1973年7月22日

 「ほな、行って来るな。」
ひょいと右手を挙げ、見送りに来てくれていた叔父、従兄弟、そして母に向かって挨拶をした僕は、伊丹発東京行きの搭乗ゲートに向かって軽い足取りで歩き出した。 細い通路を少し歩くと、これから乗る予定のB−727の姿が見えて来た。 そして、通路の先に、夢にまで見た飛行機の搭乗口が現れる。
 「飛行機や飛行機や・・・・」
これから一人で欧州を旅する緊張感より、飛行機に乗れる事への期待と緊張感、喜びで一杯だった。
スチュワーデスに迎えられて、中に入ってみると機内が意外と狭いのに驚いた。  ボーディング・カードに記された17Fのシートを見つけ早速席につき、シートベルトをする。 「窓際や窓際、やったね。」  機内に響いてくるジェットエンジンの音が実に心地よい。
 「さあ、これで何時出発してくれてもええで、機長早いとこたのんます。」
やがて、機の搭乗口が閉じられるともう心臓はバクバク、腕時計とにらめっこしながら、いつ機が動き出すのか、カウントダウンでもしたくなるような心境。 カックンと少しのショックと共に機がゆっくり後退を始めた。 誘導路を進み、やがて滑走路に入ってから「当機はまもなく離陸いたします・・・・」のアナウンス。 「さーあ、遠慮無く離陸してや。」 と、緊張の一瞬。 これまで経験した事もないようなGを感じたかと思うと、機はぐんぐんスピードを上げ、フワッとした感覚の後一気に急角度で上昇して行く。 アッという間に地上の建物が小さくなって、空に浮いてる雲が近くなり、その雲が僕の眼下に広がるまでに時間はかからなかった。
 B−727はジェットエンジンが機体後部に2発ついているから、翼にエンジンを吊り下げた格好のDC−8や747とは違い、旅客機とは言ってもジェット戦闘機のような感覚じゃないか、と僕は想像していた。 飛行機の乗るのは初めてだから判らないけど、この感覚は絶対に戦闘機の感覚に近い。

 「やったな、とうとうここまで漕ぎつけたよ。」
高校生の内に一人で海外を旅してみたいと思うようになり、最初は貨客船でのアジア旅行を考えた。
神戸にある山下汽船という会社が貨客船を何隻か持っていて、約40日〜60日のアジア周遊クルーズをやっていた。 これに乗るのも面白そうだと思っていたが、考えてみれば、これでは団体旅行と大きな違いはない。 何もせずとも、船が自動的に僕を乗せて廻ってくれる。
 そこで、今度はシベリア経由で欧州を旅することに思い至った。
生まれて初めて読んだ五木寛之の小説『青年は荒野を目指す』、これの影響が大きかった訳だが、早速、神戸は三宮にある阪急交通社に出掛け、シベリア経由のカタログやスケジュール表を貰ってきて僕なりにスケジュールを検討してみた。 7月14日横浜港を出るジェルジンスキー号でナホトカに渡り、ここからシベリア鉄道でハバロフスクとモスクワを経由して欧州のどっかの街へ出る。 そうさなあ、あの小説のようにヘルシンキに出るのもいい。 そして欧州を旅して帰りも同じコースでナホトカからは9月5日同港発の、ジェルジンスキー号で帰る。
 なかなかいい計画だと自分では考え、直ぐ交通社にこの予定での予約を頼んだ。
シベリア経由のセット物もあったが、僕は個人で旅する方法を選んだので(と言っても、当時のソ連邦は完全な個人旅行は許可されてなくて、インツーリストの監視?下に置かれていた。)、予約毎にケーブルチャージが結構必要。 船に鉄道、モスクワでのホテルまでいちいち予約を入れていく。 パスポートは自分で申請した方が安いですよと言うので、申請書だけ貰って自分で手続きしてソ連のビザも取った。

 全ての予約がOKでた所で、校長に許可を得なければならない。
学校を休まねばならない以上、黙って行く訳には行かない。 担任(僕が入っていた柔道部の先輩であり顧問でもあった。)は僕が何故、何の為にバイトをしているか知っていたが、流石に、このスケジュールを聞いて渋い顔をした。 「まっ、校長に話してみるから、後はお前の交渉次第や。 伊達に授業中居眠りばっかりしてバイトしとった訳でもないやろ。」
 その翌日、早速というか、親同伴で呼び出しを受けた。
「息子さんの成績を拝見しましたがね、英語なんか落第点以下ですな。 これじゃ、旅行どころか生きて帰ってこれんのと違いますか?」 ・・・・・両親には辛い思いをさせたと思う。 所が、僕の両親が校長に言ったことは、「息子がこれだけハッキリした目的意識を持って、旅費も自分で作って頑張ってきた事を考えると、ここで反対はしたくない。 今回の旅で何か掴んで帰ってくると信じてますから、なんとか理解願いたい。」と言うような事だった。
 流石に校長も「こりゃ言っても駄目」と思ったのか、あくまで夏休み期間内で旅を納める事を条件に了解してくれた。 「校長としてこんな無謀な事を許可する訳にはいかんので、私は聞いてなかった事にして欲しい。 但し、もし何か問題があったら、私が責任を取るから遠慮無く君がやりたいようにやればいい。」

 了解はとったものの、急遽、スケジュールの変更をしなければならない。
直ぐに交通社へスケジュール変更の連絡をして、船の日にちを7月21日発で帰りは8月29日でお願いした。 これでも始業式は休まねばならないが、僕にとって限界の妥協点だった。 だいいち、船に3日、シベリア鉄道で8日、それからヨーロッパに出るのにまた時間が掛かる。 これで往復するのだから、これ以上日数を少なくしたのでは、向こうで旅する日数があまり取れない。 数日後、交通社からあった連絡の内容は、残念ながら船のチケットが取れないというものだった。
 慌てて、今度は安いフライトチケットを出している大学生協に電話したが、高校生は駄目との返事。
参ったもんだと思案に暮れている時、交通社から電話が入った。 お世話になっているSさんからだ。
「エアー・オンリーと謂うのがあるんですが、団体旅行の往復だけ参加して貰うという物です。 通常は22万円ですが、特別価格でチケットお取り出来ますよ。」 ああ、神は見捨てて無かった。 話を聞いてみると、7月22日羽田発北回りパリへ、帰りは8月13日アテネ発南周りで、羽田へは14日着。
すぐにお願いして、同時にローマ−アテネの航空券もお願いした。 現地での移動は列車を予定しているので、欧州17カ国を自由に乗って廻れるユーレイルパス(21日有効)を頼んだ。

 かくして、僕はこの飛行機に乗っている。
羽田でその団体さんと合流し、僕はその往復だけ同乗させて貰うって寸法だ。

 
JAL403便


 ヨーロッパへのフライトは22:30だってのに、羽田に15時頃着いてしまった。
時間はありあまる程あるが、それまでにちょいと東京見学という程の時間もない。 その前に、なんて言うか、聞こえてくる言葉が聞き慣れない標準語で人間まで冷たく感じてしまい、街に出る気も起こらない。 
 空港内をうろちょろしながらタップリある時間を潰し、やっと集合時間が近くなったので集合場所へ。
いるいる、お決まりの旅行ケースを持った人達がツアー・コンダクターらしき人からパスポート貰ったりチケット貰ったりしている。 そこへキスリング・ザックに寝袋を背負った僕が合流・・・・なんか場違いな気がする。
添乗員は二人いるらしく、その内の一人が僕に往復のチケットを渡してくれた。 
 チェックインをして出国手続きを済ませると、その先はもう日本であって日本ではない。
旅に出る前から免税店をウロチョロする人が多いのには閉口したが、僕はベンチに腰掛けて、長い夏の一日が暮れて行くのを眺めていた。 考えてみると、こうやって陽が暮れていくのを一カ所からじっくり眺めているなんて事はここ何年も無かった事だ。 
 景色はすっかり暗闇の中に沈み、陽の光に代わって人工の明かりが空港を浮かび上がらせている。
時折、大きな音を立ててジェット機が離陸したり着陸したり、そして構内放送・・・・・腹減ったなあ。
伊丹で母達と昼食を摂ってから何も食べていない。 夕食時はとっくに過ぎているが、飛行機に乗ったら、離陸後すぐに食事が出るだろうに、ここで無駄金使うほど僕の財布は豊かではない。
 
 待ちに待った搭乗のアナウンス。
搭乗ゲートからすぐ乗るのかと思ったら、一階に下りて、バスで飛行機の所に行くらしい。
外に出ると、空港の明かりがあるとは言え結構暗い。 バスに揺られてしばらく走ると、目前に大きな機体が見えてきた。 3年前、中学の修学旅行で見たのと同型の飛行機、B−747だ。
 「でかいなあ」
さっき乗った727とは大違いだ。 バスから降りて、タラップを登ろうとすると、添乗員が旗を振りながらなにやら叫んでいる。 どうやら記念写真を撮るらしい。 と言っても、僕は別行動なので関係ない。 さっさとタラップを登って機内に入ると、「広い」。 「やっぱ、727と大違い。」で、近くに駐機しているDC−8の屋根を見下ろせるではないか。

 僕の席は36C。
ちょうど非常ドアの所で、席の前が広く空いていてスチュワーデスの席と向かい合わせになっている。
さっそく席について安全ベルトをして、さあ後は夕食を待つだけや。
やがて例の団体さん達が乗ってきて、僕の隣にも二人のおっさんが腰を下ろした。
 窓際の人はお坊さんのようだ。
見ていると、なんと椅子の上に正座し始めた。 おいおい、おっさん、それじゃあ安全ベルトちゃんと出来んでしょうがと思ってると早速、通りがかったスチュワーデスが「お客様・・・・・・」。
 機は1時間近く遅れて離陸し、真っ暗な空を飛行し始めた。
程なく、待ってました待望の夕食、いや生まれて初めての機内食だ。
これから約6時間かけてアラスカのアンカレッジまで飛び、ここで1時間待機した後、北極経由アムステルダムまで8時間、ここで又30分ほど待機してやっと僕の目的地パリへ着く。 ただ、この403便はロンドンが最終地で、僕が便乗した団体さん達はロンドンまで行く。
 機がアンカレッジに近ずくにつれ、はや陽が昇って来た。
それにつれ眼下の景色が判るようになり、海面が遙か下方に広がっている。
高度1万メートルの世界・・・・・先の大戦でアメリカの重爆撃機、B−29が飛行したのはこの1万メートルだ。
ジェット機でこそ楽々この高度に上がれるが、レシプロ機ではエンジンへの空気供給の制限を受け、当初、この高度まで上昇してまともな空戦の出来る戦闘機は日本には無かった。 それに比べ、米軍の戦闘機はすでにターボ搭載のものが出来ていたと聞く。 あの有名な0戦ですら、その最適空戦高度は3千メートルだった事を考えると、この高度の凄さが解る。(最も、重爆撃機相手に戦うには0戦の得意とする巴戦でなく、一撃離脱に有利な強力エンジン搭載の堅固な戦闘機が必要だった。) 勿論、戦争後期には数々の迎撃機を日本も開発するが時すでに遅く(エンジンも問題だらけで)終戦に至る。

 「皆様にお知らせいたします。 当機はまもなくアンカレッジ空港への最終着陸態勢にはいります。」
窓の外を見るが、厚い雲の中に入っていて自機の翼すら見えない。 機はガタガタと揺れ、まるで出来損ないの車でガタガタ道を走っているようだ。 ちょっと不安になるが、向かいに座っているスチュワーデスが楽しそうに話しているのを見ると少しは安心する。
 突然、窓の外が明るくなったかと思うと、それまで視界を覆っていたドス黒い雲が切れ、下界に不毛の土地のような景色が広がった。 シベリアだと言われれば信じてしまうような光景、これがアラスカか。 ガタガタの揺れがスッと収まり、滑るように空港の滑走路に着陸する。 「セスナが多いなあ。」
僕の頭には「兼高かおる世界の旅」で見たアラスカの色んな光景が過ぎる。 この大地のどっかに、TVで見たあの光景の場所があるんだろうなあ。
 搭乗口を出てゲートを通り、サークル状になった空港の建物に入ると土産物屋がある。
あるある、一杯珍しい土産物があるけど、こんな所で土産物を買ってる場合じゃない、いやそんな余裕も無い。  ぶらぶら歩いてると、日本のうどん屋さんがあるじゃないか。 「こんな所にも、日本の店があるんやなあ。」と思いながらも、足早にその場を去った。 

 アンカレッジを出て暫くした頃、機内アナウンスでマッキンリー山が見えると言うので慌ててカメラを用意して、その山を探す。 雲海の中、白い雪に覆われた山がまるで竜安寺の石庭にある石のように、その頭の部分だけ覗かせている。 これじゃあ雲の色に沈んで山の姿も生えないなあと思ってると、ふと雲の切れ目にさしかかった。
翼の下には見事な氷河が見える。 すかさず窓越しにパチリ。
 何時間過ぎたろうか、下界は果てしない氷の世界が永遠と続いている。 一見、平和そのもののこの氷の世界も、一度、この氷の下を覗いてみると、きっと米ソの戦略潜水艦が凌ぎを削る、まさに冷戦の世界。 この北極海底航路を開いたのは世界発の原潜「ノーチラス」。
1958年の事だ。 熱帯の海底に棲息するオウムガイから名をとったこの潜水艦が、北極点を潜航したまま通過したのだから皮肉な話。
 そんな事を考えてると、スチュワーデスが大きな封筒を配っている。
僕にも手渡されたその封筒を開けると、中には色紙のようなものが入っている。 何々・・・・「北極圏通過証明証」。 そうか、サンダル履きにジーパン、Tシャツ着たままで北極圏を通過出来る時代だ。
 映画が上映されるという。
シドニー・ポワチエ主演の『いつも心に太陽を』だとからしいが、音声を聞くにはヘッドフォンを借りなければならない。 73セント・・・・まあ、映画を見ると思えばそんなもんだろうけれど、やめときましょう。 話好きの隣のおっさんや、スチュワーデスと話している方が幾らか楽しい。 しかしこのおっさん、あろう事か、スチュワーデスに、彼女らがしているマフラーとエプロンを譲ってくれと言い出した。 「これは業務用でございますから。」と困惑する彼女に執拗に食い下がる。 結局、販売している同じような物を購入する事で一件落着したが、「あの姉ちゃんが付けてるから意味あるのになあ。 姉ちゃん、解っとらん。」と僕に耳打ちする。
「ちゃいまっせ、おっさん。 そんな事、あのスチュワーデスさん、解ってまんがな。」とは流石に言わなかったが・・・・・ああ、こんなおっさんがアムスの飾り窓なんかに行ったらニタニタしながら、あの界隈をうろつくのやろなあ。 

 機はグリーンランド上空を通過し、長かった氷原上空から再び海に出る。
ノルウエー海から北海を抜けると、その先に欧州大陸が横たわる。 アムステルダムはもうすぐそこだ。
それまで快晴の空を飛んでいたのに、大陸が近づくと雲が多くなり、運河できめ細かく仕切られたアムステルダム上空に達した頃には、アンカレッジほどでは無いにせよ、薄曇りになった。 アムスのスキポール空港では35分の待機の筈だったが、何でも荷物検査の遅れで離陸は2時間遅れとなった。
 パリまでは45分のフライトで、パリ到着予定時間は午前11時10分。 当地の気温17℃、天候は雨。
「気温17℃で雨・・・・ってかい。 夏やで夏。」 なんちゅうこっちゃねん、雨の中、ホテル探しでっか。
そう、当たり前の話ではあるが、ホテルの予約なんざしてないから、着いたらまずは塒探しをしなきゃなりません。 まあ、いざとなれば雨を凌げる場所でごろ寝すればいい。
 
「皆様、当機はこれよりパリ、オルリ空港に向かって着陸態勢に入ります。 当地の気温は17℃、天候は雨との報告が入っております。」