船  出
ジェルジンスキー号の乗船券

1974年7月14日 午前6時30分。
 その朝、けたたましいベルの音と共に僕は目覚めた。
いつもなら目覚まし時計のベルを止めて、牛乳配達のバイトに出かける支度をするところだけれど、今僕がいる所は横浜、山下公園の正面にある横浜グランドホテル。 そして今鳴り響いたベルの音は愛用の目覚ましではなく、六時半を知らせるモーニングコールだった。 眠い目を擦りながら上半身をベッドの上で起こすと、隣のベッドで寝ていた与坂氏もどうやら目覚めたようだ。
 昨年の夏、スイスのベルンで知り合った彼は、僕の出発予定を知ると彼の友人2人と共に東京から横浜に駆けつけてくれ、昨夜、中華街で夕食をご馳走してくれた。 その後、僕と同じホテルに泊まり、夜遅くまで色々な
ことを語り合ったのだった。 彼の友人達は仕事の関係で朝食も摂らずにホテルを出たが、与坂氏は僕の両親と一緒にホテルのレストランで朝食を摂った。
 このレストランからは横浜港が望め、僕がついた席の丁度正面に、これから僕が乗るソビエト極東汽船所属ジェルジンスキー号の白い船体が見えている。 この航路には本船の他バイカル、ハバロフスクの二船が就航しており、五木寛之の小説『青年は荒野を目指す』では主人公がバイカル号でヨーロッパへと旅立つ。
 ホテルをチェックアウトした後、僕は一人で横浜出入国管理局に出かけて出国手続きの後、憧れていたバイカル型のこの船に乗船した。 船体にポッカリ開いた乗船口までタラップを登り、高鳴る鼓動を抑えて船内に入るとそこはサロンだった。 ブロンドで背の高いキャビンアテンダントが僕のボーディングカードをチェックした後、まるで何百年もそこに敷かれているのではないかと思いたくなるような、擦り切れたカーペットを踏みしめながら僕の船室(キャビン)に案内してくれた。 案内されたキャビンにはすでに先客がいると見え、スーツケースやキスリングザックが置かれている。 どうやら皆デッキにいるらしく、キャビンには誰もいない。 荷物を置いて上階のボートデッキに飛び出した僕が、港の送迎デッキにいる両親と与坂氏を見つけ出すのにそう時間はかからなかった。
 やがて出帆の合図のドラを叩きながら船員が僕の後ろを通過して行くと、僕の近くに陣取っていたバンドが演奏を始めた。 トロイカが流れ、数曲のロシア民謡の後、蛍の光が始まる。 総頓数4,800頓程のジェルジンスキー号がゆっくり大桟橋の岸壁を離れるに従って、それまでぐっと垂れ下がるように弧を描いていた何百本ものテープが、徐々に直線になりやがてピンと張ったかと思うと、プツプツと切れて行く。
 船の別れというとどんな時も何かもの悲しさを感じるものだ。 そもそも僕は淡路という島育ちであるので、船による人と人の別れを数限りなく見てきた。 僕が小学生の頃はまだ集団就職花盛りの頃で、あの頃は港のことを汽船場と呼んでおり、実際に神戸〜洲本航路に就航していたのは『はやぶさ丸』とか『天女丸』とか言った蒸気船だった。 「ボー」という汽笛とカラフルなテープ、このピンと張ったテープがまるで、これから就職で都会に出て行かんとする人々と見送りの人々の絆を必死に繋ぎ留めようとしているようで、そんなテープも『蛍の光』が鳴りやむ頃にはすべて切れてしまい、悲しい、しかし希望に満ちた海に一条の虹の如く漂っている光景が今も僕の脳裏から離れない。  *『天女丸』は
てんじょうまると読む。
 この船が向かうのはナホトカ。
ジェルジンスキー号と僕

古くからロシア太平洋艦隊(昔は極東艦隊と言ったのかな。)の母港として知られるウラジオストックの北東にある港町で、我々のように船でロシア入りしてヨーロッパへ旅しようとする者達が真っ先に降り立つ異国である。
 やがてバンドの演奏も終わり、見送りの人達の顔が一つの景色に溶け込んでしまい、船は東京湾を太平洋に向けて快走し始めた。 さっき登ってきた階段を降り、階下のアッパーデッキにある僕のキャビン(124)に戻ると、すでに同室の人達は皆戻っていると見え、狭いキャビンで3人の男達が荷物の整理をしている。
 僕がキャビンに入ると、キスリングザックの整理をしていた一人が振り返りざま「まいど!」と威勢良く挨拶をしてくれた。 僕は思わず「おいど!」と、
当時関西で流行っていた横山プリンのギャグで挨拶を返す。 荷物の整理が一段落するのを待って、皆で何か飲みに行こうということになった。
 この船のキャビンは4層になっていて、下から2ndデッキ、ミドルデッキ、アッパーデッキ、そしてボートデッキにあるデラックスルームというプランになっている。 僕たちのキャビンはアッパーデッキにある一室で、船尾にバー、船首にはサロンがある。 因みに、昨年僕が予約していたのは2ndデッキの一番安いキャビンだった。
 キャビンを出て右に少し行くと、その突き当たりがバーになっており、僕たちはカウンター席に一列に座った。  僕はまだ未成年だったのでコーラを注文し、暫し色んな話をした。 この中で一番若いのは僕で、その上にさっき「まいど」の挨拶をくれた初田君。 22歳の彼は、今回の旅行の為に海上自衛隊を辞めてきたとのことで、少しドイツ語を話す。 その上は石田と言う27になるインテリアデザイナーで、狭い日本に燻っていず、自分の力を海外で試してみたいと言う。 そして最後の一人はハインツというドイツのおじさん。 京都の寺で修行をしてきたそうで、頭を丸めており、見事な日本語を話す。
 船が東京湾から太平洋に出ると少し揺れ出してきた。
その頃には話の内容がそれぞれの自己紹介から、旅の目的、これからの夢の話を経て、これからの3日間、退屈な船の上で何をして過ごすかということになっていたが、過ぎてみると2泊3日の船旅はとても快適なものだった。
 僕たちのキャビンは4人部屋でお世辞にも広いとは言えないが、海側に窓が一つに小さなテーブル、ドアを挟むようにして二段ベッドが二つある。 僕のベッドはキャビンに入って右の上段。 キャビンはこのように狭いが、僕たちがこの船旅を期待以上に楽しめたのは、この船がモノクラスというシステムを採用していたからに他ならない。 つまり、キャビンについては船賃によって厳然と等級というものが存在しているのだが、これらキャビンを一歩出てしまうと食事も含め、他の施設でも等級差別は一切無い・・・・・と謂うものだった。
社会主義ってこんなことなのかと、それがたとえ上っ面の一面を見ただけであっても、その時は妙に納得したりした。

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悪  戯

 昼はサンデッキで日光浴をし、夜は楽しいディナー。
幾つかの楽しみはあるとは言え、比較的小型で狭い船内にいるとどうしても食事時間が非常に重要で楽しみな時間となってくる。 特にディナーはフルコースのロシア料理であり、田舎育ちの僕にとってはまるで王様になったような気分。 船のレストランはミドルデッキにあり、テーブルには同じキャビンの連中とつくようになっているが、この至福の一時を僕たちは話し尽きない多くの話と、一寸した悪戯を楽しんだ。
 僕たちがこのレストランのお世話になるのは日に4回で、8時半からの朝食、12時半からの昼食、4時半にあるティータイムに夜7時からのディナーとなる。 ブロンドの髪にグリーンの瞳、まるで人形のような民族衣装風の制服を来たウエイトレスはとても可愛いのだけれど、皆何故か無表情な気がしてならない。 この印象はどうも僕だけでは無かったようで、「きっと公安警察かKGBに見張られてるんだ」とか「外国人とは話さないように言われているんだ」「言葉が解らないから」果ては、「僕たちが不男だから相手にされないのだ」などと説得力のある意見まで飛び出した。 そこで、何とかして彼女の笑顔を見たいということになり、僕たちはその方法について大いに議論した。
 出航日のディナーの時、いつものように無愛想に出された前菜を食べ終わった僕たちは、各自の食器を1カ所に集め、通路とは逆の方(僕達のテーブルは船の舷側側だったので、通路の反対側は壁だった。)に置いた。 彼女がどんな顔をするのか楽しみにしながら待っていると、ハインツさんが悪戯そうな目つきで僕らに軽い目くばせをする。 足音が近づくにつれ、僕のわくわくする気持ちはだんだん不安へと変わっていった。 「もし機嫌を損ねて怒鳴られでもしたらどうしよう」・・・・・・皆の顔を見ると、やはり僕と同じ気持ちなのか、ハインツさんまでやや不安げな顔をしている。 程なくテーブルまでやって来た我らがウエイトレス嬢は、壁側にまとめて置かれた食器をみた瞬間、戸惑いの表情は見せたものの、すぐにいつもの無表情に戻り、一寸取りずらそうに食器を淡々と片付けていく。 僕らはこの方法をこのディナーが終わるまで続けた。
 食後、何事も無かったかのようにレストランを出た僕たちは、まるで悪ガキが悪戯をして逃げて来た時のような心境で、ホッと胸を撫で下ろしたのだった。 そう謂えば、これは小さい頃、通学路にあった柿やミカン、琵琶を失敬して来た時の心境によく似ている。 しかし、僕らの作戦はまだ始まったばかりなのだ。 そう、次の作戦は翌日の朝食と昼食に予定されていた。
 昨夜と変わりない調子で食事を終えた僕達は、早速、第二次作戦に取りかかった・・・・・・と言っても、何のことはない、食後、前と同じように集めた食器を、今度は通路側にまとめて置いておく。 それも、彼女が片付け易いよう、十分の配慮をしてである。
彼女がこちらに来る合図をハインツさんがしてくれる。 でも、今度は僕らに何の不安もない。 「さあ、今度は笑顔でも何でもいいから、違う表情を見せてくれ。」っと願いつつ、ちょっと彼女の顔に目をやると、彼女はちょっとはにかんだ様子を見せた後、またもや無表情に食器を片付けて行くではないか。
 僕らにはまだ最終作戦が残されている。
いよいよ最後の夜、最後のディナーがやって来た。
第二作戦の要領で僕達が食器をまとめていると、どこで見つけて来たのか、初田君が日本、ソ連、ドイツの国旗(と言っても、地図帳に載っているような小さな物。)をテーブルの上に並べた。 説明するまでも無く、僕らはすぐさま楊枝を3本用意し、旗を楊枝に取り付けた。
そして、残り物の上に3本、一点から放射状になるようにこの特製国旗を差し込んだ。
 いつもの合図がハインツさんから送られると、何故か心臓の鼓動が高鳴って行く。 ひょっとしたら、この鼓動が彼女にまで聞こえてしまうんじゃないだろうかと思える程に高まり、その鼓動に合わせるかのように彼女の足音が僕らの方に近づいてくる。 
彼女がいつものように食器に手を出しかけたその時、僕達の希望を載せた国旗群に気付いたのか、それまで無表情だった彼女の顔が、まるで北極の氷が崩れ落ちるかのように見る見るほころび、今まで見せたこともない笑顔に変わった。 間髪置かず4人で「ダルセダーニャ」。
これが今まで僕らが知っていた、我らがウエイトレス嬢かと思うほど陽気な声で「○×△□・・・・・」。
僕らの最終作戦は初田君の名案で大成功に終わったのだった。

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希  望

出航した日の夜、サロンでショーがあるというのでキャビン仲間と出掛けることにした。
 サロンでは既にショーが始まっていると見え、タキシードを着た5人程のバンドマンがロシア民謡を演奏している。 たぶん彼らは皆船員だと思うが、別に司会がいる訳でもなく、ただ淡々と演奏を続けている。 僕らは空いている席を見つけて座り、暫くは演奏に聴き入っていた。 その内、特設ステージの傍らから恰幅のある、まるでオペラ歌手のような婦人が歌いながら登場して来た。
 彼女はその素晴らしい美声と、圧倒的な声量でロシア民謡をある時は豪快に、そしてまたある時は哀愁を込めて歌った。 途中、船客と一緒になってジェンカを踊ったり(流石にちょっと古いなあと感じたのは僕だけ?)した後、ショーの最後に「私が一番好きな歌の一つです」と日本語でコメントの後、『希望』と言う、僕が初めて聴く歌を歌い始めた。 「希望と言う名の 貴方を訪ねて 遠い国へと また旅に出る・・・・・」日本語で切々と、しかし力強く歌われる彼女の歌を聴いているうちに、僕の目から頬にかけて何かこそばゆいものがスーと、まるで流れ星が走り去るように駆け抜けて行く。
 実は、僕には高校2年の時から憧れている女がいた。
その女は僕の友人のお姉さんで、僕より5つ年上。 気丈夫で唐竹を割ったような性格の女だが、ある日僕が自分の写真を彼女の部屋に勝手に飾ったことがあったが、結局彼女はこの写真を僕が日本を離れる日まで、その場に飾っておいてくれたそうだ。 何故僕が彼女への想いを憧れと書いたかと言うと、『希望』を聴いているうち、それまで抱いていた彼女への憧れというものが、これから自分が進もうとしている未知の人生、未知の出逢いの方に向けられつつあることを僕はこの時、認識したのだ。 だからこの歌を聴いている時、この歌の中に僕がみたものは、彼女への未練などと言うものではなく、未だ確固として見えてこない自分自身の夢を探し続けようとする自分の姿であった。

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入  港

 船が波の荒い津軽海峡を経て日本海へ入る頃には、他のキャビンの人達とも親しくなり多くの仲間が出来ていた。 ヨーロッパを半年かけて旅すると言う2人ずれの大学生や、フランスの大学で2年程語学を勉強するという女性、イルクーツク経由でカトマンズに入り、トレッキングをする予定の女性、アジアを旅して日本を最後にスイスのチューリッヒへ帰る途中という2人のスイス人女性・・・・・・・等など。
 3日目の朝、僕達がキャビンにいると隣のキャビンの連中が、前方に山が見えてきたとわざわざ知らせに来てくれた。 早速、ボートデッキに上がってみると、操舵室の上に何人か上がって船首方向を見ている。 同室の仲間を促して僕たちもその場所へ駆け上がってみると、真っ正面に丁度僕の故郷である淡路島で見るような山並みが霞んで見え、その麓に小さく裏日れた港が見える。 どうやら引き潮らしく、防波堤やその奥に見える桟橋がとても高く感じる。 釣り人達が眺める中、白い船体のジェルジンスキー号はゆっくりナホトカの港に入っていく。
 船が港に着くとサロンで入国審査が行われた。
昨年のヨーロッパ旅行で入国審査や税関検査は経験していたものの、鉄のカーテンで覆われていた当時のソビエトへの入国は少しだけ緊張する。 木製の、古そうな机に無表情な姿で腰掛けている審査官を見ていると、1年前の旅行で見たスイスやイタリアの審査官の陽気な姿というものが、まるで異星人のようにすら思えて来る。 学生時代、ずっと落ちこぼれで過ごした僕は、この国の歴史につてあまり知るものは無いけれど、嘗てこの国に吹き荒れた粛正という嵐の余韻を感ぜずにはいられなかった。 勿論、ものごとの一部断片だけを見て判断することの愚かさは分かっていても、少なくとも感受性が今より豊かだった時代の僕にとり、主観は客観より遙かに勝るものであった。
 船内での入国審査を済ませて下船すると、僕たちはそのままバスに乗せられシベリア鉄道の駅に向かった。 これからの予定は、まずシベリア鉄道のロシア号でハバロフスクへ行き、ここからアエロフロート機(エアロフロートが正しいのかな。)で一気にモスクワまで飛び、モスクワで2泊した後、空路アムステルダムへということになる。 本当ならこのシベリア大陸を鉄道で1週間かけて横断したいところだが、高校の時、一々全てのチケットやホテルのブッキングを旅行社経由でやった経験から、その煩わしさにうんざりしていたため、結局、今回はアムステルダムまでのセットで予約したのだった。

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