに用具が揃ってしまっていた。
 ベッド、行水桶からオムツ交換用の台(こっちにはこんな物まであったんだ)、バギーまでみんな揃ってしまった。 首の全く座っていない赤ちゃんを早速、赤ちゃんベッドに俯けに寝かせ、その日の買い物は僕が出かける。 僕の仕事は3日間の休みを貰っている。

 子供が出来たら名前を付けて届けねばならない。
子供の名前はもう決めていたから、その名前を僕は日本大使館と英国の役所に届け出た。 大使館に届けを出す時、子供の国籍を記入する欄があるが、僕はあえて保留を選んだ。 この場合、この子が18だったか20だったかになった時点で、本人が英国か日本を選ぶ権利が残されるのだ。(現在は23歳に変更された。)
 この子が将来、自分の意志で国籍を選ばねばならない時が来たとき、どちらを選ぶか・・・・それは彼女次第である。 淡路島とロンドンしか生活経験の無い僕にとって、この街、この国は例え少ない期間とは言え僕が初めて自分で生活した場所であり、日本の他のどの場所より僕にとっては親しみ深い場所、第二の故郷とも言える。 折角授かったこの子にとってのチャンスである。 この子が授かったこんなチャンスを僕達が勝手に選択決定する権利など何処にもないのだ。 将来のこの子の意志に任せることにした。

 その年の10月4日、カムデン地区役所(Rasistrar Births and Deaths)から長女の出生証明書が送られてきた。 更に、出生祝い金まで貰うことが出来たから驚きだ。 僕の英国での滞在目的は観光、つまり、いくら学校に通っているからと云っても、ビザは観光ビザなのだ。  にも拘わらず、英国政府はこんな扱いをしてくれるとは。 しかも、出生後のアフターケアは出産前と殆ど同じように、あらゆるサービスを僕達は無料で受けることになる。


育児のこと少し


 日本では赤ちゃんを仰向けに寝かせるのが当たり前だと思っていたが(最近はそうで無くなってきた。)、こっちでは、堅めの敷きマットに俯けに寝かせる。 これは、授乳後、万一赤ちゃんの喉にミルクなどが詰まっていても、自然に外に排出されるようにだと言う。 そして、赤ちゃんは出来るだけ薄着にさせる。 部屋が寒ければ室温を上げて、出来る限り厚着させないのだ。 そして、ミルクは決まった時間以外は絶対に与えない。 僕達はこのようなことを徹底的にやったので、赤ちゃんが泣いて、声が涸れていても時間以外であれば絶対ミルクを与えないようにした・・・・・これは何だね、やっぱり牧畜文化の人間が考える事だ。 効率よく畜産産業を管理する事が発達した西洋の考え方だと思う。 躾ということに対する彼らの姿勢は結局、この畜産に対する彼らの歴史から多いに影響されているように僕は思う。 子供に綱を付けて出かける親の思想は正に牧畜産業のノウハウからの発想だ・・・・・非常に合理的。
 考えてみると、子供と言ってまず発想すること・・・・・日本なら純白無垢なものに例えられる。
生まれたばかりの子供は何者にも汚されない、純白無垢なものの筈が、成長と共に色んな知識や知恵が付き、色んな経験を通して段々と色んな色に染まって行くもんだと。 しかし、こっちでは全く逆の発想で出発するようだ。  つまり、生まれたばかりの子供は汚れた存在で、此を教育や躾で徐々に白い、純白(とまでは行かないのだろうけれど。)なものに清めて行く・・・・・・そんな印象を受ける。 この事は彼らが犬なんかのペットに対する考えを見れば頷ける。 曰く「ちゃんと躾をされてない動物は野生の猛獣と同じであり、人間社会では相入れないものである。」 そう、生まれたばかりの赤ちゃんは野生そのものであり、これは人間社会では悪?なのかな。 それを、教育や躾で修正し、人間社会に相入れるものになるよう教育する。 つまり、教育や躾でこのドス黒いもの、悪と言うのか野生と謂うものなのか、其れを排除してゆく。

 そのように考えると、「子供にあんな綱を付けるなんて・・・・」なんて謂う我々日本人の考え方に対して、ここで僕が見つけ出した答え、それは「そう、子供を人間の子供としてこの時点では見ていない(こんな表現は誤解される危険性があるけれど。)んだから当然だ。」 彼らはこれから、この子供達を人間として接しられるよう教育し、躾をする義務を負わされていると考えるのがいい。 ちょうど、犬を飼おうとする時、まず躾をするのと同じように。 そして、この国では教育はともかく、躾をちゃんと出来ない人は動物を飼う資格が無いと判断される。 人間も同じだね。 子供を産んだりペットを飼ったりする権利は誰にも平等にある筈なんだけれど、忘れてならないのは、その権利と同じ重さで、これらをちゃんと躾け、教育してこの人間社会に適応出来るようにする義務も負っていると謂うことじゃないだろうか。 義務を放棄すること、それはとりも直さず権利も放棄することに繋がることを僕はこの時、幾分厳粛に受け止めた・・・・・・・つもりであった。


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アンドレス・セゴビア

 キングスクロスの豆腐屋で知り合った日本人にAさんと云う人がいた。
先にも触れたが、当時26歳だった彼はクラシック・ギターの名手で、僕は彼から多くの影響を受け、挙げ句の果てにはギター合奏を学ぶため東京の専門学校に入学することになるが、それはまだ先の事。
 ある日、いつものように仕事の休憩時間に彼と色んな話しをしていると、何でもアンドレス・セゴビアと云うギターの巨匠が近く、ロンドンのフェスティバルホールでコンサートをやるんだそうな。 彼はそれを聴きに行くのだという。 僕も、遠い記憶のなかでセゴビアという名だけは聞いたことがあるような気がするが、はたして、そのセゴビアなる人物が何者で、何をする人なのかまでは全く知らなかった。 「へーえ・・・・・・」 ギターの神様か。
その頃には彼の影響で、ジュリアンブリームやジョン・ウイリアムスなんかの名前は知っていたし、テレビでジュリアンブリームの演奏は聴いた事があった。 それに、ナルシソ・イエペスなんかはあの、映画「禁じられた遊び」のテーマでも有名だったので日本にいた頃も知っていた。
 これは一度聴かなきゃ、見なきゃいかんべえ・・・と、僕は演奏会当日、前売り券も持たずコンサートホールへ出かけた。 どこのコンサートも、人気のあるコンサートならダフ屋が出るのが洋の東西を問わず決まり?となっている。 とは云え実のところ、淡路で育った僕はダフ屋の存在など露知らなかったが、アールスコートで行われたローリング・ストーンズのコンサートへ行った時、初めてこのダフ屋の存在を知った。 この時は幸い£5の大枚を叩いてちゃんと、ニューボンド通りにあるチャペルと云うレコード屋でチケットを買っていたから良かったものの、何と、このチケットがダフ屋の手を通れば£20になってるじゃないか・・・・開演が近づくと£10まで下がってたようだけど。
 今回はチケット持ってないんだから仕方がない、ダフ屋でも何でも見つけてと思ってホールの前をうろちょろしていると、一人の若い男が話しかけて来た。 さあ来たダフ屋、値切ってやるで、関西人を嘗めんなよと・・・・・所が、何故かアールスコートで見たダフ屋とは雰囲気がちと違う。 「やっぱ、クラシック系のダフ屋はひと味違うのか?」と感心していると、「フィアンセと来る予定だったが、彼女の都合が悪くなって僕一人になってしまったので、もしこのコンサートを聴きたくてチケットを探しているなら彼女のをあげよう。」と言っている。 「本間かいな。」人を疑るのは良くないが「こいつホモちゃうやろなあ。」 と、疑ってはみたものの、その化も無いらしい。 人の好意は素直に受けるものだ。

 1893年生まれのセゴビアはこの時すでに83歳の筈。
1908年、彼は僅か15歳で南スペインのアンダルシア地方にある古都グラナダからデビューし、スペイン、南米を経てヨーロッパでも認められ、やがて世界的にも現代ギターの巨匠としての地位を築いて来た。 後に僕が入学した学校もその基本をセゴビアが独学で造り上げたセゴビア奏法を基本としている。
 ホールに入ると、広いステージの真ん中にポツンと一脚の黒い椅子、そしてその椅子の前には小さな足台が置いてある。 客席は既に満席。 やがて開演の時間。 黒い燕尾服を着た一人の爺さんがギターを持って出てきた。 少したどたどしそうにも見える歩き方だが、毅然として自信に満ちあふれた彼の表情、彼が椅子に座り、ギターのチューニングを終え一呼吸終えた瞬間、一体これはどうした事だろう、まるでホール中が一瞬真空状態になったかと思うばかりの緊張感が走り、空気がピーンと張りつめる。 そして巨匠の演奏が始まる。
 僕はまだそんなにクラシックの事は知らなかったので、知らない、聴いたことのない曲が続いているにも拘わらず、僕の耳と目はその巨匠の演奏に釘付けにされてしまった。 あんな小さなギター一本から、まるで魔術のように信じられない程の輝きに満ちた、そして心地よい音が溢れ出て来るではないか。 これは本当にギターなのか? 本当にあの爺さん一人で演奏しているのか? 
 小さい頃、爺ちゃんの家でよく見た秋の夜空に輝く星達や、高校の天文台にあった25cm西村製の反射望遠鏡で見るプレアデス星団の輝き、僕はこれらに勝るものはこの世に絶対無いと思っていたが、以前、アルバートホールで聴いた「新世界から」と今夜の演奏だけは別格だ。  人間の創りだしたものが自然の美しさに並んだ瞬間、いや、人間の創りだしたものなんかじゃない、きっと人間の魂そのものなんだ。 僕にはセゴビアがその時、ギターという楽器を通して、彼の磨ききられた魂を僕に見せ、聴かせているんだとしか思えなかった。 自慢じゃないが、僕はこれまでおおよそクラシックなんて眠いだけの、とにかく、一級の子守歌より遙かに効果のある子守歌だと思っていた、あの「新世界より」を除いて。 それがどうだ、眠いなんてとんでも無い、これはきっと彼
の魔法か、そうでなければ彼の魂が僕に語りかけているとしか思えないのだ。
愛器アントニオ・マリーン

 後日、僕はこの日のコンサートについてAさんと語り合った。
彼は言う、「テクニックはね、もう往年の欠片も無かった。 演奏そのものは、冷静に見ればもうよれよれとしか言いようがない。 だのになんで君がそんなにセゴビアの演奏を感動を持って聴くことが出来たか、それは彼の持っている音楽と、彼の音楽に対する情熱だったかも知れないし、君の言う魂だったかも知れない。 技術は年と共に退化するけど、その人がもっている音楽性は退化するどころか円熟味を増して行くもんだよ。」 後年、僕が音楽学校で教えられた事、その本質はやはり同じことであったように思う。

 晴れて音楽学校の基本科(1年生になる前の予備課程)に入学した僕は、初めてのレッスンの時、何か弾いて見なさいと言われてカタロニア民謡を弾いた・・・・2小節弾いた時点で教授は僕の演奏を制止し、「君はここへ何を学びに来たのか?」 と尋ねた。 「ギターです。」 と答えると、おもむろにその教授は僕にこう告げた「この学校は音楽を学ぶ所です。 もし君が本気で音楽を学びたいなら、今までやった事を一旦総て捨てて、一からやり直す覚悟が必要です。 君にその覚悟がありますか?」 その日から、僕はドレミから、そう初歩の初歩からやり直す事になる。
但し、一音一音、総てに魂を込めて取り組む事を要求されたのだ。

 
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アダルトスクール

 Aさんが日本に帰った後、僕はギターを習ってみたくなっていた。
クラシックなんて考えもしなかったが、フォークギターはやってみたいと思っていたこともあって、たまたま通りがかった楽器店に置いてあった、ちょっと小さめのフォークギターを£23で衝動買いしてしまう。 僕はドラムを我流で少しだけやるが、ギターはからっきし駄目だ。 精々ドレミの位置を知っている位のもの。
 HMはマンドリンクラブにいたので、少しはギターを弾くがフォークは駄目ときている。
これではどうしようも無い。 たまたまそんな時、家内が通っていたアダルト・スクールの新規募集時期に遭遇した。 アダルト・スクールを日本式に言えば、勤労者の為の教育講座のようなもので、この辺りはカムデン・インスティチュートによって管轄されていて、スイスコテージにあるプライマリー・スクール(日本式には小学校)を利用して、夜間、色んな教室が非常に安い(タダと言ってもいいような値段だった。)値段で開かれている。 講座の種類は多種多様で語学教室(英語の他ドイツ語、フランス語、スペイン語や中国、それに日本語もあった。)、絵画、彫刻、写真・・・ショーウインドウのレイアウトや照明技術まであった。 HMは以前から英語の講座に通っていて、デッサンの教室も応募するというので、僕はこの機会にフォークギターの教室を受けることにした。 各講座、教室とも定員があるので手早く手続を済ませ、無事このフォークギター教室を受けられる事になった。 レッスンは週1回で、夜間、この小学校の教室を利用して行われる。

 初めてのレッスンの日、僕はフォークギターを持ってこの小学校の指定された教室へ向かった。
音楽室ででもやるのかと思っていたら、そこは普通の教室で、レッスン前にまず机を寄せて椅子を円形に並べることから始める。 教室の人数は10人程で東洋人は僕一人だけだった。 この事は別に驚くに当たらないが、意外だったのは、他の人達が持ってきているギターが普通のプライム・ギター(誰もが想像するクラシックギター)だった事だ・・・・・な、なんとフォークギターは僕だけ。
「えっ、ここはフォークギターの教室やろ。 クラシックギター教室ちゃうやろ?」 これはまずいなあ、と流石に一寸ばかり心臓がどきどきしてくるではないか。 
 その内、先生と思しき背が高くて、ロングヘアの格好いい女性がギターケースをさげて教室にやって来た。 挨拶をして、先生が円の中心に座り、ギターケースを開くと・・・・やはり、先生がケースから取り出したのはプライムギターだった。 「冗談やろ。」
 その後配られたテキストを見ると、コード進行の事などどこにも無い。
その代わり、クラシックギターのテキストで見たような曲が並んでいる。 結局、レッスンもまったくクラシックギターのレッスンのような感じで進められる。 そうか、フォークギターやるにもその基本はクラシックと同じなんだ、とそう理解するしか方法が無さそうだ。 そう言えば、レイモンドって、昔、聖歌隊にいたって言うイギリス人の知り合いが言ってたっけ、フォークもクラシックも基礎は同じだって。
 それから2ヶ月間、プライムギターの柔らかい音に混じって、僕の硬い鉄弦のギターの音がこの教室に響き渡る。 何故2カ月と書いたかと言うと、2カ月が過ぎた頃、先生が突然、アフリカに行くことになり、急遽、この教室が閉じられることになったからだ。 セントラルのパトリシア先生もアフリカへ行ってしまったが、一体アフリカに何があると言うんだい。

 教室は中断されたものの、僕のギターに対する思いは募る一方で、新聞の募集欄からギター教室を見付け出して、今度はハムステッドにある個人のギター教室へ通いだした。 1レッスン£2と、アダルトスクールの授業料に比べて、これはもの凄い大金を支払わねばならなかったが、その割に、やっている内容は、左手の押さえる位置確認程度の内容で、これまた1カ月もしない内に辞めた。

 
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スパニッシュギター・センター
ピカデリーサーカス

 オックスフォードサーカスからリージェント通りを南に歩いて行くと、ピカデリーサーカスに行き当たる。 初めてこれらの名前を聞いたとき、僕はてっきりピカデリーとオックスフォードにサーカス、つまり見せ物のサーカス小屋でもあるのだとばかり思っていた。 高校時代、たまたま見ていたテレビ番組でピカデリーサーカスの紹介がされていて、この時初めて、ここで言うサーカスとは見せ物小屋のあのサーカスでは無く、円形広場を意味することを知った。 ただし、これらの場所がサーカスと呼ばれた時代とは違い、今はオックスフォードサーカスったって、只の大きな十字路だし、ピカデリーだって円形にはなっていない。
 ピカデリーなんか、僕がいた頃の面影はどこえやら消えたようだ。
あの頃、エロスの像(別にいかがわしい物じゃなくて、天使が矢を放つ姿をした像のこと。)はロータリー(これも円形ではなかったが。)にポツンと小島のように孤立した小さなスペースに建っていた。
 このエロス像を右に見ながら道沿いに進むとコベントリー通りに入り、その先はコベントガーデンへ通じている。 この辺りは右も左も歓楽街で色んなものがぎっしり凝縮された、とても楽しい空間だ。 夕方、シャフツベリー・アベニューからちょっと路地を入ると、荷車に野菜を一杯載っけて売ってるマーケットがあって、よく白菜や色んなものを買いに立ち寄ったもんだ。 コベントリー通りを少し進むと、喫茶店代わりによく入ったスイスセンター。 ここは地下がレストランになってて、天井が一面ボトルで覆われている。 そのすぐ先、右手にはレスター・スクエアという小さな公園がある。 ここの公衆便所はよくお世話になった。 この界隈、僅か600メートル四方位の中に多くの映画館や劇場が林立している。 
 
 地下鉄レスター・スクエア駅の斜向いの道をちょっと入った所に、小さなうらびれた電気屋があって、カセットテープが一本30ペンス位で売ってたので、ここでよくテープを買ったもんだ。 この電気屋のすぐ横に薄暗い階段があって、階段の上にスパニッシュギター・センターという看板があるのをある日、僕は偶然見つけた。
 階段を登りきるとT字に廊下がなっていて、その壁にはギターの価格表が張り出されている。
廊下を左に行くとギターのショールームで、その隣がオフィス。 反対に、廊下を右に行くとレッスン室だろうか、部屋が2つ程並んでいる。 随分と殺風景な感じのするギター教室だったが、一応・・・・・スクールとなっていたので、ためしにオフィスへ入って行くと、髭もじゃのおっさんが出てきて応対してくれた。
「ギターを習いたいのですが。」
「まったく初めて? それとも経験は?」 
「まったく初めてと同じです。」
「ギター持ってるの。」
「持ってません。」
こんなやりとりの後、授業料の話になり、1時間£2.50だと言う。 まあ、こんなもんか、ここはアダルト・スクールじゃないんだからな。 

 早速先生を紹介してくれる。
サイモンと言う、やはり少し髭を生やした30位のユダヤ人だ。
まずはギターをと言うことになったが、一杯並んでいるギターの中からサイモン先生は2本、僕の為に選んでくれた。 一本はホセ・ラミレスと言うギターでネックがかなり太い。 もう一本はアントニオ・マリーンというので、ラミレスとは正反対にネックがとても薄っぺらい。 どちらも手工品で価格は£700(約30万円)。
「おいおい、冗談だろ。 ギターに£700だってか・・・・・・」
「もし君がギターを生涯の共にしたいなら、このクラスの物を買う事を薦めるよ。 このクラスのを買っておけば君の期待を裏切ることはまず無いね。」 と先生はいいながら、それぞれのギターで曲を弾いてくれる。
 ラミレスはちょっと甘い、しかし結構抜けのいい音で、マリーンはラミレス程抜けは良くないが、上品な感じ。 先生は、ラミレスがお薦めだが、日本人にはこのネックがちょっと太過ぎると思うので、マリーンにしてはと言う。 いくら僕が衝動買いをよくやるからと言って、ここでこんな高いギターを衝動買いする程いかれてはいない。 帰って家内と相談するよと言ってこの日は退散。

 フラットに帰って家内にこの事を話すと、「大金だけど、本気でやりたいのなら楽器は良いのを買っとかないと、絶対後で後悔するよ。」とおっしゃる。 ヨーロッパを旅する為に貯めていたお金を全部つぎ込まなければ、このギターを買ったりなんぞ出来ない。 「旅は何時でも出来るよ。」 彼女のその一言が僕を決心させた。 翌日、仕事の後僕は再びこのギターセンターへ足を運び、再度、今度は自分でギターの音を出して、結局、アントニオ・マリーンの購入を決意した。
 これ以後、週1回、サイモン先生からギターの手ほどきを受けることになった。
簡単な単音の練習から始めて、僕は毎日3時間程度の練習を続けた。 長女が生まれると、一室では手狭になったので、たまたま空いた僕達の向かいの部屋を週£6で借りることにした。 この部屋は裏庭に面していて、小さな窓からはフォードウィッチ通りのフラットのように大きな木が見え、下にはフラットの裏庭が細長く望める。 ちょっと先の建物のグランドフロアがパブになっていて、夜更けになると毎夜のように客達が大声で歌を歌う声が風に乗って聞こえて来る。

 ギターのレッスンも進み、『ショーロ』や『アメリアの伝言』なんて小品を弾けるようになった頃のある日、何気なく家内の持っていたギター教本を見ていると、「ギター合奏」なんて文字が僕の目を引いた。 他にも聞き慣れない言葉が至る所にあるではないか。 「ギターオーケストラ」「アルトギター」「バスギター」にチェンバロギター? 何じゃこれは・・・・・ 家内に聞いても詳しくは知らなかったが、僕と出逢う前、ロンドンのパーセルルームと言う小ホールで日本のギターアンサンブルの公演があって、其れを聴きに行った事があるという。
 演奏はとてもよかって、アンコールを何回もやっていたというのだが・・・・・
その教本の中に「ギター専門学校」という文字がある。 この時はそのまま、これ以上のことは何も考えなかったが、以後何度となくこの教本を見る度に、僕のこの学校に対する、そしてギター合奏に対する好奇心は徐々に膨らみ始め、年が明けるととうとうこの学校への入学を心に決めるようになる。 実際、帰国はまだ暫く先の事になるが。

 
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グリニッジ

 僕にとってグリニッジはとても親しみのある地名だ。
星が好きで毎夜のように天体望遠鏡で星空を眺めたり、世界の天文台の写真を見てはため息をついていた小中学時代。 グリニッジと言えば天文台が代名詞のように思っている人も多いが、実際の天体観測施設はサセックスにとうの昔に移され、今ここにあるのは旧王立天文台。
 東経と西経0度のこの地点は、グリニッジ標準時(GMT:Greenwich Mean Time)の地として長く親しまれて来た。 天測を基に制定されてきたこの標準時も、現在では原子時計によるUTC(Coordinated Universal Time)、つまり協定世界時にとって変わられてしまった。 僕がアマチュア無線を始めた頃はGMT表記が国際通信の基本だったが、現在ではUTCが使用されている・・・とは言え、やはり僕にとってこの地は小さい頃から憧れた地の一つである事に違いはない。

 秋も深まりかけたある日、僕はHMと一緒にこの憧れの地を訪れてみることにした。
グリニッジはロンドンからテームズを少し下った所にあるが、バスで行く方法と電車で行く方法、それに今一つ、ウエストミンスター・ピアから出ている遊覧船を使う方法がある。 僕らはあえて行きは電車、帰りはその時の気分で決めることにして、取り敢えず毎度利用しているダブルデッカー(159番)に乗り込む。 159番のバスはピカデリーを抜け、トラファルガー広場から国会議事堂の前を通る。 僕らはここで下車してから、ちょっとテームズ河沿いに歩いて、チャーリング・クロスへ。 
 この駅は地下鉄も乗り入れていて、ロンドンから東南方向へ向かう起点になる駅だ。
グリニッジまでの片道切符を買った僕達は、高架になっていてテームズを見下ろせるブリティッシュ・レイルのホームへ向かう。 このホームからはビッグベン(国会議事堂のように言われるが、実際はこの議事堂についている大時計塔内にある時報用の鐘の事。 BBCの短波放送ではこの時報をライブで流しているので、よく注意して聞くと時々、車のクラクションの音なんかも聞こえる事がある。)を始め、対岸のウオーター・ルー駅(よくワーテルローと言う人がいるが、ウオーター・ルーが正しい。)やロイヤル・フェスティバルホール等が見える。
 ホームに出て暫くすると近郊電車が入ってきた。
文化が違うと、物事の発想まで大きく違ったものになってくるのは当然のこと。 僕たちの前に入線してきた近郊電車ときたら・・・・席の配置はコンパートメント式のような対面式になっていて、ただ仕切がないだけだが、何と、それぞれの席毎(対面式なので一対毎に)にドアが付いてるではないか。 扉は細長い形の外開き式で、電車が停まると、自分でノブを動かして扉を開けて乗車する。 パリのメトロは開くのは手動だったが、閉じるのは自動。 しかし、この電車はどちらも手動だし、席毎に扉があるから、乗車前に空いてる席を見つけて扉を開けないと、座っている乗客の前を通って乗車しないといけない。 とはいえ、一斉に開かれる何十もの扉を見ていると何とも壮観。
 空いてる席を見つけ、その扉を開けて乗り込むとまずは腹ごしらえ。
まだ朝食採ってなかったんだ、とパンやコーヒーを出して食べ始めた。 歩いた時は随分と時間のかかったタワー・ブリッジがアッという間に左手に見え、この駅を出ると、まだ朝食も済まない内にグリニッジの駅名がホームに見える。 えらこっちゃ・・・・・慌てて散らかしていたものをまとめ、扉を開けてホームに出る。

 グリニッジ駅は旧天文台のあるグリニッジ・パークより西の方にあり、駅を出て左の方に歩いて行くと国立海事博物館や海軍士官学校へとたどり着く。 島で育ち、船が好きな僕としては公園の奥にある旧天文台もいいが、この海事博物館も大いに興味がある。 先ずはこの博物館を見学しなければ・・・・・似たような博物館に、神戸のポートタワーにあった(今はハーバーランドに移転したと思うが。)港湾博物館があり、ぼくはそこが大好きだった。
 色んな船の精密模型が展示されていて、これらを見るだけのためによく行ったものだ。
ここは、あの港湾博物館なんてもんじゃない。 あるはあるは、じっくりなんて見てられない・・・・しかも、海事博物館である筈なのに、ここにはターナーなど海を題材にした多くの絵画も展示されている。 
 嘗て七つの海を制覇した大英帝国。 
この博物館に限らず、ロンドンにある無数の博物館や美術館を見るたび、この国の国力の凄さに圧倒されてきた。 展示物や保有物、その質量共に並々ならぬものがあると言うのに、その殆どが無料か、精々安物のお菓子を買う程度のお金で見られるのだ。 これらの博物館の所蔵品のほんの欠片が来ただけでも、日本でならどれ程のお金を支払わないと見えないか。
 もっとも、これらの多くは嘗てこの国が世界から略奪・・・失礼、ぶんどって来たものである以上、この国はこれら人類の貴重な遺産を見せるために儲けてはいけないとも思う。 これらをベストコンディションで維持出来るだけの努力は必要であって、誰もが気軽にこれらと接する事が出来る環境作りは彼らの義務でもあるように思う。 そして、少なくとも僕には、彼らはよくその義務を果たしているように思うのだ。

 この海事博物館にはぜひ会ってみたい恋人?がいる。
と言っても、その恋人は人ではないのだが、僕が中学の頃、一隻の帆船プラモを作った事がある。
美しく優雅で気品のある、その船の名はカティーサーク。
 カティーサーク号は19世紀に英国東インド会社によって、東南アジアから紅茶の葉などを運ぶために造られたクリ
ッパーと呼ばれる高速帆船で、4本のマストを持った細長い船体に、船底には銅板が一面に張られている。

ロックスの町並み
 残念ながらこの船が完成して間もなく、時代は風たよりの帆船から蒸気船へと移って行った。 そのため、この船は以後もっぱらオーストラリアからの綿花輸送に携わることになった。 
 オーストラリアのシドニーの街中を歩いていると、古い家の窓先に細かい模様の手摺りを見かける事が出来る。 特にサーキュラーキーからロックス界隈には多いが、実はこの手摺り、この時代に帆船のバラスト(重り)代わりに英国から運ばれてきたものだと言う。 帆船は高いマストを持ち、どうしても重心が高くなるため、英国からオーストラリアへ空荷で航海するのは危険なため、この金属製手摺りを船底に積んでオーストラリアに向かい、帰りは綿花などを満載してバラストにしたと謂う。                                        
 船の中には当時のいろんな道具が保存されているが、船倉だっただろうか、そこには船首像(フィギア・ヘッド)が並べられている。 映画なんかではよく見たもんだが、実物を見られるとは、しかもこの手に触れられるのだ。 カティーサークとは関係無いが、こうしてフィギア・ヘッドに手を触れていると、嘗てみた数々の海洋活劇映画が僕の瞼の裏に蘇って来る。 そのどのシーンにも必ず決まって、これらフィギア・ヘッドが風を切りながら荒波を乗り越えて行く様子が収まっている。 

 後日、僕たちはポーツマスに保存されている戦艦ビクトリア号を見に行った。
この船はもっとずんぐりした形をしていて、カティーサークから女性的な官能美を感ずるとすれば、このビクトリアは雄大で大らかな、それでいてどこか気品の漂う男臭さを感じたものだ。
 1805年10月21日、大英帝国艦隊はスペイン南西のトラファルガー沖でスペイン、フランスの連合艦隊を迎え撃ちネルソン提督指揮するビクトリア号を旗艦として大勝利を収める。 残念ながら、ネルソンは海戦中に受けた敵の銃弾で倒れ、船底の狭い空間で戦死する。 提督の部屋や作戦室の豪華華麗さに比べ、彼が戦死した船底の空間は、屈まねば歩けない程狭い空間だった。 ロンドンのトラファルガー広場はこの戦勝記念に造られたものだ。 英国らしいなあと思ったのは、この船は現在もロイヤル・ネイビーの船籍に登録されていて、いつでも作戦に参加出来るよう整備されている・・・・という説明だった。 確かに、この船を案内してくれたのは海軍の水兵さんだった。


カティーサーク号 ビクトリア号

 海事博物館を楽しんだ後、僕らはその裏に広がるグリニッジ・パークでサンドイッチの昼食とした。
僕らの目の先、ちょっと小高い丘(メーズ・ヒル)の上には旧天文台が見えている。
 ちょっと急な小道を登って行くと、古風な建物の旧天文台にたどり着く。
天文台そのものの機能はとっくにサセックスに移されているので、今は機能していないが、中には六分儀などの古い観測用具が展示されている。 昔、図鑑や星の本なんかで中世の天文台の様子を描いた挿し絵を見たもんだ。 現代の最新機器を装備した天文台に行くと宇宙の神秘を感ぜずにはいられないが、このような場所に来てみるとむしろ星空への浪漫を感じてしまう。 でも、僕はひょっとして、宇宙じゃなくて、このような空間(観測所)の空気に憧れていたんじゃないかって、ふとそんな思いが僕の頭をよぎった。
 そうそう、旅行滞在記編とエッセイに仕切っているインデックスのページに載せてある写真、あれはグリニッジの、かの有名な、グリニッジ標準時を示す時計を写したものです。

 さあ、帰りはバスで帰ろう。
ウインピーでチップスをTake Away、(そうTake Outじゃなく、英国ではTake Awayなんですね。)して、バスが来るまでの間、二人で揚げたてのチップスを頬張ったのでした。
チップスは塩を振りかけるのもいいが、ビネガにつけるのも美味いんだよね。

 
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