グリンデルワルト  

 翌朝早く目覚めた僕達はグリンデルワルトへ向かうため、ベルン中央駅を目指す。
グリンデルワルトへ行くにはスイス国鉄の列車でインターラーケン・オストにまず出て、そこからは山岳鉄道に乗り換える。 インターラーケンはトゥーン湖とブリエンツ湖に挟まれた、そう、丁度鳥が飛んでる姿を正面から見ているとしよう、その翼に当たるのが両湖で、胴体部分がインターラーケンに当たる。
 去年のようにユーレイルパスを持っている訳ではないので、山岳鉄道の割引は受けられない。
チケットを購入して、路面電車のような山岳鉄道BOBに乗車する。 この駅からグリンデルワルトへは半時間ちょっと。 町中は雪はないものの、遠くに見える山々は雪化粧・・・・それも飛び切りの厚化粧だ・・・嬉しいような、今夜の事を思うとやりきれないような。 やがて電車はゆっくり動き出し、スイス空軍施設を横目に、アルプスの方へ向かって行く。  スイスの中でも僕はベルナー・オーバーラントと呼ばれるこの辺りが大好きだ。 僕は別に登山が趣味な訳ではないが、ここにはアイガーやメンヒ、ユングフラウと言った名峰が幾つも軒を連ねている。 しかも、僕のように登山など全く心得の無い者でも、登山鉄道で簡単にユウグフラウの展望台(ユウグフラウ・ヨッホ 3454m)に立てるのだ。
 電車がツバイリュチーネ谷に入って来ると、辺りが段々と雪景色になってきた。
電車の両側に谷が迫って来ると、正面にはヴェッターホルンの勇姿が見えてくる。 右斜め前にアイガー、その又右にユウグフラウが見える頃には辺り一面銀世界。 「おー雪だ雪だ、クリスマスだー・・・・」と心は躍るが、今夜は何処で寝ようと、頭の中では昨年の記憶の中から、いいねぐらを思い出そうとする作業が無意識に開始される。 気軽に彼女をスイス旅行に誘ったとは言え、今度はベルンと違い、雪だらけなのだ。 明日無事に生きたまま目を醒ます事が出来るんだろうか・・・・・僕の頭の中に『フランダースの犬』の最後のシーンや、『マッチ売りの少女』の最後のシーンが走馬燈のように突然駆けめぐる。 「おいおい、全部最後のシーンで天国行く場面ばっかじゃないか、縁起でもない。」 時々、そんなとんでも無い想いを、登山電車の歯車の軋み音が遮ってくれる。

 やがて電車はグリンデルワルトへ。
この駅の正面にあるホテルに去年は泊まった。
ごろ寝か一泊700〜800円の安宿に泊まって続けたあの旅で、唯一僕が贅沢をしたのがこのグリンデルワルト。 一泊2,600円と、僕にとっては破格の大枚をはたいて泊まったホテル。 大した理由じゃなかった、ただ、目覚めた時、部屋の窓からアイガーがデーンと見えるだろうと思って、ただそれだけ。
 今回はそうも行かない。
電車を降りた僕達は、いつものように荷物をロッカーに預け、メインストリートを村の奥の方へゆっくり歩いて行った。 ベルンの時とやる事は同じで、ねぐら探しよりまずはグリンデルワルト教会との再会が先だ。 ただ、前回とは違い、歩きながらねぐらにいい場所を漁りながらあるく。 それもゆっくりと。 時折雪の中を踏みしめるように歩くと、何故か僕の足先に鋭い痛みのようなものを感じる。 やがてその痛みのような感覚が痺れのように感じ出してくる。 「まずい、靴に隙間が出来てて、雪が靴の中に入って来る。」靴を買うにも、商店街からはちょっと離れ、もう教会のすぐ近くまで来てしまっている。 結局、僕はそのままで教会まで歩き、久々の再会を果たした後、ねぐらを先に探す事にした。
 去年の旅では気付かなかったが、電話ボックスがある。
電話ボックスといっても、一人しか入れないものではなく、建物になっていて、中に入るとボックスが幾つも並んでいる。 入り口を入ると広い空間があり、床はコンクリートながら、中は暖房が良く利いている。
ラッキー。
 夜開いているかどうかは判らないが、取り敢えずねぐらを確保した事で靴探しだ。
今来た道を再び駅の方へ歩いて行く。 商店街の一角にある靴屋の店先でワゴンセールをやっている。 ブーツが32フラン(当時のレートで約2,400円)であったので迷わず購入。 「ああ、これがクリスマスプレゼント?」

 そうだ、明日はクリスマスイブやで。
クリスマス 僕の頭にイメージとして沸いてくる光景は幾つかある。 まずカトリック幼稚園に通っていた時の聖劇の事。 僕が通っていた幼稚園の園舎や聖劇を演じた遊技場は今も当時のまま残っており、ロンドンへ旅立つ前、僕はたまたまバイト先の用事でこの幼稚園へ立ち寄った。 幼稚園の前はしょっちゅう通るものの、修道院に入るのは卒園以来だったろうか。 戸を開け中に入ると昔見慣れたマリア像が僕を迎えてくれる。 奥から出てきた年老いたマザーが僕の顔を見るなり 「まさひろ君」と一言。 「ひさこマザーですか?」 彼女は僕が幼稚園の頃、いろいろお世話になった方で、僕が卒業後は違う幼稚園に移られ、フランスに行っているとも聞いていた。 
 懐かしい話のついでに聖劇の話となり、遊技場へ行ってみようと言う事になった。 昔と何ら変わらぬ遊技場に入ると、僕の頭の中にある時間観念というものがまるでジュールベルヌのタイムマシンにでも乗っているかのように、グングンあの時代に遡って行く。 だが残念ながら、いくら僕の頭の中の時間観念があの頃に戻ろうとも、当時は大きく感じられた階段や舞台の一つ一つが、これまでの時間の流れを否応なく僕に語りかけてくる。 無神論者の僕ではあるが、今でも僕にとってのクリスマスのイメージと言えば、間違いなくあの遊技場で行われた聖劇であり続けている。
 そしてもう一つのイメージ、それは小学生の頃に見た『野ばら』や『フランダースの犬』『マッチ売りの少女』に出てくるようなものだ。 やはり同じ頃のイメージとして、アメリカを舞台にした陽気で愉快なクリスマス、ウオルト・ディズニーやトム&ジェリーのクリスマスバージョンの世界がある。
 僕がまだ、夜が魔物の世界だと信じていた頃、やはりサンタクロースの存在も信じていた。
このサンタクロースは夜の内にプレゼントを持ってきてくれる筈なのだが、どう言う訳か、このサンタクロースと魔物の存在をクリスマスの夜だけは何の違和感もなく僕は信じていた。

 夕方になると僕達は村の中心部から少し外れたカフェに入った。
山小屋風に作られたカフェの中はこれと言ったクリスマスの飾り付けもなく、多分、このカフェが出来た頃からこの場所にあるのだろう、十字架上のキリスト像が一つだけ、柱に掛かっている。 何時までいたのだろう、夜が更けるに従って徐々に客の数も減り、やがて僕達だけになった。 彼女との話がポツンと途絶えた時、ふとあのキリスト像が僕の目に映った。
 このちっちゃな十字架像を見ていると、『野ばら』に出てくるあるシーンが僕の瞼に浮かんでくる。
ウイーン少年合唱団を題材にしたこの映画は、実際にこの少年合唱団が出演していて、映画の中では彼らの天使の歌声も随所に散りばめられている名作だけれど、その中のあるシーン。 主人公の少年が川に落ち、修道院のベッドに寝かされている。 ベッドの横には小さな窓があり、その右横の壁には僕が今見ているような像が掛けられていて、合唱団の世話をしている女性がキリスト像に祈りを捧げている。 やがて、雲に隠れていた陽が窓を通して部屋の中に差し込み、その女性とキリスト像(マリア像だったかな?)を優し
く包み込む。 ウイーン少年合唱団の歌い声が陽の光と共にクレッシェンドされ、それがクライマックスに達したとき、ベッド上の少年は息を吹き返す。
 もの想いに耽っている内に店の閉店時間になったようだ。
ぼく達は寝袋を抱えたままカフェを出て例の公衆電話ボックスに向かった。 
幸い電話ボックスの明かりがついている。 扉を開け中にはいると暖房も良く利いている。 コンクリートの上に寝袋を引き、寝袋に腰まで入ってまた色々と話をする。 ふかふかのベッドや枕、風呂は無いものの、暖房が利いているお陰でまるで天国だ。 ただ、一つだけ難を言えば、この明かり、一晩中つきっぱなしだったことと、夜中に管理人のような人がやって来て起こされたこと位。 もっとも、おこされたと言っても声を掛けられたからではなく、ドアの開く音がしたので目が覚めただけで、このおじさんは、そのまま寝てなさいと言ったようなジェスチャーをしてそっと扉を閉めて去っていった。
クリスマスイブ

 夜が明けるとクリスマス・イブ。
去年行ったユングフラウ・ヨッホへ登る予算は無かったので、村の中をぶらぶら散歩して午前を過ごしていたが、ここに来てどうやら風邪を引いたらしい。 ベルンでの最初の夜(2日目は商店街の地下通路で寝たので寒さは無かった。)の冷えと、靴に雪が入り込んで足が冷えていたためだろう。 
 折角のクリスマス・イブでもあるので宿に泊まろうということになった。
村の奥の方に入った所にある、スイス民家風のホテルで聞いてみるとOKだと言う。 僕らの泊まるホテルだから価格は安い。 朝食付き1泊¥1,600.−だから、僕らにしては結構高い感じだが、熱のある身でこの雪の中を探し回るにはちとしんどい。 部屋はとても広くて、バルコニーがついている。 窓からはヴェターホルン、シュレックホルン、アイガーが間近に見える。
 今夜はベッドでゆっくり寝られるし、カフェで閉店まで時間つぶしなんざしなくて良いと思うと元気百倍。 薬を飲んでさあ・・・・・また外に飛び出した。 駅に預けてある荷物を取りだし、ホテルに帰る途中でケーキとワインを買って帰る。 夕食の後、僕達は教会のミサに出るためホテルを出た。
 ミサは毎回違った言語で何回か行われ、僕達は7時からのミサに参加するが、それはドイツ語によるもの。 教会の真ん中当たりの席に腰掛けると、どうやら東洋人は僕達だけらしかった。 やがて、神父が出てきていよいよミサの始まりだ。 僕が小さい頃からカレンダーや本で何度も見てきた教会。 去年も中には入っているが、この教会
グリンデルワルト教会
の神父を見るのが初めてなら、ましてミサに出るのなど始めて。 昔はよく思ったものだ 「この教会の神父ってどんな人?」 僕にとって説教の内容や賛美歌の意味などどうでも良かった。 ただ、幼稚園の頃、毎日のように教会で祈りを捧げた時のあの、何故か心がシンと落ち着く感覚、この十何年かぶりに味わう感触、そして、ここに現れた神父の姿は、僕が通っていた幼稚園にいた神父と変わらぬものだった。(当時の神父はフランス人の大司教で、白い顎髭を長く伸ばしたお爺さんだった。 何時も黒い服に黒い自転車で町中を走り回り、野菜や何やとご自分で買い物をしておられた。) 洲本から遠く離れたスイスの山中の教会で、しかも解らぬ言葉のミサに参加していると言うのに、何故か僕の心はまるで小さい頃、母の背中に背負われていたときのように和む。
 
※冬の旅に載せてある写真は総て、僕が高校時代の一人旅で撮ったものばかりです。  実をいうと、キャノンとポラロイドはロンドンに着いて暫くしてから、知り合った英国人 に売ってしまい、以来、オリンパスペンEEというハーフサイズカメラを使っていた。  カメラの不調に気づかず、幾らかの写真を撮ったが、ロンドンに帰って現像して見る と全くダメ。 思い出は家宛の一枚の絵葉書と僕達の心の中にだけ残る事になった。

 ミサの後、教会を出て空を見上げると、木々のシルエットの間から無数の星が、まるで自分達の美しさを競い合うように光り輝いている。 そう言えば、この村では外に飾ったクリスマス・ツリーを見なかったが、夜になれば辺りの木々総てがこんなに美しいツリーになってしまう。 (この頃僕はまだ、この星達を言いようのない美しさで見る事の出来る目を持っていた。 それは星に限らず、草花や木々に付いた朝露、それに、冬の寒い朝に屋根などから垂れている透明な氷柱に朝日が当たって発するあの虹のように美しい光もそうだ。 しかし、たまたま僕が眼鏡を掛けねばならなくなった頃からだろうか、どうやら僕の心にもやや曇り気味の眼鏡を掛けてしまったようだ。 あの頃、僕が何処にでも見出す事が出来たこの上もなく美しいもの達も、この曇った眼鏡ではその本来の美しさの半分も感じる事が出来なくなってしまったように思う。)


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