始めに音楽ありき

 僕が通っていた小学校は当時、コーラス部が結構有名で色んなコンクールで入賞していた。  ラジオにも出た事があったと思うが、そんな小学校の6年の時、音楽の授業で一人ずつ皆の前に出て歌を歌うというのがあった。 僕らのクラスの担任は、そのコーラス部の顧問でもあり、その日は先生が弾くピアノに合わせて歌わなければならなかった。
 僕の名前が呼ばれると、僕はちょっと緊張したまま、正面の黒板の所まで出て行き、みんなの方を向いてお辞儀をする。 一呼吸おいてから先生のピアノ伴奏が始まった。
 伴奏に合わせて歌い始めた僕をみて何故かみんな大笑いし始めた・・・・・が僕には何故みんなが笑うのか、その理由がさっぱり判らない。 みんなと一緒にコーラスで歌っている時は誰も笑わないのに、何故、僕が一人で歌うとみんなが笑うのか? 
  この大きな疑問が解けたのは、僕が中学校へ上がり、GSブームに載って僕もその真似事のような事に手を染め出してからだった。 もっとも、僕はドラムをやるという事で、1年の時、町にある楽器店で当時28,800円のパールのドラムセットを買った。
 別にドラムを習いに教室に通った訳でも、教本を買った訳でもなく、テレビやラジオ、レコードを聴いてドラムのリズムをコピーして覚えたのだ。 この時期になって初めて「そうか、あの時の僕の歌には音程ってものが伴って無かったな、みんなと歌う時はみんなの歌に引きずられて何となく採れてた音程が、一人になったとき、自分が基準にする音が無くなってしまい、全く無音程に近い歌い方をしていたんだ」という事に気付いた。

 人は誰であれ多かれ少なかれ、その心の中に自分の愛する歌なり曲なりの音楽を秘めていると思う。苦しい時、悲しいとき、そして嬉しいとき、その時々に色んな音楽が僕達の心の中にあって、時には慰め、時には力付けたりしてくれる。 心の中で歌う時も有れば、一人で大声を出して歌う事もあるし、仲間と一緒に声張り上げて歌う事もあるし、逆に、テープやレコード、最近ならCDなんかで聴く事もある。
 僕の家には蓄音機と電蓄(電気式蓄音機)があった。
その蓄音機や電畜から流れてくる音は、とても現代の進歩したオーディオ製品から奏でられる音に比較出来るようなしろものでは無い。 それどころか、当時、友達の家にあったコロンビアのアンサンブルステレオで初めて聴かされた、ザ・タイガースの『モナリザの微笑み』は少なからず僕に衝撃を与えた。やがて、トランジスタ、つまり石の入ったオーディオの時代となり、ディスクリート4チャンネルなんてものが流行かけるが頓挫・・・・・・僕は高校になって、トリオのセパレート型ステレオセットを買ったが、それまで知っていたアンサンブルステレオの音に比べ、そのシャープな音の切れに驚いたものだ。 
 新しい製品が出た、新しい方式が開発されたと聞くと雑誌を見、町の電気屋やレコード屋へその製品を見に行って、そこから出てくるだろう音を勝手に想像する。 今にして思えば、当時の僕はステレオ装置を音楽を聴くための道具として捉えると云うより、その装置そのものに心がいっていたように思う。 だから、自分では少しでもいい音を聴きたいんだと思っていながら、実の所は、では一体どんな音が自分にとって良い音なのかなんて意識も考えることも無く、各メーカーのキャッチコピーに翻弄させられていただけ。 自分がしっかりと追い求めるもの、つまり絶対的な基準がないのだから、これはもうメーカーの思うがまま。 新しいのが出て、ここが良くなりましたと言われれば「成る程」と解ったように自分を納得させる。 

 僕がロンドンに滞在中、たまたまクラシックのコンサートに出かける機会が出来た。
つき合っていた彼女から誘われて、ロイヤルアルバートホールという所でのロンドンフィルの公演だそうで、曲目が「新世界」と言う、僕も知っている曲だったので出かけて見ることにした。 しかも、天井桟敷とは言え入場料が40pととても安かった。
 学生時代、フルートとピアノの奏者が学校に来て、体育館で演奏したのを聴いた事があったが、僕にとってクラシックとは眠い音楽以外の何物でも無かった。 併し、今回はフルオーケストラでしかも、指揮者が何でもレナード・バーンスタインと言う巨匠らしい。
 何故、そんなに眠気を誘う音楽を聴きに行く気になったかと言うと、僕の高校時代の級友にクラシックが好きな奴がいて、丁度「遙かなるテームズの流れ」にも書いたが、3年の文化祭で僕たちはビートルズをやる事に決め、彼のお寺へ楽器を運び込んだ事があった。 その時、彼の部屋で聴かされたのがカラヤンとかいう指揮者の振る「新世界」だったのだ。 その時、彼からやれバーンスタインだのルービンシュタインだの、挙げ句にブルーノ・ワルター等という訳の解らない実に悪そうな名前の指揮者を教えられた。 そのような事はどうでも良いが、この時聴かされた「新世界」は何故か眠気も来ず、それどころか、最後まで聴き入ってしまった。
 そんな訳で、あの曲なら生の演奏を聴いてみたいと思い、出かけることにしたのだ。
その時のようすは「遙かなるテームズの流れ」に書いているのでここでは触れないが、このコンサートで僕が聴いた音、そして演奏はあのグリンデルワルトでクリスマスの夜に見た星たちの美しさに決して引けを取らないものだった。 特に第二楽章ラルゴの美しさは例えようも無く、敢えて例えるなら、夕暮れ時か日の出前に見ることが出来る金星の輝きにも似て、今も僕の心の奥底に深く刻み込まれている。

 僕はこの時以来、帰国してからも含め何度かオーディオ装置の買い換えやグレードアップ(実のところこの言葉にも色々疑問を持っているのだが)を行っているが、再生装置同士での比較はやめ、例えばオーケストラを聴く時であれば、指標をこの日聴いた音におくことにしているし、アンサンブルならロイヤルフェスティバルホールに併設されている、パーセルルームやクイーンエリザベスホールで聴いた演奏を、ギター独奏なら僕が専門学校時代経験した幾つものホールでの音を指標にして比較するようにしている。 
 目前に並んでいる装置同士で実際に音を出して比較するのに比べ、かなり感覚的な手法になるのは否めないが、よくよく考えて見れば、装置同士の比較であっても、聴く環境が変われば音はガラリと変わる訳だし、音楽を聴くと言うこと自体、余程専門的か仕事上での何かでもない限り、非常に情緒的感覚的な行為であるわけだ。
 そこで再生される音を、自分の中にもっているそれと比較してみてもし、違いが分からないとか、変化が無いと感じれば現状維持。 これはいいと思えば・・・・やはり暫く現状維持を続け、暫く時間をおいてから再度、その音を聴いてみる。 それでも、前に聴いた時と同じ感動を受ければちょっと買い換えを考え始める。

 原音に忠実な再生が出来れば、それだけコンサートなりその演奏の雰囲気もリアルに再現出来る筈。
所が、残念ながら原音を100%そのまま無色透明のまま録音、再生出来る装置など存在しない。
仮にそのような物が存在したとしても、我々ユーザーが使う無数にある機種どれでも同じ結果が得られるなんて事は限りなく不可能に近いし、幾ら装置側で原音忠実再生をした所で、再生する部屋の環境によっても大きな影響を受けてしまうから、本当に忠実な再生なんてやったらどの装置も、どの部屋も同じようになってしまって実に無味乾燥した殺伐な世界になってしまうだろう。 それに、そうなったのではオーディオ各社の競争は価格と機能、サイズだけのものになってしまい、実につまらないものになってしまう。 そこから出てくる商品だって実に味気ないものになってしまうだろう。
 何でもそうだと思うけれど、真実(この場合原音)は一つであっても、それだけを追求すると言うことは一見、奥の深いことのように思えるが、実は非常に単調で面白くない(少なくとも僕にとっては)作業のように思える。 何せ、幾ら到達が不可能であっても、目的地が見えているんだから。
 趣味の面白い所は、各自が自分の自由にいろんな想像を働かせて自分が満足ゆけるものを作り出す事であり、そのことが第三者にも共感を得てもらえればより楽しい。 そんなことではないかと思う。 だから、真実はどうであれ、自分が求める音を求めて行けば、誰から見てもそれなりに納得、理解の得られるあるレベルのものが出来上がって来るものだと思う。

 ただ、これまで書いたことにはある前提があるということを書かねばならない。
その前提というのは、本当に音楽が好きであると言うこと。 音楽の知識があるないって事はあまり関係なく、好きかどうかってことです。 
 知識がどうとか耳がどうとかなんてことは別にして、音楽が好きでオーディオをやっている人が揃えている、組んでいるシステムを聴いていると、その人の音楽に対する姿勢が見えてくるように感じる時がある。 その音が僕の好みかそうでないかは別にして、あるポリシーみたいなのを感じることがある。 反対に、装置に走ってしまって、あまり音楽についての興味も無く、原音再生?とやらに拘っている人の音で、一体この人はどんな音楽を聴こうとしているのか、どんな方向へ進もうとしているのかサッパリ理解出来ない場面に遭遇する事もある・・・・それでも、その方は「自分は〜の音楽が好きで・・・」とおっしゃる・・・・僕が鈍いせいかも知れないのだが。
 具体例を上げると、僕はクラシックギターを一時期、死に物狂いでやった時期があって、下手ながらも何度も大きなステージにギターオーケストラの一員として出させて貰った事がある。 合奏も独奏も、ステージからの音、客席からの音をいやと言うほど聴いた時期が5年続いた。 ある時、ひょんな事から某オーディオマニア氏の家にお伺いした時、その方ご自慢の自作スピーカーセットで音楽を聴かせて頂いた。 相当大型のそのセットから出てくる音、クラシックギターの独奏を聴いているのだが、僕にはどう聴いてもエレキギターのように聞こえて来る。 しかも、音の定位が惚けているせいか、横幅3〜4mはあろうかと思えるような大きなギターに思えた。 その方は僕がギターをやっていた事をご存知無かったのだが、「生ギターのリアルな音がするでしょう。」と僕に同意を求めて来た・・・・・「ギターの演奏会に行ったことあります?」
「演奏会は無いな、でも友達がギター弾くのでそれは聴いた事がある。」
続いてチェンバロ・・・・「えっ、これがチェンバロの音?」と驚いている僕に、
「迫力が違うだろう全然。」
「はい、凄い迫力だ」 但し、実際のコンサートでチェンバロがこんなに凄い迫力で聞こえる事は無いし、ここまで本来の音をよく殺したものだと言う関心でした。

 本物を知らないで、想像で物を作り上げるということはとても難しい事だ。
いい方向に向かっていれば良いが、一度方向がずれてしまえばとんでもない方へ向かってしまう。
昔、ギターを学んでいた頃、恩師がよく言ってたもんだ「努力するならいい方向に努力しなさい、間違った方法で努力すればする程、悪い癖が身について修正しにくくなるだけです。 間違った方法の努力ならしない方がいい。」。
 もっともこれはプロを目指す学校の授業であるから、このような言葉が出るのであって、趣味の世界ではそんなにシビアな事は要求されないし、本人が楽しめればそれでいい訳だから、人がどうのこうの言う筋合いのものでもない。

 と、ここまでは音という点について僕の考えを書いてきたけれど、音楽ってのは音さえ良ければいいってものじゃないですよね。 ここで一つ質問があります。 これから新しいCDなりレコードなりを買う場面を想像して下さい。 ショップに出かけてみると同じ曲でもいろんな演奏者、いろんな録音のものがありますね。 これらの中で自分が欲しい曲の入ったCD(又はレコード)が2種類しかなく、一つは録音が古く音も今一つだけど、自分の気に入っている演奏。 もう一方は最新録音で雑誌にもその音質の良さが強調されていた、でも、演奏はそれ程でも無いことが分かっている。 さあ、貴方ならどちらのCDを購入しますか?
そりゃあ状況によって違うよっていう場合もあるとは思います。 つまり、例えばBGMに使うなら音質のいい方で、じっくり聴くなら音は今イチでも気に入った演奏がいい・・・・その逆もあるかも知れない。 でも、ここではそんな細かい事は考えず、要するに演奏内容と再生音質、どちらを優先しますかということ。 
 僕の場合は演奏内容を重視します。
理由は簡単で、高音質によって得られるメリットと、演奏内容の重要さを秤に掛けたら、演奏内容の方が僕にとっては重いから。 ある演奏を聴く場合、その音質だけを聴いているなら音質重視の盤を買うでしょうけれど、実際にはその演奏者の表現方法だとか演奏者同士の掛け合い、色んな事を聴きながらその演奏状況を頭に描いている訳で、結果的にやはり自分が聴きたいと思う演奏内容の方を重視することになる。 
 但し、内容が全く予想出来ないようなもの同士で選択を迫られた時は、音質優先で買う事はあるでしょうね。 勿論、説明書き他、いろんな情報をもとに検討するけれども、訳の分からないものを買うときはやはり音質が良いのに越した事はない。

 単純に音が生の音にさえ近ければ良い・・・・それが難しい事なんでしょうけれど、でも、そうとも言えない場合もあるのは僕だけだろうか? 人には人それぞれ違った人生があって、それぞれ自分の体の中に違った音の記憶を持っている。 例えば、僕には小さい頃聴いた蓄音機や電蓄の音、それに友達の家でよく聴いたアンサンブルステレオの妙にこもった(ボンついた)中音などなど。 本来の音とはかけ離れている筈なのに、今の再生装置で聴く音に比べたらまるで酷い音の筈なのに、何故か愛着を感じている。
 それは、自分の過去への郷愁や、慣れ親しんだ音への愛着もあるだろうし、例えば映画の中でたまたま聴いた曲で、それが蓄音機から流れてきた曲だったような場合、その映像と音が記憶の中に焼き付いているので、その曲を聴くときには何故かその時のような音で聴きたいと思ってしまう。
 僕の場合、イタリア民謡なんかは蓄音機の音で聴きたいと思うときがある。
昔、僕が小さい頃観たモノクロ映画で『旅愁』だったろうか? 違うかも知れないが、ナポリを見下ろせるような場所にあるレストランのテラス・・・遠くに霞んで見えていたのはベスビオ山だったのだろうか、机の上に蓄音機が置いてあって曲が流れている。 何の曲だったかなんて憶えてないが、そのイメージがイタリア民謡の僕のイメージ。 
 実際にイタリアを旅して僕が感じたこの国のイメージ、それはやはり最新のステレオから出てくるクリアで抜けの良い音のイメージではない。 あの映画で観た、いや聴いた、ビクターのトレードマークのようなあの蓄音機で掛けられる音のイメージだった。 
 このような事を書くと、「おいおい、さっき書いてた事とえらく違う事を書いてるじゃないか。」って言われそうだけれど、そうなんですね・・・・・矛盾があるんですよね。 だから余計、ややっこしくなる。

 CDやレコード、テープだってそう。
最新録音の生唾が出そうな迫真物は勿論、素晴らしいんだけれど、昔の録音で、音は実際の音と程遠い筈なのに何故か魅せられてしまうのってあります。 何というかとてもまろやかで、耳当たりが良くて・・・・それでいて、その世界に引き込まれてしまいそうになる。 逆に雑音が多くて、硬い音のものでも、演奏や歌が良ければそんな粗が表だって来ない、気にならないし、時にはそんな不要である筈の音まで愛おしくなる。 人形浄瑠璃を見ていて黒子が気にならないのと同じ? 何でもない景色も、雪が降ると別世界のように魅力的になる事があるけれど、昔の録音も色んな粗が隠されてしまい、耳当たりが良くなるのかも知れない。

 っと、そうなるとですね、僕らが、例えばこれは誰それの歌だと聴いているもの、それは実際の誰それの声とはかけ離れた音かも知れない。 僕らが知っている、 CDなんかで聴くその誰それは勿論、誰それが録音したのだから誰それの歌っているものには違いないんだけれども、僕らが魅せられているのは、ひょっとしたらその誰それの歌ではなくて、CDやレコードに録音された、本物とは違った音の誰それかも知れない。
 レコードやCDの次元で既に違ったものになりかけてるんだから、各自の持っている装置、それを置いてある部屋の環境、いろんな要素でますます違った音へ変化して行くだろう事は想像に難くない。
 一般的には本物に勝るものは無いのだけれど、その本物を自分の家の中で完璧に再生出来ない以上、ある歪みを覚悟の上で僕らは音楽を聴くしかない。 この歪みを少しでも本物に近付けようと努力する場合と、どうせ歪んでるなら自分の心地よいように歪ませようとする場合、どうしていいのか解かんなくてフラフラしてる場合、それすら考えずただ漠然と聴いてる場合、他人や評論家の意見に翻弄されてる場合・・・・・色んなケースがあるように思う。
 何れにしても、自分が満足出来ればそれで良い訳で、本人はシンフォニーをフェスティバルホールのこの辺りで聴いてるような音を目指していると言いながら、聴いてみると、どう考えてもこの楽器がこんなバランスで、いやその前にこんな音量、迫力で聞こえる筈が無いとしても、本人が良しとすればそれで良いのが趣味の世界だし、だから、色んな人の音を聴かせて貰っても、良くも悪くも飽きが来ない。